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2 リヴィア視点
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初めて会った日のことを、よく覚えている。
あの人は、街の片隅で倒れていた。
夜の帳が下りかけた、帰り道。
私は灯籠の光を頼りに歩いていて──ほんの偶然、彼を見つけた。
血の匂いと、焦げたような魔力の残滓。
誰かに襲われたのだと、すぐにわかった。
貴族の服を着ていたけれど、身分を語ることはなかった。
それでも私は、迷わず彼を自分の部屋に運んだ。
「どうして助けたのかって?」
私は視線を落とした。
寂しかったからーー本音は言わなかった。
「だって……」
それに、あのとき、私にはどうしても、彼を放っておけなかったのだ。
「名は?」
熱が下がり始めたころ、彼がそう聞いた。
無愛想で、ぶっきらぼうで。
でもその声には、かすかに迷いがあった。
「私はリヴィア。あなたは?」
彼は少し間をおいて、目をそらすように言った。
「……名乗るほどの者じゃない」
「ふうん。じゃあ、呼び名どうしようか」
勝手に椅子を引き寄せて、彼の隣に座ったとき。
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そんな顔を見るのは、後にも先にもそれが最初だった。
そして私は思ったのだ。
この人も、きっとひどく孤独なんだって。
小さな部屋で、静かに日々は過ぎていった。
彼はほとんど口を開かなかったけれど、
夜になると、窓辺で黙って星を見上げていた。
私はその隣に座りながら、思っていた。
──この時間が、ずっと続けばいいのに、と。
それが、最初の願いだった。
◇
彼は、何も語らなかった。
名前も、過去も、なぜ傷ついていたのかも。
私はそれを責めなかった。
問い詰めたところで、彼はきっと答えないだろうと、最初からわかっていた。
だから、私は代わりに話した。
私の名前、育った孤児院の話、拾った猫の話、
魔法に憧れて、本を盗み読みした話。
「……文字を読めるのか」
そう呟いた彼の目に、わずかに驚きが浮かんだ。
「うん。変かな?」
「……いや」
「貴族の世界では、平民が文字を読んだら怒られるの?」
「本を読むのはいいが、魔法を使ったら罰される」
彼はそれ以上、何も答えなかった。
その沈黙が、答えよりもずっと重く感じられた。
それでも、私たちの時間は静かに流れていった。
ある日、私は魔法を見せた。
火を灯す魔法。ほんの小さな火種だったけれど、
それを見た彼は、なぜか目を逸らした。
「あなたにも魔法、使えるんでしょう?」
「……そうだ」
「教えてくれたらいいのに」
「……教えない」
「どうして?」
「君が、それを使えることがばれたら──君は捕まって処刑される」
それが初めて、彼の声に怒りが混じった瞬間だった。
私は、何も言い返せなかった。
ただ、胸の奥が痛んだ。
そんなに私のことを心配してくれる人は、
それまで一人もいなかったから。
その夜、私は彼に聞いた。
「あなた、何者なの?」
彼は少しだけ、考えるように天井を見上げて──
それから、ゆっくりと、こう答えた。
「ただの……何者でもない人間だよ」
「じゃあ、私と同じね?」
「ああ、そうだ」
そのときの彼の顔を、私は今でも覚えている。
月明かりの中で、ほんのわずか、口元が緩んでいた。
きっと、それは微笑みだった。
──あの人が初めて、私に向けてくれた。
たった一度きりの、笑顔だった。
◇
季節が、ひとつ変わった。
彼がうちに来てからずいぶん経ったころ、
私はある日、ふと思ってしまったのだ。
──このまま、ずっと彼と暮らせたらいいのに、と。
彼は、朝になれば外に出て、夜に戻ってきた。
身分を隠して働いているのだろうか。どこに行っているのか、私は聞かなかった。
