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第1章
約束
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シャルロットの頬を平手で打ったのは、マルティナ・ティーゼだった。
アルブレヒトと別れた後、当然目の前に現れたマルティナ。
いつものように嫌味を言われるのかと、嬉しかった気持ちがしぼんでいって……。シャルロットは、微笑みの形に目を細めて、ごきげんよう、と、挨拶をした。
その瞬間、ギリ、と歯の擦れる音がして、ついで、シャルロットの頬を熱が打った。
「……え、」
呆然と頬を抑えるシャルロットが、マルティナに視線を向ける。
彼女はいつになく、否、記憶にあるどの彼女よりも顔を赤らめて、肩で息をしていた――怒っている。とても、彼女は怒っていた。
茫然と立ちすくむシャルロットに、こちらを睨み据えたままの彼女は、もう一度シャルロットに向かってその手を振り上げた。
マルティナは、手を思い切りシャルロットの頬に向かって打ち据えんとしていたーーしかし、その手がシャルロットに届くことはなかった。
「ティーゼ侯爵令嬢。君は、今、シャロに、何をした」
光のない、うつろな目で、アルブレヒトがマルティナの手首を握っている。みしみしと骨と肉のきしむ音が、シャルロットの鼓膜を震わせた。
「アルブレヒト殿下、離してくださいませ!」
「それはできない。僕の大切なシャロに手をあげるような輩を野放しにすることはない」
恐ろしいほど、底冷えのする声だった。氷なんて生易しいものではない、明確な、鈍色の殺意が確かにそこにあった。子供でも容赦はしないだろう。事実、彼女の手首はすでにおかしな方向に曲がっていた。
だが、マルティナはひるまなかった。いいや、震えてはいた。
けれど、それよりずっと、シャルロットへの怒りのほうが大きいようだった。
「わたくし、あなたが嫌いよ!シャルロット・シャロ・ヒュントヘン!」
燃えるような眼差しが、シャルロットを真っ向から射貫く。シャルロットは、動くことができなかった。
「わたくしよりなんでもできるのに、なんでも持っているのに、持ってないみたいな顔……!殿下の心も、信頼も!地位も!美貌も!……知識も器量だって、なにひとつわたくしより下のものがないくせに!」
アルブレヒトの手が、マルティナの腕に力を籠める。それでも――それでもマルティナは、言葉を抑えることはなかった。
「いじわるされても、悪口を言われても!どうして言い返さないの!誰にも言わずに、そうされるのが当然みたいに……!それはわたくしに対する侮辱だわ!あなたは高慢よ!シャルロット・シャロ・ヒュントヘン!」
支離滅裂だと、誰かが言った。
湖に落とした石ころが作り出す波にも似たさざめきだ。だけど、ここには岸がない。どこまでも広がる悪意の波紋は、そのまま収束してマルティナに返っていく。
だが、マルティナは何度でもシャルロットを嫌いだといった。
シャルロットは、思い出す。未来の国母だからと、にこやかにシャルロットに追従し、陰で悪い噂に相槌を打つ令嬢たち。その中に、マルティナの姿はなかった。
彼女はいつだって真っ向からシャルロットに立ち向かってきた。
苛烈で、激しくて、誰よりもシャルロットを傷つけたマルティナ・ティーゼ。
彼女はシャルロットに対していつだって非道だった。シャルロットを嫌いだと、隠さずに、真正面からシャルロットを攻撃した。
それは――それは、シャルロットに対して、心から誠実だったと……。そういうことではないだろうか。
マルティナがひきつれ、なおくぐもった悲鳴を上げる。青紫色の手の先は、このままだと砕けるか、壊死してしまうだろう。
もう、考える暇はなかった。
シャルロットは、目前でマルティナの手を握りつぶさんとするアルブレヒトの手をつかんだ。
「離して!アルブレヒトさま!」
「どうして?シャルロット。マルティナ・ティーゼは君を傷つけた。身体に危害をも加えた。だから」
