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2.槍鬼霊は振るわれない
⑤
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目的地に到着する寸前、ルチアナは唐突に別行動すると言い出しすぐに居なくなってしまった。有無を言わせぬルチアナの行動に戸惑いつつも、気にするのを止めたヨハンは、目的地である教会の跡地に到着した。
教会の跡地は、僅かに黒焦げの木片が残っている程度で、更地同然になっていた。だが整備はまだ終わっていないのか、地面は黒くどこか焦げ臭いにおいが充満している。そしてヨハンはその中で佇む大男――ガラルド・マティスを見据える。
陽はとっくに沈み、薄暗い周囲を照らすのは、ささやかな月明かりのみ。けれど月明かりは確かにガラルドの容姿を明確に映し出す。
禿頭が印象的な厳つい顔立ちで、顔の右半分が刺青によって塗り潰されている。目元はサングラスによって覆われており、その色を窺うことはできない。ヨハンよりも遥かに大きく、その巨躯は骨太で筋肉質。立っているだけで凄まじい存在感を放っている。
そしてガラルドは茶色のロングコートを翻し、手にした槍の切っ先をヨハンに向けた。
「来たか、家畜。槍鬼霊は持ってきたか?」
「持って来ていない」
子供ならそれだけで鳴き出しそうなガラルドを前に、されどヨハンは一歩も引かなかった。
手にしたデッキブラシを構え、凛として対峙する。
「槍鬼霊は誰にも渡さないし、僕は槍鬼霊に頼らない。頼らなくとも、お前を倒す!」
その言葉を聞いたガラルドは、破顔し爆笑する。
「くははははは! 俺を倒すか! そうか! それはつまり、こいつを見殺しにするってことで構わないんだな!?」
そう言って槍の穂先を下に向けると、そこには気を失い倒れているハンナが居た。
「っ……!」
思わず飛び出しそうになる足を理性で抑えつけ、歯を食い縛りながらガラルドを睥睨する。
「そう睨むな。第一、俺は間違いなく貴様に槍鬼霊を持って来いと言った筈だ。その為の餌として、この小娘を攫ったのだからな」
やれやれと首を振るガラルドは、嘆息しサングラスを指で押し上げる。
「だというのに貴様はふざけているのか? 槍鬼霊は持ってこない、得物はデッキブラシ。人をバカにするにも程があるぞ」
「履き違えるな、ガラルド。僕はお前をバカにしたりはしていない。ただ、お前を倒すだけならデッキブラシ一本でなんとかなると考えたから、こうしてデッキブラシを手にしてこの場に居る」
言うが否や、ヨハンはデッキブラシを器用に振り回しながらガラルドの間合いを詰める。
「来るかっ! 家畜!」
一瞬で間合いを詰めたヨハンは、ハンナに被害が及ばないよう細心の注意を払いながら、ガラルドの間合いの内へと滑り込む。槍とデッキブラシのリーチに相応の差はあれど、危険視すべきは穂先の刃だけである。万が一、木製であるデッキブラシの柄をそんなもので叩かれたら、簡単に両断されてしまうことだろう。故にヨハンは金属製ながらも打撃のみにしか使えないだろう柄の部分が支配する間合いの内へと入り込んだのである。
「ちょろちょろとぉ!」
その行動にガラルドは舌打ち、素早く膝蹴りを放ちながらそそくさと後退する。金属の槍の柄と、木製のデッキブラシの柄が激しくぶつかり合い、伝わる振動にヨハンは顔を顰めた。だが止まるわけにもいかず、グイグイと前へ進む。
「逃がさない!」
間合いの内に入ってまともに得物を振り回せないのはヨハンも同じである。けれどデッキブラシに武器としての役割を期待していないヨハンは、槍の石突きを警戒し相手の懐のさらに奥へと迫る。
またそうして相手を動かすことによって、ハンナに危害が及ぶのを避けることに成功した。
「くそっ、鬱陶しい!」
