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第二話 未然の現場
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翌朝、灯はほとんど眠れなかった。
夢を見たわけではない。
ただ、目を閉じるたびに、昨夜のスケッチが脳裏に浮かんだ。
雨の粒の向き。
路地の奥行き。
監視カメラの角度。
描いた絵は、すでにスケッチブックの奥に押し込んである。
破って捨てることは、しなかった。
捨てたところで、未来が消えるわけではない。
それを、灯は経験で知っていた。
スマートフォンが鳴ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
知らない番号。
一瞬、無視しかけて、やめた。
胸の奥が、嫌な沈黙を作っている。
「……はい」
『不知火灯さんですね』
男の声。
若い。事務的だが、硬すぎない。
『警視庁捜査一課の東堂といいます。昨日の夜、駅から通報をされた方で間違いありませんか』
来た。
灯は、深く息を吸った。
「はい。そうです」
『詳しくお話を伺いたくて。今、お時間は』
断る理由は、いくらでも浮かんだ。
けれど、断ったところで、この感覚は消えない。
「……少しなら」
『ありがとうございます。近くにいます。十分ほどで伺えますが』
早い。
灯は、窓の外を見た。
昼の街は、何も起きていない顔をしている。
「分かりました」
電話を切ると、部屋が急に狭く感じられた。
十分後、インターホンが鳴った。
覗き穴の向こうに立っていたのは、想像していたよりもずっと普通の男だった。
スーツは既製品。
髪は短く、少し寝癖が残っている。
「警察です」
ドアを開けると、男は軽く頭を下げた。
「東堂恒一です。突然すみません」
名刺を差し出される。
灯は受け取り、名前だけを見た。
東堂。
恒一。
変わらない、という字。
「……どうぞ」
部屋に入った東堂は、まず靴を揃えた。
それだけで、少しだけ警戒が緩む。
「昨日の通報内容ですが」
東堂は、メモ帳を開いた。
「『駅で見かけた人物が、路地で倒れている可能性がある』。そうおっしゃっていましたね」
「はい」
「具体的な場所や時間は?」
灯は、言葉を選んだ。
「場所は……駅から南に二本入った路地。時間は、夜。雨が降っていました」
嘘は言っていない。
すべて、絵の中にあった情報だ。
東堂は頷き、ペンを走らせた。
「実際、その場所で今朝、男性が発見されました」
その瞬間、灯の胸の奥が、ゆっくりと沈んだ。
「亡くなっています。刺創が一つ」
声は淡々としていた。
感情を挟まない訓練された話し方。
「……」
「通報時点では、まだ事件は起きていなかったと考えられます」
東堂は、そこで初めて顔を上げた。
「どうして、分かったんですか」
灯は、何も答えなかった。
部屋の白い壁が、やけに明るく見える。
キャンバスの白と、同じ色だった。
「勘ですか」
東堂は、責めるような口調ではなかった。
ただ、事実として訊いている。
「……そうです」
少し間が空いた。
「正直に言うと」
東堂は、言葉を探すように視線を落とした。
「こういう通報は、いたずらで終わることがほとんどです」
灯は、分かっていると頷いた。
「でも今回は、現場と内容が一致しすぎている」
東堂は、メモ帳を閉じた。
「あなたが犯人だと言うつもりはありません。ただ——」
少しだけ、声が低くなる。
「何かを、知っていたはずだ」
灯は、スケッチブックのある棚に、視線を向けた。
そこに未来が挟まっていることを、東堂は知らない。
知らない方がいい。
「……絵を描いていました」
灯は、ようやく口を開いた。
「え?」
「事件とは関係ありません。ただの、習慣です」
東堂は、その言葉をどう受け取るべきか、迷っているようだった。
「一つ、お願いがあります」
灯は、先に言った。
「私の名前を、表に出さないでください」
東堂は、しばらく考えた後、頷いた。
「約束はできません。ただ、今のところは」
それで十分だった。
東堂が立ち上がる。
「また連絡するかもしれません」
玄関まで送ると、彼は振り返った。
「不知火さん」
灯は顔を上げる。
「昨日、あなたが通報しなければ、もっと被害が出ていた可能性もあります」
慰めでも、評価でもない。
ただの事実確認。
ドアが閉まり、部屋に静けさが戻った。
灯は、ゆっくりとスケッチブックを取り出した。
ページを開く。
昨夜の絵の隅に、描いた覚えのない線が一本、増えていた。