「やめて!」
その続きは、けしてアルブレヒトに口にさせてはいけない言葉だ。
シャルロットが、固く握られたアルブレヒトの手を引きはがそうと力を籠める。その手の甲が、アルブレヒトの爪に引っかかって赤い線を描いた時、アルブレヒトは狼狽したようにマルティナから手を離した。
「あなた……」
「黙って」
無我夢中だった。それでも間に合わなかった。マルティナの左手の骨は完全に砕かれていた。
止まっていた血が流れだしたことで、痛みがはっきりしたのだろう。マルティナは顔をゆがめ、額に脂汗を浮かべながらも、シャルロットをねめつける、
「感謝しろっていうの」
「いいえ」
シャルロットは、息を荒げて短く返した。
そうして、一歩引いて――深く、深く頭を下げた。
「――ごめんなさい」
王太子の婚約者として、してはいけないことはわかっていた。けれど、どうしても、マルティナに謝りたかった。
「なによ……」
「わたしは、あなたにとても不誠実だった。もちろん、あなたがわたしにしたことは、わたしは許してはいけない」
「なら」
「でも」
強く、シャルロットは言葉を切った。
「わたしは、あなたに謝るべきだわ」
そこでようやく、シャルロットは顔を上げた。マルティナを、じっと見たのは初めてだった。
緑色の濃く出た瞳、暴れてほつれ、ぼさぼさになった金髪。まっすぐ見つめたシャルロットの視線は、マルティナの瞳を正面から射貫いた。それに気付いたのだろう。
驚いたように、マルティナはシャルロットを見つめた。
「マルティナ・ティーゼ。ごめんなさい」
周囲のざわめきが、シャルロットの意識を連れ戻した。悪意の波紋が、今度はシャルロットに集まる。当然だ。未来の王妃が自分に危害を加えた貴族に頭を下げるなどあってはならない。
これは自分の招いた結果だ。自分の不誠実さが招いた、罰だ。
ぐっと足に力を入れた、その時。
ーーそのとき、シャルロットの体をなにかが覆い隠した。
黒い礼服に金の刺繍ーーアルブレヒトだ。アルブレヒトは、少しだけ目を伏せ、小さく言った。
「ごめんね、シャルロット。僕は……」
君だけが無事ならと思ってしまった。僕の方が子供だった。
……最後は、ほとんど吐息に近かった。
そうして視線を上げ、周囲を見渡して朗々と。アルブレヒトは、言葉を発した。
「私のことを、シャルロットがかばったのだ。次期王たるもの妻の友人間の喧嘩に口を出すほど狭量ではいけないと。そうだろう?」
マルティナが、アルブレヒトの視線だけで動いた近衛に連れていかれる。だが、貴婦人にするような扱いに、周囲は当惑した。
驚きのまま、マルティナに視線を向ける。だが、アルブレヒトの視線がそれを許しはしなかった。
「なあ?」
と、押し込むような言葉に、しぶしぶ納得したように、あるいはただ口をつぐんで、この話題は終わりだと、各々の集まりへと戻っていく貴族たち。
ーー守られた。アルブレヒトがそう思わなくても、シャルロットはそう感じた。
マルティナのことも、アルブレヒトのことも、自分が閉じこもっていたから引き起こされたのだ。
悪意に怯え、勇気がなく、マルティナの心に気づかなかったから。
シャルロットが、アルブレヒトにこうさせた。
シャルロットは守られていた。
だけどーーだけど、それだけではいけない。
だって、シャルロットは、アルブレヒトを守りたいのだ。
約束を、したから。
――約束。
脳裏に浮かんだ言葉。その瞬間、ぱちんとかけらがうまった音がした。
シャルロットはアルブレヒトを振り返った。アルブレヒトの青い目が、シャロの最期の記憶とだぶって見える。
ああ、そうだ。――そうだった。
シャロは、アルブレヒトを守りたかったのだ。
つたない犬の言葉では、たった一つ、そのたった一つの約束を、形作ることができなかった。
「わたし、あなたを守りたい。アルブレヒトさま」
少し、沈黙ののち。口にしたのは、もう約束ではなかった。
アルブレヒトが耳にしていなくてもかわまない。