ヨハンがあまりに素早く懐に入るものだから、ガラルドはたまらず槍を手放し、拳を握るとヨハンの腹部に重たい一撃を放った。ハンナからガラルドを遠ざけることを最優先にして動き、結果としてガラルドに密着していたヨハンにそれを避ける術は無く、極太の腕から放たれた一撃が深々と刺さる。
「あがっ……!」
低い呻きを上げ、その場に膝を突いたヨハンを、ガラルドは足蹴にする。
「うぐっ、がはっ……!」
頭部を思い切り蹴り飛ばされたヨハンの意識は、一瞬の間だが、飛んだ。しかしすぐに意識を取り戻すと、焼け爛れた地面を舐めながら、立ち上がろうとした。追撃が来るのではないかと言う懸念を抱きながら、ふらつく身体を抑え全身に力を込める。
だが、まだ先程の一撃の余韻が残っており、咳込んでしまう。
「げほっ……けほけほっ……」
しかしガラルドの追撃は一切やって来なかった。
その代わりに、優しい声が降って来た。
「大丈夫……じゃないですよね。あんな一撃を貰ったら、誰だって悶絶します」
その声に思わず顔を上げたヨハンの視界に映ったのは、月明かりに照らされたルチアナの綺麗な横顔だった。それを見たヨハンは思わず周囲を見渡した。
「ガラルドは!?」
「死にました」
淡々と告げるルチアナに、ヨハンは信じられないと言った顔をする。
呼吸が落ち着いたヨハンは、よろよろと立ち上がり周囲を見渡した。するとルチアナのすぐ近くで、脳天にナイフが深々と刺さったガラルドが転がっていた。
他に外傷は無く、頭部に深々と突き刺さるナイフによって即死したのが窺える。
「そんな……一撃で!?」
それがどんなに凄いことであるかを知っているヨハンは、己の目を疑う。しかしそれによって現実が変わるわけもなく、ルチアナはガラルドの遺体の傍にしゃがみ込むと脳天に刺さったナイフの柄を握り、勢い良く引き抜いた。
血の線が空を舞い、振り抜かれたナイフが月夜に光る。
そして踵を返しヨハンを見据えたルチアナは、優しい表情でこう言った。
「さあ、ハンナちゃんを連れて先に帰っていて下さい。私はこれを処理してから帰りますので」
予想外の展開に、ヨハンはただただ戸惑い、ルチアナの指示に従うしかなかった。
◆◇◆
一連の騒動から数日が経過したある日の正午、数日間顔を出さなかったアルベルがようやく来店した。それを見たハンナは、部屋に居るヨハンを呼び出した。
あの日以来、ヨハンは一時的にルチアナの家に世話になっていた。その為、ヨハンはハンナの部屋で寝て、ハンナはルチアナの部屋で寝ると言う状況が続いていたが、それもようやく終焉を迎えることになる。
階段を下りて店に顔を出したヨハンは、あまり会話をしたことがないアルベルを見て、怪訝そうに眉を潜めた。
「結構時間が掛かりましたね」
コーヒーの準備をするルチアナに、アルベルは髪をガシガシと掻きながら椅子に座る。
「予想以上に面倒な手続きが多くてね。しばらくは事務的なことはしたくないよ。それに先日、またしても教会跡地で焼死体が発見されたことで、警邏隊はてんやわんやもいいとこさ」
ぐったりとするアルベルは、ルチアナの持って来たコーヒーを口に含む。それを見届けたルチアナが椅子に座り、ヨハンもまた近くの椅子に座った。
「それはまた、ご苦労様です。えーっと、それじゃあ、私の書き置きの通りに事が進んだということでいいですか?」
「ああ。そう取って貰って構わない。しかし夕方の時には急いでいて気付かなかったが、まさかあんなことを考えていたとはね……随分と無茶な要求で驚いたよ」
ヨハンには二人が何を話しているのかサッパリ分からなかったし、この場に自分が呼ばれた理由も分からなかった。
「ヨハンさん、これからあなたはアルベルさんの所で生活して下さい」
「……え?」
唐突に告げられ、ヨハンはキョトンとしてしまう。
「事情は私から話そう」
カップを置いたアルベルが、ヨハンの目を捉え、説明を始める。