けれど、帰ってきて最初に目を向けるのはいつも私で、
「ただいま」も言わないくせに、椅子の背もたれにそっと手をかけていた。
言葉ではない何かで、
彼はいつも、ここに“戻ってきて”くれていた。
その日は、雨だった。
私は小さなミスで魔力を暴走させて、指先を少し焼いてしまった。
ほんの切り傷だ。それでも彼は、何も言わずに私の手を取って、
じっと、見つめていた。
薬を塗る手が、震えていた。
「……痛かったか」
「平気。ほら、もう大丈夫」
「……二度とするな。魔法を……使うな。見つかったらどうするんだ」
「心配してくれるの?」
「……当然だ」
私は笑ってしまった。
彼がそんなふうに怒るのは、とてもめずらしかったから。
そして、つい、言ってしまった。
「じゃあ、ずっとそばにいてよ。
私が魔法なんか使わなくて済むくらい、
あなたが、ずっと守ってくれたらいいのに」
沈黙。
その一瞬の静けさに、私は何かが変わる音を聞いた気がした。
彼は私の手を放さなかった。
そのまま、目を見つめてきた。
──まっすぐに。
その瞳の奥に、言葉よりも深い何かがあった。
「……そうしよう」
「え?」
「君が望むなら、そうしよう。……どれほど罪深い願いでも、私が叶える」
その夜、彼は初めて私に触れた。
燃えるように熱い指先だった。
それでも私は、少しも怖くなかった。
けれど、幸福は長くは続かなかった。
数日後。
町に、王宮の紋章を掲げた馬車が入った。
何気なく耳にした言葉に、私は凍りついた。
「逃げた王太子の捜索だそうだ。情報を提供した者には、褒賞金が出るとか」
──そのとき、すべてが、繋がった。
家に戻ってきた彼に、私は言った。
「ねえ……あなた、本当は誰なの?」
彼は一言だけ、こう答えた。
「……もう、逃げられない」
その夜、彼はひとりで出ていった。
「すぐ戻る」とも、「待っていろ」とも言わなかった。
ただ、扉の前で一度だけ振り返り──
まるで、もう二度と戻らないことを知っているような目で、私を見つめた。
私は、その瞳を最後に見た。
そして、彼は二度と帰ってこなかった。
あの人は、街の片隅で倒れていた。
夜の帳が下りかけた、帰り道。
私は灯籠の光を頼りに歩いていて──ほんの偶然、彼を見つけた。
血の匂いと、焦げたような魔力の残滓。
誰かに襲われたのだと、すぐにわかった。
貴族の服を着ていたけれど、身分を語ることはなかった。
それでも私は、迷わず彼を自分の部屋に運んだ。
「どうして助けたのかって?」
私は視線を落とした。
寂しかったからーー本音は言わなかった。
「だって……」
それに、あのとき、私にはどうしても、彼を放っておけなかったのだ。
「名は?」
熱が下がり始めたころ、彼がそう聞いた。
無愛想で、ぶっきらぼうで。
でもその声には、かすかに迷いがあった。
「私はリヴィア。あなたは?」
彼は少し間をおいて、目をそらすように言った。
「……名乗るほどの者じゃない」
「ふうん。じゃあ、呼び名どうしようか」
勝手に椅子を引き寄せて、彼の隣に座ったとき。
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そんな顔を見るのは、後にも先にもそれが最初だった。
そして私は思ったのだ。
この人も、きっとひどく孤独なんだって。
小さな部屋で、静かに日々は過ぎていった。
彼はほとんど口を開かなかったけれど、
夜になると、窓辺で黙って星を見上げていた。
私はその隣に座りながら、思っていた。
──この時間が、ずっと続けばいいのに、と。
それが、最初の願いだった。
◇
彼は、何も語らなかった。
名前も、過去も、なぜ傷ついていたのかも。
私はそれを責めなかった。
問い詰めたところで、彼はきっと答えないだろうと、最初からわかっていた。
だから、私は代わりに話した。
私の名前、育った孤児院の話、拾った猫の話、
魔法に憧れて、本を盗み読みした話。
「……文字を読めるのか」