だってこれは願いではない――約束でも、希望でもなかった。これは、シャロが遺した、シャルロットの、もっとも大切な――自分自身への誓いだったのだから。
アルブレヒトと別れた後、当然目の前に現れたマルティナ。
いつものように嫌味を言われるのかと、嬉しかった気持ちがしぼんでいって……。シャルロットは、微笑みの形に目を細めて、ごきげんよう、と、挨拶をした。
その瞬間、ギリ、と歯の擦れる音がして、ついで、シャルロットの頬を熱が打った。
「……え、」
呆然と頬を抑えるシャルロットが、マルティナに視線を向ける。
彼女はいつになく、否、記憶にあるどの彼女よりも顔を赤らめて、肩で息をしていた――怒っている。とても、彼女は怒っていた。
茫然と立ちすくむシャルロットに、こちらを睨み据えたままの彼女は、もう一度シャルロットに向かってその手を振り上げた。
マルティナは、手を思い切りシャルロットの頬に向かって打ち据えんとしていたーーしかし、その手がシャルロットに届くことはなかった。
「ティーゼ侯爵令嬢。君は、今、シャロに、何をした」
光のない、うつろな目で、アルブレヒトがマルティナの手首を握っている。みしみしと骨と肉のきしむ音が、シャルロットの鼓膜を震わせた。
「アルブレヒト殿下、離してくださいませ!」
「それはできない。僕の大切なシャロに手をあげるような輩を野放しにすることはない」
恐ろしいほど、底冷えのする声だった。氷なんて生易しいものではない、明確な、鈍色の殺意が確かにそこにあった。子供でも容赦はしないだろう。事実、彼女の手首はすでにおかしな方向に曲がっていた。
だが、マルティナはひるまなかった。いいや、震えてはいた。
けれど、それよりずっと、シャルロットへの怒りのほうが大きいようだった。
「わたくし、あなたが嫌いよ!シャルロット・シャロ・ヒュントヘン!」
燃えるような眼差しが、シャルロットを真っ向から射貫く。シャルロットは、動くことができなかった。
「わたくしよりなんでもできるのに、なんでも持っているのに、持ってないみたいな顔……!殿下の心も、信頼も!地位も!美貌も!……知識も器量だって、なにひとつわたくしより下のものがないくせに!」
アルブレヒトの手が、マルティナの腕に力を籠める。それでも――それでもマルティナは、言葉を抑えることはなかった。
「いじわるされても、悪口を言われても!どうして言い返さないの!誰にも言わずに、そうされるのが当然みたいに……!それはわたくしに対する侮辱だわ!あなたは高慢よ!シャルロット・シャロ・ヒュントヘン!」
支離滅裂だと、誰かが言った。
湖に落とした石ころが作り出す波にも似たさざめきだ。だけど、ここには岸がない。どこまでも広がる悪意の波紋は、そのまま収束してマルティナに返っていく。
だが、マルティナは何度でもシャルロットを嫌いだといった。
シャルロットは、思い出す。未来の国母だからと、にこやかにシャルロットに追従し、陰で悪い噂に相槌を打つ令嬢たち。その中に、マルティナの姿はなかった。
彼女はいつだって真っ向からシャルロットに立ち向かってきた。
苛烈で、激しくて、誰よりもシャルロットを傷つけたマルティナ・ティーゼ。
彼女はシャルロットに対していつだって非道だった。シャルロットを嫌いだと、隠さずに、真正面からシャルロットを攻撃した。
それは――それは、シャルロットに対して、心から誠実だったと……。そういうことではないだろうか。
マルティナがひきつれ、なおくぐもった悲鳴を上げる。青紫色の手の先は、このままだと砕けるか、壊死してしまうだろう。
もう、考える暇はなかった。
シャルロットは、目前でマルティナの手を握りつぶさんとするアルブレヒトの手をつかんだ。
「離して!アルブレヒトさま!」
「どうして?シャルロット。マルティナ・ティーゼは君を傷つけた。身体に危害をも加えた。だから」
「やめて!」
その続きは、けしてアルブレヒトに口にさせてはいけない言葉だ。
シャルロットが、固く握られたアルブレヒトの手を引きはがそうと力を籠める。その手の甲が、アルブレヒトの爪に引っかかって赤い線を描いた時、アルブレヒトは狼狽したようにマルティナから手を離した。
「あなた……」
「黙って」
無我夢中だった。それでも間に合わなかった。マルティナの左手の骨は完全に砕かれていた。
止まっていた血が流れだしたことで、痛みがはっきりしたのだろう。マルティナは顔をゆがめ、額に脂汗を浮かべながらも、シャルロットをねめつける、
「感謝しろっていうの」
「いいえ」
シャルロットは、息を荒げて短く返した。
そうして、一歩引いて――深く、深く頭を下げた。
「――ごめんなさい」
王太子の婚約者として、してはいけないことはわかっていた。けれど、どうしても、マルティナに謝りたかった。
「なによ……」
「わたしは、あなたにとても不誠実だった。もちろん、あなたがわたしにしたことは、わたしは許してはいけない」
「なら」
「でも」
強く、シャルロットは言葉を切った。
「わたしは、あなたに謝るべきだわ」
そこでようやく、シャルロットは顔を上げた。マルティナを、じっと見たのは初めてだった。
緑色の濃く出た瞳、暴れてほつれ、ぼさぼさになった金髪。まっすぐ見つめたシャルロットの視線は、マルティナの瞳を正面から射貫いた。それに気付いたのだろう。
驚いたように、マルティナはシャルロットを見つめた。
「マルティナ・ティーゼ。ごめんなさい」
周囲のざわめきが、シャルロットの意識を連れ戻した。悪意の波紋が、今度はシャルロットに集まる。当然だ。未来の王妃が自分に危害を加えた貴族に頭を下げるなどあってはならない。
これは自分の招いた結果だ。自分の不誠実さが招いた、罰だ。
ぐっと足に力を入れた、その時。
ーーそのとき、シャルロットの体をなにかが覆い隠した。
黒い礼服に金の刺繍ーーアルブレヒトだ。アルブレヒトは、少しだけ目を伏せ、小さく言った。
「ごめんね、シャルロット。僕は……」
君だけが無事ならと思ってしまった。僕の方が子供だった。
……最後は、ほとんど吐息に近かった。
そうして視線を上げ、周囲を見渡して朗々と。アルブレヒトは、言葉を発した。
「私のことを、シャルロットがかばったのだ。次期王たるもの妻の友人間の喧嘩に口を出すほど狭量ではいけないと。そうだろう?」
マルティナが、アルブレヒトの視線だけで動いた近衛に連れていかれる。だが、貴婦人にするような扱いに、周囲は当惑した。
驚きのまま、マルティナに視線を向ける。だが、アルブレヒトの視線がそれを許しはしなかった。
「なあ?」
と、押し込むような言葉に、しぶしぶ納得したように、あるいはただ口をつぐんで、この話題は終わりだと、各々の集まりへと戻っていく貴族たち。
ーー守られた。アルブレヒトがそう思わなくても、シャルロットはそう感じた。
マルティナのことも、アルブレヒトのことも、自分が閉じこもっていたから引き起こされたのだ。
悪意に怯え、勇気がなく、マルティナの心に気づかなかったから。
シャルロットが、アルブレヒトにこうさせた。
シャルロットは守られていた。
だけどーーだけど、それだけではいけない。
だって、シャルロットは、アルブレヒトを守りたいのだ。
約束を、したから。
――約束。
脳裏に浮かんだ言葉。その瞬間、ぱちんとかけらがうまった音がした。
シャルロットはアルブレヒトを振り返った。アルブレヒトの青い目が、シャロの最期の記憶とだぶって見える。
ああ、そうだ。――そうだった。
シャロは、アルブレヒトを守りたかったのだ。
つたない犬の言葉では、たった一つ、そのたった一つの約束を、形作ることができなかった。
「わたし、あなたを守りたい。アルブレヒトさま」
少し、沈黙ののち。口にしたのは、もう約束ではなかった。
アルブレヒトが耳にしていなくてもかわまない。
だってこれは願いではない――約束でも、希望でもなかった。これは、シャロが遺した、シャルロットの、もっとも大切な――自分自身への誓いだったのだから。
応援ありがとうございます!
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