「指名手配されている君を、警邏の人間である私は最初捕まえようと思っていた。エクティリアが指名手配している時点できな臭いものを感じていたが、流れてくる情報だけを鵜呑みにすれば、君は間違いなく危険な存在だ。先日も君に関する情報がさらに流れてきて、槍鬼霊という存在が明るみになった。私達警邏の人間はそれを見逃すことはできない」
しっかりとその話を受け止めるヨハンは、こくりと頷く。
「だが情報が錯綜している今の情勢では、君に関する情報のどこまでが正しいかは分からない。そもそも中立であるヘイブンの方針としては、他国の指名手配犯であろうとヘイブンの中で問題を起こさない限りは、何の処罰も科すことはできない」
「ヨハンさんは知らないかもしれませんけど、ここ数年、他国では国が国にとって不利益な人物を冤罪で指名手配をするという事案は頻発していて、他国から流れてくる指名手配というものに本来の力はないんです。あくまで危険の可能性があるということを示唆する、その程度の力しか持っていないのが今の指名手配のあり方です」
ルチアナの補足に、ヨハンは大層驚いた。エクティリアで学んだ少ない知識では、そういう解釈ができなかったからだ。
「というわけで、私は監視の名目で君を引き取ることにした。だが私は人一人を引き取る余裕があるわけでもないのでな、正確には警邏隊で君を引き取る、と言った方が妥当だろう」
「警邏隊に引き取られるんですか……?」
実感の湧かない話に、ヨハンは戸惑う。
「ああ。君はこれから警邏の人間として働き、同時にヘイブンに危害を及ぼさないかどうかを監視される立場になる。だからこれから君は私と一緒に来て、私と一緒に生活して貰う」
「でもそれならどうしてアルベルさんなんですか?」
「この件を打診したのが私だからだよ。元はルチアナさんに頼まれたのだが、正式に打診したのは私になるからね。警邏の連中も身元の分からない君の事を不審がっていたし、ならいっそ私が引き取った方が君にとっても都合が良いだろう?」
「は、はい……」
アルベルの言う通り、見ず知らずの人間の許で疑られて生活するよりも、理解あるルチアナやハンナと付き合いのあるアルベルと一緒に生活できる方が良かった。
「ということなのだけれど、ヨハンさんはどうしたいですか?」
「僕は……」
聞かされた話を反芻しながら、ヨハンは考える。自分がどうしたいのか、ということ。
そして徐々に集束し始めた気持ちが、ぽつりぽつりと口を突いて出た。
「僕は正直、どうしたらいいか分かりません。今までは誰かの言葉に従って生きていれば、死なずに済んだから。生きていくことができたから。自分の意志なんて必要なくて、唯々諾々と生きて、それでいずれは戦って死ぬんだと漠然と考えていました。
でもあの頃は、それで良かったんです。それだけで充分だったんです。僕の生きてきた場所には大切な人達がいて、その人達さえいれば、あとはどうでも良かったから。
だけど、僕はその人達を殺してしまった。理由はどうあれ、自分の立脚点を自分で壊したんです。それからは不安と迷いの連続でした。怖くなって逃げて、逃げて、その先でまた人を巻き込んで……必死で逃げた僕はこの国で、この街で僕はまた他人を巻き込み、そして救われました。ハンナに、ルチアナさんに、そして今、アルベルさんにも救われようとしています」
そこで言葉を切り、ヨハンは項垂れながら首を左右に振る。
「だけどっ、だけどもしまた、僕が同じ過ちを犯してしまったらと考えると、怖いんです……! やっと、やっと再び大事なものを見つけることができたのにっ! 大切だと感じるこの気持ちを自分の手で壊してしまったらと考えると! ……凄く、怖いんです!」
「でもそれは、槍鬼霊が存在していたから起きたことです。ヨハンさんは、もう二度と槍鬼霊を手にしなくていいんですよ」
ルチアナがそう諭すも、ヨハンは再度首を振る。