そう呟いた彼の目に、わずかに驚きが浮かんだ。
「うん。変かな?」
「……いや」
「貴族の世界では、平民が文字を読んだら怒られるの?」
「本を読むのはいいが、魔法を使ったら罰される」
彼はそれ以上、何も答えなかった。
その沈黙が、答えよりもずっと重く感じられた。
それでも、私たちの時間は静かに流れていった。
ある日、私は魔法を見せた。
火を灯す魔法。ほんの小さな火種だったけれど、
それを見た彼は、なぜか目を逸らした。
「あなたにも魔法、使えるんでしょう?」
「……そうだ」
「教えてくれたらいいのに」
「……教えない」
「どうして?」
「君が、それを使えることがばれたら──君は捕まって処刑される」
それが初めて、彼の声に怒りが混じった瞬間だった。
私は、何も言い返せなかった。
ただ、胸の奥が痛んだ。
そんなに私のことを心配してくれる人は、
それまで一人もいなかったから。
その夜、私は彼に聞いた。
「あなた、何者なの?」
彼は少しだけ、考えるように天井を見上げて──
それから、ゆっくりと、こう答えた。
「ただの……何者でもない人間だよ」
「じゃあ、私と同じね?」
「ああ、そうだ」
そのときの彼の顔を、私は今でも覚えている。
月明かりの中で、ほんのわずか、口元が緩んでいた。
きっと、それは微笑みだった。
──あの人が初めて、私に向けてくれた。
たった一度きりの、笑顔だった。
◇
季節が、ひとつ変わった。
彼がうちに来てからずいぶん経ったころ、
私はある日、ふと思ってしまったのだ。
──このまま、ずっと彼と暮らせたらいいのに、と。
彼は、朝になれば外に出て、夜に戻ってきた。
身分を隠して働いているのだろうか。どこに行っているのか、私は聞かなかった。
けれど、帰ってきて最初に目を向けるのはいつも私で、
「ただいま」も言わないくせに、椅子の背もたれにそっと手をかけていた。
言葉ではない何かで、
彼はいつも、ここに“戻ってきて”くれていた。
その日は、雨だった。
私は小さなミスで魔力を暴走させて、指先を少し焼いてしまった。
ほんの切り傷だ。それでも彼は、何も言わずに私の手を取って、
じっと、見つめていた。
薬を塗る手が、震えていた。
「……痛かったか」
「平気。ほら、もう大丈夫」
「……二度とするな。魔法を……使うな。見つかったらどうするんだ」
「心配してくれるの?」
「……当然だ」
私は笑ってしまった。
彼がそんなふうに怒るのは、とてもめずらしかったから。
そして、つい、言ってしまった。
「じゃあ、ずっとそばにいてよ。
私が魔法なんか使わなくて済むくらい、
あなたが、ずっと守ってくれたらいいのに」
沈黙。
その一瞬の静けさに、私は何かが変わる音を聞いた気がした。
彼は私の手を放さなかった。
そのまま、目を見つめてきた。
──まっすぐに。
その瞳の奥に、言葉よりも深い何かがあった。
「……そうしよう」
「え?」
「君が望むなら、そうしよう。……どれほど罪深い願いでも、私が叶える」
その夜、彼は初めて私に触れた。
燃えるように熱い指先だった。
それでも私は、少しも怖くなかった。
けれど、幸福は長くは続かなかった。
数日後。
町に、王宮の紋章を掲げた馬車が入った。
何気なく耳にした言葉に、私は凍りついた。
「逃げた王太子の捜索だそうだ。情報を提供した者には、褒賞金が出るとか」
──そのとき、すべてが、繋がった。
家に戻ってきた彼に、私は言った。
「ねえ……あなた、本当は誰なの?」
彼は一言だけ、こう答えた。
「……もう、逃げられない」
その夜、彼はひとりで出ていった。
「すぐ戻る」とも、「待っていろ」とも言わなかった。
ただ、扉の前で一度だけ振り返り──
まるで、もう二度と戻らないことを知っているような目で、私を見つめた。
私は、その瞳を最後に見た。
そして、彼は二度と帰ってこなかった。
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