29 / 33
第二十八話 視線の交点
しおりを挟む
雨は夜に入っても止まなかった。
病院の正面玄関はガラス張りで、外の街灯が滲んで見える。床のタイルには濡れた靴跡が点々と続き、清掃員がモップでそれをゆっくり追いかけていた。
三階の騒ぎは収まっている。危険物は模造だった。爆発性はない。ただの金属塊と配線の組み合わせ――脅しと誘導のための“見せかけ”。
だが意図は明確だった。
未来をずらすための配置。
灯は一階ロビーの端に立ち、外を見ていた。
ガラスに自分の顔が薄く映っている。
胸の奥の圧は、まだ消えていない。
同時描画のあとに残る、余震のような感覚。
誰かが同じ対象を、同じ時間帯に観測している。
それだけで空気の層が一枚増える。
「帰らないのか」
東堂が隣に立った。
「もう少し」
「何を待ってる」
「交点です」
「交点?」
「観測の」
東堂はそれ以上聞かなかった。理解できない言葉は、そのまま置く人間だ。
自動ドアが開き、冷たい空気が流れ込んだ。
一人の青年が入ってくる。
傘は持っていない。コートの肩が少し濡れている。歩き方は速くも遅くもない。周囲を見ているようで、誰も見ていない視線。
距離を測る人間の歩き方だった。
灯は視線を合わせないようにした。
顔を見れば、対象認識が成立する。
だが分かる。
空気の圧が一致している。
同種だ。
青年は受付にも寄らず、壁際の椅子に座った。ポケットから小型のスケッチブックを出し、開く。迷いなくペンを持つ。
描き始めた。
ここで。
「……大胆ですね」
灯は小さく言った。
「知り合いか」
「まだです」
描画圧が同時に上がる。
灯の手も自然にパッドを開いていた。
「ここで描くのか」
東堂が言う。
「はい。合わせてきています」
「何を」
「観測タイミングを」
線が走る。
灯の絵は人物から始まる。
ロビー中央。
床の反射。
歩いてくる看護師。
その足元。
濡れたタイル。
滑り。
転倒の瞬間。
トレイが飛ぶ。
薬剤が散る。
点滴パック。
液体。
線が止まる。
同時刻、青年のスケッチブックには別の絵が描かれていた。
ロビー俯瞰図。
入口から受付までの導線。
濡れた床の範囲。
清掃動線の空白。
赤い斜線。
滑走方向。
人物なし。
灯は顔を上げた。
青年も同時に視線を上げていた。
初めて、目が合う。
表情は穏やかだった。
敵意はない。驚きもない。
ただ確認の視線。
“やはり君か”という目だった。
言葉は交わさない。
だが彼は、自分のスケッチブックを少しだけ傾けた。
見せる意図ではない。
確認させる意図。
構造線。
導線図。
灯は自分の絵を少しだけ見せた。
人物転倒の瞬間。
青年はわずかに頷いた。
評価ではない。整合確認の頷き。
東堂が無線を入れ、清掃員の動線を変えた。
濡れた区画を封鎖する。
数分後、転倒は起きなかった。
未来が外れた。
青年はスケッチブックを閉じ、立ち上がった。
そのまま出口へ向かう。
すれ違いざま、小さく言った。
「人物未来は、近いが揺れる」
声は落ち着いていた。
灯は答える。
「構造未来は、遠いが冷たい」
青年はわずかに笑った。
「適切だ」
それだけ言って、雨の中へ出ていった。
東堂が言う。
「名前は」
「まだ聞かない方がいいです」
「なぜ」
「名前は対象認識を固定します」
灯はガラスの向こうを見る。
「次は、未来の中で会います」
病院の正面玄関はガラス張りで、外の街灯が滲んで見える。床のタイルには濡れた靴跡が点々と続き、清掃員がモップでそれをゆっくり追いかけていた。
三階の騒ぎは収まっている。危険物は模造だった。爆発性はない。ただの金属塊と配線の組み合わせ――脅しと誘導のための“見せかけ”。
だが意図は明確だった。
未来をずらすための配置。
灯は一階ロビーの端に立ち、外を見ていた。
ガラスに自分の顔が薄く映っている。
胸の奥の圧は、まだ消えていない。
同時描画のあとに残る、余震のような感覚。
誰かが同じ対象を、同じ時間帯に観測している。
それだけで空気の層が一枚増える。
「帰らないのか」
東堂が隣に立った。
「もう少し」
「何を待ってる」
「交点です」
「交点?」
「観測の」
東堂はそれ以上聞かなかった。理解できない言葉は、そのまま置く人間だ。
自動ドアが開き、冷たい空気が流れ込んだ。
一人の青年が入ってくる。
傘は持っていない。コートの肩が少し濡れている。歩き方は速くも遅くもない。周囲を見ているようで、誰も見ていない視線。
距離を測る人間の歩き方だった。
灯は視線を合わせないようにした。
顔を見れば、対象認識が成立する。
だが分かる。
空気の圧が一致している。
同種だ。
青年は受付にも寄らず、壁際の椅子に座った。ポケットから小型のスケッチブックを出し、開く。迷いなくペンを持つ。
描き始めた。
ここで。
「……大胆ですね」
灯は小さく言った。
「知り合いか」
「まだです」
描画圧が同時に上がる。
灯の手も自然にパッドを開いていた。
「ここで描くのか」
東堂が言う。
「はい。合わせてきています」
「何を」
「観測タイミングを」
線が走る。
灯の絵は人物から始まる。
ロビー中央。
床の反射。
歩いてくる看護師。
その足元。
濡れたタイル。
滑り。
転倒の瞬間。
トレイが飛ぶ。
薬剤が散る。
点滴パック。
液体。
線が止まる。
同時刻、青年のスケッチブックには別の絵が描かれていた。
ロビー俯瞰図。
入口から受付までの導線。
濡れた床の範囲。
清掃動線の空白。
赤い斜線。
滑走方向。
人物なし。
灯は顔を上げた。
青年も同時に視線を上げていた。
初めて、目が合う。
表情は穏やかだった。
敵意はない。驚きもない。
ただ確認の視線。
“やはり君か”という目だった。
言葉は交わさない。
だが彼は、自分のスケッチブックを少しだけ傾けた。
見せる意図ではない。
確認させる意図。
構造線。
導線図。
灯は自分の絵を少しだけ見せた。
人物転倒の瞬間。
青年はわずかに頷いた。
評価ではない。整合確認の頷き。
東堂が無線を入れ、清掃員の動線を変えた。
濡れた区画を封鎖する。
数分後、転倒は起きなかった。
未来が外れた。
青年はスケッチブックを閉じ、立ち上がった。
そのまま出口へ向かう。
すれ違いざま、小さく言った。
「人物未来は、近いが揺れる」
声は落ち着いていた。
灯は答える。
「構造未来は、遠いが冷たい」
青年はわずかに笑った。
「適切だ」
それだけ言って、雨の中へ出ていった。
東堂が言う。
「名前は」
「まだ聞かない方がいいです」
「なぜ」
「名前は対象認識を固定します」
灯はガラスの向こうを見る。
「次は、未来の中で会います」
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
さようなら、あなたとはもうお別れです
四季
恋愛
十八の誕生日、親から告げられたアセインという青年と婚約した。
幸せになれると思っていた。
そう夢みていたのだ。
しかし、婚約から三ヶ月ほどが経った頃、異変が起こり始める。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる