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第三話 解釈の誤差
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その日の夜、雨は降らなかった。
それが、灯には少しだけ不自然に思えた。
昨日の絵の中では、確かに雨が降っていたからだ。
絵は未来の断片を描く。
だが、すべてがそのまま現実になるとは限らない。
——だから、解釈が要る。
東堂恒一は、署の会議室で現場写真を眺めていた。
蛍光灯の白い光が、テーブルの上に並べられた資料を均一に照らしている。
「路地裏。監視カメラの死角。刺創は一か所」
三嶋恒一郎が、低い声で要点を拾っていく。
「怨恨か、金銭トラブル。最近増えてるタイプだな」
東堂は、頷きながらも、頭のどこかで引っかかりを覚えていた。
——雨が降っていない。
不知火灯の通報は、雨を前提にしていた。
それは偶然の誤差なのか、それとも——。
「東堂」
三嶋が視線を上げる。
「例の通報者の件、深入りするなよ」
「……分かっています」
「分かってない顔だ」
三嶋は鼻で笑った。
「未来が見える人間なんて、現場に置いといたら厄介なだけだ。
信じるな、疑うな。距離を取れ」
正論だった。
だが、東堂はメモ帳の端に走り書きされた言葉を思い出していた。
——雨。
——黒い液体。
——監視カメラの死角。
偶然にしては、揃いすぎている。
その頃、灯は自分の部屋で、同じ絵を何度も見返していた。
線の一本一本を、指でなぞる。
問題は、雨ではない。
雨は状況を隠すためのノイズだ。
本質は、別のところにある。
黒い液体。
血ではない色。
「……顔料」
呟いた瞬間、胸の奥がひやりとした。
灯は、画材箱を開け、黒に近い顔料を並べた。
アイボリーブラック。
ランプブラック。
マーズブラック。
どれも、血とは違う粘度を持っている。
電話が鳴った。
『東堂です』
声は、少し急いていた。
「……何か、分かりましたか」
『被害者の衣服から、微量の黒い粉末が出ました』
灯は、息を止めた。
『炭素系顔料。塗料の可能性もありますが、画材に近い』
繋がった。
ようやく。
「それは……」
『心当たり、ありますか』
灯は、正直に答えなかった。
「絵の具は、街のどこにでもあります」
『そうですね』
東堂は否定しない。
『ですが、不知火さんの通報と一致する要素が増えています』
沈黙。
『もう一つ』
東堂は、少し声を落とした。
『昨夜、別の通報がありました』
灯の指が、きゅっとスケッチブックを掴む。
「……内容は」
『繁華街で、男性が刃物を持っているという目撃情報です』
胸が、嫌な音を立てた。
『巡回中の警官が向かいましたが、見つかりませんでした』
——見つからなかった。
それは、止められなかったという意味だ。
「東堂さん」
灯は、静かに言った。
「昨日の絵は、一枚だけじゃありません」
『……どういうことですか』
「似た構図が、もう一つ描かれています」
それは、さっき見つけた黒い線の正体だった。
電話を持つ手。
誰かに連絡する仕草。
「雨は、降っていませんでした」
『ええ』
「でも、路地は同じです」
東堂は、すぐに理解した。
『二件目が、これから起きる可能性がある』
「はい」
『場所は』
灯は、言うべきか迷った。
言えば、未来はまた固まる。
だが、黙れば、人が傷つく。
「……駅から西。看板の多い通りの裏です」
通話が切れる。
灯は、膝の上にスケッチブックを置いた。
心臓が、少し早く打っている。
数時間後、ニュース速報が流れた。
刃物による傷害事件。重傷者一名。
死亡ではない。
だが、止められなかった。
灯は、テレビを消した。
描いた通りにはならなかった。
けれど、描いたものは、消えもしなかった。
——これが、誤差。
未来は、完全には当たらない。
しかし、外れもしない。
灯は、初めてはっきりと理解した。
自分の絵は、救いでも予言でもない。
現実を、少しだけ傾ける。
それだけの力だ。
そして、その傾きが、人を傷つけることもある。
白い壁を見つめながら、灯は思った。
——次に描いてしまったら。
私は、どうする?