細い、黒い線。
それは、電話を持つ男の手の形に見えた。
夢を見たわけではない。
ただ、目を閉じるたびに、昨夜のスケッチが脳裏に浮かんだ。
雨の粒の向き。
路地の奥行き。
監視カメラの角度。
描いた絵は、すでにスケッチブックの奥に押し込んである。
破って捨てることは、しなかった。
捨てたところで、未来が消えるわけではない。
それを、灯は経験で知っていた。
スマートフォンが鳴ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
知らない番号。
一瞬、無視しかけて、やめた。
胸の奥が、嫌な沈黙を作っている。
「……はい」
『不知火灯さんですね』
男の声。
若い。事務的だが、硬すぎない。
『警視庁捜査一課の東堂といいます。昨日の夜、駅から通報をされた方で間違いありませんか』
来た。
灯は、深く息を吸った。
「はい。そうです」
『詳しくお話を伺いたくて。今、お時間は』
断る理由は、いくらでも浮かんだ。
けれど、断ったところで、この感覚は消えない。
「……少しなら」
『ありがとうございます。近くにいます。十分ほどで伺えますが』
早い。
灯は、窓の外を見た。
昼の街は、何も起きていない顔をしている。
「分かりました」
電話を切ると、部屋が急に狭く感じられた。
十分後、インターホンが鳴った。
覗き穴の向こうに立っていたのは、想像していたよりもずっと普通の男だった。
スーツは既製品。
髪は短く、少し寝癖が残っている。
「警察です」
ドアを開けると、男は軽く頭を下げた。
「東堂恒一です。突然すみません」
名刺を差し出される。
灯は受け取り、名前だけを見た。
東堂。
恒一。
変わらない、という字。
「……どうぞ」
部屋に入った東堂は、まず靴を揃えた。
それだけで、少しだけ警戒が緩む。
「昨日の通報内容ですが」
東堂は、メモ帳を開いた。
「『駅で見かけた人物が、路地で倒れている可能性がある』。そうおっしゃっていましたね」
「はい」
「具体的な場所や時間は?」
灯は、言葉を選んだ。
「場所は……駅から南に二本入った路地。時間は、夜。雨が降っていました」
嘘は言っていない。
すべて、絵の中にあった情報だ。
東堂は頷き、ペンを走らせた。
「実際、その場所で今朝、男性が発見されました」
その瞬間、灯の胸の奥が、ゆっくりと沈んだ。
「亡くなっています。刺創が一つ」
声は淡々としていた。
感情を挟まない訓練された話し方。
「……」
「通報時点では、まだ事件は起きていなかったと考えられます」
東堂は、そこで初めて顔を上げた。
「どうして、分かったんですか」
灯は、何も答えなかった。
部屋の白い壁が、やけに明るく見える。
キャンバスの白と、同じ色だった。
「勘ですか」
東堂は、責めるような口調ではなかった。
ただ、事実として訊いている。
「……そうです」
少し間が空いた。
「正直に言うと」
東堂は、言葉を探すように視線を落とした。
「こういう通報は、いたずらで終わることがほとんどです」
灯は、分かっていると頷いた。
「でも今回は、現場と内容が一致しすぎている」
東堂は、メモ帳を閉じた。
「あなたが犯人だと言うつもりはありません。ただ——」
少しだけ、声が低くなる。
「何かを、知っていたはずだ」
灯は、スケッチブックのある棚に、視線を向けた。
そこに未来が挟まっていることを、東堂は知らない。
知らない方がいい。
「……絵を描いていました」
灯は、ようやく口を開いた。
「え?」
「事件とは関係ありません。ただの、習慣です」
東堂は、その言葉をどう受け取るべきか、迷っているようだった。
「一つ、お願いがあります」
灯は、先に言った。
「私の名前を、表に出さないでください」
東堂は、しばらく考えた後、頷いた。
「約束はできません。ただ、今のところは」
それで十分だった。
東堂が立ち上がる。
「また連絡するかもしれません」
玄関まで送ると、彼は振り返った。
「不知火さん」
灯は顔を上げる。
「昨日、あなたが通報しなければ、もっと被害が出ていた可能性もあります」
慰めでも、評価でもない。
ただの事実確認。
ドアが閉まり、部屋に静けさが戻った。
灯は、ゆっくりとスケッチブックを取り出した。
ページを開く。
昨夜の絵の隅に、描いた覚えのない線が一本、増えていた。
細い、黒い線。
それは、電話を持つ男の手の形に見えた。
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