「そうだとしても! それを差し引いたって、僕には何もできません! 僕は人を殺す為に育てられました! 他国を蹂躙する為の兵士として育てられました! 一人じゃ普通に生活する事すらできないんです! 料理は作れません、掃除もできません、戦うことしかできないんです……誰かの役に立つことなんて……」
「それは違う」
椅子から立ち上がったアルベルは、ズカズカとヨハンの許へ近付くと、両肩を強く掴んだ。
「戦うことしかできないのではない。君は、戦うことができるだけなんだ。料理が出来ない? 私だって料理は苦手だ。掃除ができない? 私の部屋は散らかっているぞ? だが、戦える。この時代において、戦えると言うことはとても貴重だ。ましてや君みたいな純粋な心を持つ人間が戦えるということは、その力を人を守る為に使えるということだ。我々警邏の人間は、戦えるからこそ人を守ることができるんだ。ヨハン・ケンプファー。いや、ヨハンくん、自分を卑下するな。過去を悔いるのなら、悔いた過去に恥じることない未来を切り開け。今を生き、犠牲にしていった者達が無駄ではなかったと、胸を張って誇れる人生をこれから歩め! 君は何もできない人間ではない。何でもできる人間だ。今の自分に囚われ、可能性を捨てるなんてことをするな! いいか、分かったか!? 分かったら今日から君は警邏の人間であり、我々の家族だ!」
「アルベル……さん……」
肩を掴むアルベルの手を握るヨハンは、そのまま涙を流す。そして咳を切ったかのように、滂沱と化す涙の奔流がヨハンの頬を伝った。
呻くような泣き声を漏らすヨハンを見据え、ルチアナはふっと頬笑みを浮かる。
そしてヨハンを抱き締めるアルベルは、ルチアナの方へ顔を向けると、とある疑問を口にした。
「ところでルチアナさん、槍鬼霊はどこにあるのだ?」
その問いにルチアナは、悪戯な笑みを浮かべこう答えた。
「案外、日用品代わりにでも使われているんではないですかね。槍と言っても、所詮は長い棒ですから」
教会の跡地は、僅かに黒焦げの木片が残っている程度で、更地同然になっていた。だが整備はまだ終わっていないのか、地面は黒くどこか焦げ臭いにおいが充満している。そしてヨハンはその中で佇む大男――ガラルド・マティスを見据える。
陽はとっくに沈み、薄暗い周囲を照らすのは、ささやかな月明かりのみ。けれど月明かりは確かにガラルドの容姿を明確に映し出す。
禿頭が印象的な厳つい顔立ちで、顔の右半分が刺青によって塗り潰されている。目元はサングラスによって覆われており、その色を窺うことはできない。ヨハンよりも遥かに大きく、その巨躯は骨太で筋肉質。立っているだけで凄まじい存在感を放っている。
そしてガラルドは茶色のロングコートを翻し、手にした槍の切っ先をヨハンに向けた。
「来たか、家畜。槍鬼霊は持ってきたか?」
「持って来ていない」
子供ならそれだけで鳴き出しそうなガラルドを前に、されどヨハンは一歩も引かなかった。
手にしたデッキブラシを構え、凛として対峙する。
「槍鬼霊は誰にも渡さないし、僕は槍鬼霊に頼らない。頼らなくとも、お前を倒す!」
その言葉を聞いたガラルドは、破顔し爆笑する。
「くははははは! 俺を倒すか! そうか! それはつまり、こいつを見殺しにするってことで構わないんだな!?」
そう言って槍の穂先を下に向けると、そこには気を失い倒れているハンナが居た。
「っ……!」
思わず飛び出しそうになる足を理性で抑えつけ、歯を食い縛りながらガラルドを睥睨する。
「そう睨むな。第一、俺は間違いなく貴様に槍鬼霊を持って来いと言った筈だ。その為の餌として、この小娘を攫ったのだからな」
やれやれと首を振るガラルドは、嘆息しサングラスを指で押し上げる。
「だというのに貴様はふざけているのか? 槍鬼霊は持ってこない、得物はデッキブラシ。人をバカにするにも程があるぞ」
「履き違えるな、ガラルド。僕はお前をバカにしたりはしていない。ただ、お前を倒すだけならデッキブラシ一本でなんとかなると考えたから、こうしてデッキブラシを手にしてこの場に居る」
言うが否や、ヨハンはデッキブラシを器用に振り回しながらガラルドの間合いを詰める。
「来るかっ! 家畜!」
一瞬で間合いを詰めたヨハンは、ハンナに被害が及ばないよう細心の注意を払いながら、ガラルドの間合いの内へと滑り込む。槍とデッキブラシのリーチに相応の差はあれど、危険視すべきは穂先の刃だけである。万が一、木製であるデッキブラシの柄をそんなもので叩かれたら、簡単に両断されてしまうことだろう。故にヨハンは金属製ながらも打撃のみにしか使えないだろう柄の部分が支配する間合いの内へと入り込んだのである。
「ちょろちょろとぉ!」
その行動にガラルドは舌打ち、素早く膝蹴りを放ちながらそそくさと後退する。金属の槍の柄と、木製のデッキブラシの柄が激しくぶつかり合い、伝わる振動にヨハンは顔を顰めた。だが止まるわけにもいかず、グイグイと前へ進む。
「逃がさない!」
間合いの内に入ってまともに得物を振り回せないのはヨハンも同じである。けれどデッキブラシに武器としての役割を期待していないヨハンは、槍の石突きを警戒し相手の懐のさらに奥へと迫る。
またそうして相手を動かすことによって、ハンナに危害が及ぶのを避けることに成功した。
「くそっ、鬱陶しい!」
ヨハンがあまりに素早く懐に入るものだから、ガラルドはたまらず槍を手放し、拳を握るとヨハンの腹部に重たい一撃を放った。ハンナからガラルドを遠ざけることを最優先にして動き、結果としてガラルドに密着していたヨハンにそれを避ける術は無く、極太の腕から放たれた一撃が深々と刺さる。
「あがっ……!」
低い呻きを上げ、その場に膝を突いたヨハンを、ガラルドは足蹴にする。
「うぐっ、がはっ……!」
頭部を思い切り蹴り飛ばされたヨハンの意識は、一瞬の間だが、飛んだ。しかしすぐに意識を取り戻すと、焼け爛れた地面を舐めながら、立ち上がろうとした。追撃が来るのではないかと言う懸念を抱きながら、ふらつく身体を抑え全身に力を込める。
だが、まだ先程の一撃の余韻が残っており、咳込んでしまう。
「げほっ……けほけほっ……」
しかしガラルドの追撃は一切やって来なかった。
その代わりに、優しい声が降って来た。
「大丈夫……じゃないですよね。あんな一撃を貰ったら、誰だって悶絶します」
その声に思わず顔を上げたヨハンの視界に映ったのは、月明かりに照らされたルチアナの綺麗な横顔だった。それを見たヨハンは思わず周囲を見渡した。
「ガラルドは!?」
「死にました」
淡々と告げるルチアナに、ヨハンは信じられないと言った顔をする。
呼吸が落ち着いたヨハンは、よろよろと立ち上がり周囲を見渡した。するとルチアナのすぐ近くで、脳天にナイフが深々と刺さったガラルドが転がっていた。
他に外傷は無く、頭部に深々と突き刺さるナイフによって即死したのが窺える。
「そんな……一撃で!?」
それがどんなに凄いことであるかを知っているヨハンは、己の目を疑う。しかしそれによって現実が変わるわけもなく、ルチアナはガラルドの遺体の傍にしゃがみ込むと脳天に刺さったナイフの柄を握り、勢い良く引き抜いた。
血の線が空を舞い、振り抜かれたナイフが月夜に光る。
そして踵を返しヨハンを見据えたルチアナは、優しい表情でこう言った。
「さあ、ハンナちゃんを連れて先に帰っていて下さい。私はこれを処理してから帰りますので」
予想外の展開に、ヨハンはただただ戸惑い、ルチアナの指示に従うしかなかった。
◆◇◆
一連の騒動から数日が経過したある日の正午、数日間顔を出さなかったアルベルがようやく来店した。それを見たハンナは、部屋に居るヨハンを呼び出した。
あの日以来、ヨハンは一時的にルチアナの家に世話になっていた。その為、ヨハンはハンナの部屋で寝て、ハンナはルチアナの部屋で寝ると言う状況が続いていたが、それもようやく終焉を迎えることになる。
階段を下りて店に顔を出したヨハンは、あまり会話をしたことがないアルベルを見て、怪訝そうに眉を潜めた。
「結構時間が掛かりましたね」
コーヒーの準備をするルチアナに、アルベルは髪をガシガシと掻きながら椅子に座る。
「予想以上に面倒な手続きが多くてね。しばらくは事務的なことはしたくないよ。それに先日、またしても教会跡地で焼死体が発見されたことで、警邏隊はてんやわんやもいいとこさ」
ぐったりとするアルベルは、ルチアナの持って来たコーヒーを口に含む。それを見届けたルチアナが椅子に座り、ヨハンもまた近くの椅子に座った。
「それはまた、ご苦労様です。えーっと、それじゃあ、私の書き置きの通りに事が進んだということでいいですか?」
「ああ。そう取って貰って構わない。しかし夕方の時には急いでいて気付かなかったが、まさかあんなことを考えていたとはね……随分と無茶な要求で驚いたよ」
ヨハンには二人が何を話しているのかサッパリ分からなかったし、この場に自分が呼ばれた理由も分からなかった。
「ヨハンさん、これからあなたはアルベルさんの所で生活して下さい」
「……え?」
唐突に告げられ、ヨハンはキョトンとしてしまう。
「事情は私から話そう」
カップを置いたアルベルが、ヨハンの目を捉え、説明を始める。
「指名手配されている君を、警邏の人間である私は最初捕まえようと思っていた。エクティリアが指名手配している時点できな臭いものを感じていたが、流れてくる情報だけを鵜呑みにすれば、君は間違いなく危険な存在だ。先日も君に関する情報がさらに流れてきて、槍鬼霊という存在が明るみになった。私達警邏の人間はそれを見逃すことはできない」
しっかりとその話を受け止めるヨハンは、こくりと頷く。
「だが情報が錯綜している今の情勢では、君に関する情報のどこまでが正しいかは分からない。そもそも中立であるヘイブンの方針としては、他国の指名手配犯であろうとヘイブンの中で問題を起こさない限りは、何の処罰も科すことはできない」
「ヨハンさんは知らないかもしれませんけど、ここ数年、他国では国が国にとって不利益な人物を冤罪で指名手配をするという事案は頻発していて、他国から流れてくる指名手配というものに本来の力はないんです。あくまで危険の可能性があるということを示唆する、その程度の力しか持っていないのが今の指名手配のあり方です」
ルチアナの補足に、ヨハンは大層驚いた。エクティリアで学んだ少ない知識では、そういう解釈ができなかったからだ。
「というわけで、私は監視の名目で君を引き取ることにした。だが私は人一人を引き取る余裕があるわけでもないのでな、正確には警邏隊で君を引き取る、と言った方が妥当だろう」
「警邏隊に引き取られるんですか……?」
実感の湧かない話に、ヨハンは戸惑う。
「ああ。君はこれから警邏の人間として働き、同時にヘイブンに危害を及ぼさないかどうかを監視される立場になる。だからこれから君は私と一緒に来て、私と一緒に生活して貰う」
「でもそれならどうしてアルベルさんなんですか?」
「この件を打診したのが私だからだよ。元はルチアナさんに頼まれたのだが、正式に打診したのは私になるからね。警邏の連中も身元の分からない君の事を不審がっていたし、ならいっそ私が引き取った方が君にとっても都合が良いだろう?」
「は、はい……」
アルベルの言う通り、見ず知らずの人間の許で疑られて生活するよりも、理解あるルチアナやハンナと付き合いのあるアルベルと一緒に生活できる方が良かった。
「ということなのだけれど、ヨハンさんはどうしたいですか?」
「僕は……」
聞かされた話を反芻しながら、ヨハンは考える。自分がどうしたいのか、ということ。
そして徐々に集束し始めた気持ちが、ぽつりぽつりと口を突いて出た。
「僕は正直、どうしたらいいか分かりません。今までは誰かの言葉に従って生きていれば、死なずに済んだから。生きていくことができたから。自分の意志なんて必要なくて、唯々諾々と生きて、それでいずれは戦って死ぬんだと漠然と考えていました。
でもあの頃は、それで良かったんです。それだけで充分だったんです。僕の生きてきた場所には大切な人達がいて、その人達さえいれば、あとはどうでも良かったから。
だけど、僕はその人達を殺してしまった。理由はどうあれ、自分の立脚点を自分で壊したんです。それからは不安と迷いの連続でした。怖くなって逃げて、逃げて、その先でまた人を巻き込んで……必死で逃げた僕はこの国で、この街で僕はまた他人を巻き込み、そして救われました。ハンナに、ルチアナさんに、そして今、アルベルさんにも救われようとしています」
そこで言葉を切り、ヨハンは項垂れながら首を左右に振る。
「だけどっ、だけどもしまた、僕が同じ過ちを犯してしまったらと考えると、怖いんです……! やっと、やっと再び大事なものを見つけることができたのにっ! 大切だと感じるこの気持ちを自分の手で壊してしまったらと考えると! ……凄く、怖いんです!」
「でもそれは、槍鬼霊が存在していたから起きたことです。ヨハンさんは、もう二度と槍鬼霊を手にしなくていいんですよ」
ルチアナがそう諭すも、ヨハンは再度首を振る。
「そうだとしても! それを差し引いたって、僕には何もできません! 僕は人を殺す為に育てられました! 他国を蹂躙する為の兵士として育てられました! 一人じゃ普通に生活する事すらできないんです! 料理は作れません、掃除もできません、戦うことしかできないんです……誰かの役に立つことなんて……」
「それは違う」
椅子から立ち上がったアルベルは、ズカズカとヨハンの許へ近付くと、両肩を強く掴んだ。
「戦うことしかできないのではない。君は、戦うことができるだけなんだ。料理が出来ない? 私だって料理は苦手だ。掃除ができない? 私の部屋は散らかっているぞ? だが、戦える。この時代において、戦えると言うことはとても貴重だ。ましてや君みたいな純粋な心を持つ人間が戦えるということは、その力を人を守る為に使えるということだ。我々警邏の人間は、戦えるからこそ人を守ることができるんだ。ヨハン・ケンプファー。いや、ヨハンくん、自分を卑下するな。過去を悔いるのなら、悔いた過去に恥じることない未来を切り開け。今を生き、犠牲にしていった者達が無駄ではなかったと、胸を張って誇れる人生をこれから歩め! 君は何もできない人間ではない。何でもできる人間だ。今の自分に囚われ、可能性を捨てるなんてことをするな! いいか、分かったか!? 分かったら今日から君は警邏の人間であり、我々の家族だ!」
「アルベル……さん……」
肩を掴むアルベルの手を握るヨハンは、そのまま涙を流す。そして咳を切ったかのように、滂沱と化す涙の奔流がヨハンの頬を伝った。
呻くような泣き声を漏らすヨハンを見据え、ルチアナはふっと頬笑みを浮かる。
そしてヨハンを抱き締めるアルベルは、ルチアナの方へ顔を向けると、とある疑問を口にした。
「ところでルチアナさん、槍鬼霊はどこにあるのだ?」
その問いにルチアナは、悪戯な笑みを浮かべこう答えた。
「案外、日用品代わりにでも使われているんではないですかね。槍と言っても、所詮は長い棒ですから」
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主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
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