それが、灯には少しだけ不自然に思えた。
昨日の絵の中では、確かに雨が降っていたからだ。
絵は未来の断片を描く。
だが、すべてがそのまま現実になるとは限らない。
——だから、解釈が要る。
東堂恒一は、署の会議室で現場写真を眺めていた。
蛍光灯の白い光が、テーブルの上に並べられた資料を均一に照らしている。
「路地裏。監視カメラの死角。刺創は一か所」
三嶋恒一郎が、低い声で要点を拾っていく。
「怨恨か、金銭トラブル。最近増えてるタイプだな」
東堂は、頷きながらも、頭のどこかで引っかかりを覚えていた。
——雨が降っていない。
不知火灯の通報は、雨を前提にしていた。
それは偶然の誤差なのか、それとも——。
「東堂」
三嶋が視線を上げる。
「例の通報者の件、深入りするなよ」
「……分かっています」
「分かってない顔だ」
三嶋は鼻で笑った。
「未来が見える人間なんて、現場に置いといたら厄介なだけだ。
信じるな、疑うな。距離を取れ」
正論だった。
だが、東堂はメモ帳の端に走り書きされた言葉を思い出していた。
——雨。
——黒い液体。
——監視カメラの死角。
偶然にしては、揃いすぎている。
その頃、灯は自分の部屋で、同じ絵を何度も見返していた。
線の一本一本を、指でなぞる。
問題は、雨ではない。
雨は状況を隠すためのノイズだ。
本質は、別のところにある。
黒い液体。
血ではない色。
「……顔料」
呟いた瞬間、胸の奥がひやりとした。
灯は、画材箱を開け、黒に近い顔料を並べた。
アイボリーブラック。
ランプブラック。
マーズブラック。
どれも、血とは違う粘度を持っている。
電話が鳴った。
『東堂です』
声は、少し急いていた。
「……何か、分かりましたか」
『被害者の衣服から、微量の黒い粉末が出ました』
灯は、息を止めた。
『炭素系顔料。塗料の可能性もありますが、画材に近い』
繋がった。
ようやく。
「それは……」
『心当たり、ありますか』
灯は、正直に答えなかった。
「絵の具は、街のどこにでもあります」
『そうですね』
東堂は否定しない。
『ですが、不知火さんの通報と一致する要素が増えています』
沈黙。
『もう一つ』
東堂は、少し声を落とした。
『昨夜、別の通報がありました』
灯の指が、きゅっとスケッチブックを掴む。
「……内容は」
『繁華街で、男性が刃物を持っているという目撃情報です』
胸が、嫌な音を立てた。
『巡回中の警官が向かいましたが、見つかりませんでした』
——見つからなかった。
それは、止められなかったという意味だ。
「東堂さん」
灯は、静かに言った。
「昨日の絵は、一枚だけじゃありません」
『……どういうことですか』
「似た構図が、もう一つ描かれています」
それは、さっき見つけた黒い線の正体だった。
電話を持つ手。
誰かに連絡する仕草。
「雨は、降っていませんでした」
『ええ』
「でも、路地は同じです」
東堂は、すぐに理解した。
『二件目が、これから起きる可能性がある』
「はい」
『場所は』
灯は、言うべきか迷った。
言えば、未来はまた固まる。
だが、黙れば、人が傷つく。
「……駅から西。看板の多い通りの裏です」
通話が切れる。
灯は、膝の上にスケッチブックを置いた。
心臓が、少し早く打っている。
数時間後、ニュース速報が流れた。
刃物による傷害事件。重傷者一名。
死亡ではない。
だが、止められなかった。
灯は、テレビを消した。
描いた通りにはならなかった。
けれど、描いたものは、消えもしなかった。
——これが、誤差。
未来は、完全には当たらない。
しかし、外れもしない。
灯は、初めてはっきりと理解した。
自分の絵は、救いでも予言でもない。
現実を、少しだけ傾ける。
それだけの力だ。
そして、その傾きが、人を傷つけることもある。
白い壁を見つめながら、灯は思った。
——次に描いてしまったら。
私は、どうする?
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