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1巻
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どこか慕わしい黄金の目が、リオンの記憶の奥底をくすぐる。
集まった貴族のひとりが、突然その場に現れた青年の姿を見てなにかに気づき、悲鳴を上げながら扉へ走り出した。
その男が、扉を押す。しかし、鍵はかかっていないはずなのに、まるで一枚の壁のように微動だにしない。
だれかが、ひ、と小さく悲鳴を上げる。そして、この世で最も恐ろしいものを見たかのように、魔法だ、とつぶやいた。
――魔法。
それは、生態系の頂点、この世界の支配者たる生き物――竜にのみ使うことを許された異能。
奇跡の力。人間には決して扱えぬ強大な力。
まだ戦争をしていた頃、ひとは、これを呪いの力と言った。
「魔法だ」
「魔法……だと……」
「だとしたら、だとしたらあの男は、まさか……」
「竜だというのか……⁉」
ざわめきが波紋のように広がり、貴族たちの目がさっと恐怖に染まった。
先ほどまでの、強気な雰囲気が嘘のように、恐怖ゆえのさざめきが叫びとなって、王宮の広間を埋め尽くす。
「リオン、私のリオン」
震えているリオンに気づいたのだろう。白金の青年は、リオンの手をやさしく握ったまま低い声を和らげ、そのつむじに口付けて囁いた。
「もう、大丈夫だ」
――大丈夫。
リオンは呆然としたまま、自分をやさしく包み込んでくれているその青年を見上げた。
黄金の目が、縦に長い瞳孔を開いてこちらを見ている。それは、リオンの姿をその目に焼きつけんと、必死なようだった。
男性に触れるのは、父と幼き頃のシャルル以外、これが初めてだ。
だというのに、リオンはまったく恐ろしくなかった。
このひとに恐怖を感じることなどありはしない。なぜか、そう確信していた。
むしろ、懐かしさまである。リオンはどうしてしまったのだろう。
シャルルへの恋心が霧散したわけではないけれど、まるで、その対象がそっくりそのままこの青年に移ったような気持ちだった。
「……あなたは?」
リオンは戸惑いながら、青年に尋ねる。
「……そうか、そうだったな」
彼はリオンの言葉に目を細め、悲しげに眉を下げた。
そんな顔をしてほしくなくて、リオンは咄嗟に青年の法衣のような白い服を握る。彼ははっとした顔をして、リオンにやさしく微笑んで見せた。
「忘れていても、また育めばいい。リオン、もう君を辛い目にはあわせない」
「忘れ……?」
「今は気にしないでいい。リオン」
そう言った青年は、ようやく周囲の阿鼻叫喚に気づいた様子で、シャルルとヒルデガルド、そしてリオンの義父母を順番に見やり、黄金の目を炯々と輝かせた。
「それより、そこのものたちの対処をするから、待っていてくれるかい?」
青年は、リオンをそうっと横抱きにして、その切れ長の目をすいと細める。
いつの間にか、近衛兵たちが青年とリオンを取り囲んでいた。
「あ、あの……」
「大丈夫、リオン。心配しないで」
そうは言っても、心配せずにはいられない。
リオンは、出会ったばかりのこの青年が傷つくところを見たくないと思った。
どうしてか、そう思った。
「竜! 貴様、ここが人間の国、アルトゥールと知っての狼藉か」
髭を生やした、ひときわ華美な服を着た貴族が、剣を構える近衛兵の後ろに隠れながら声を張った。
しかし、その声はわずかに震えている。
それに、青年も気づいたのだろう。
呆れたように、くっと笑って見せ、その貴族を指す。
途端、風が吹き、男が宙へ舞い上がった。
リオンは、宙に浮き、恐怖で顔を青くした男を見る。
貴族の中でリオンを最初に糾弾した、ヒルデガルドの信奉者だ。
「貴様こそ、竜の番のことも知らずによく言えたな」
青年は、燃えるような怒気を孕んだ声で男に言う。
番。先ほども、彼はリオンをそう呼んだ。
リオンは、番という言葉に聞き覚えがある気がしたが、それがなんなのかはわからなかった。
しかし、第一王子であるシャルルは知っていたらしい。
彼はさっと顔色を変え、リオンを見て、まさか、と口にした。
「しゃ、シャルルさま、なあに? あの不審者……は、早く、早く追い出して!」
ヒルデガルドはシャルルに抱きついて、どうにか隠れようとする。
しかし、ヒルデガルドとそう体格の変わらない、背が低くヒョロヒョロとしたシャルルには到底隠れられなかった。
「さあ、どうだ。その顔、知らないとは言わせない」
青年の声を聞き、シャルルの顔が蒼白を通り越して完全に色を失う。
ヒルデガルドはガタガタ震えるシャルルに抱きつきながら、不意に鼻をついた異臭に顔をしかめた。
「シャルルさま? どうしたの?」
ヒルデガルドはにおいの元を探して下を向き、自分のフリルたっぷりの真っ白なドレスが、黄色い液体で濡れていることに気づく。
そうして悲鳴を上げ、シャルルから飛び退いた。
「いや! 汚い!」
「ひ、ヒルダ、すまない、すまない」
「近寄らないで!」
ヒルデガルドがシャルルを突き飛ばす。
いつも自信に満ちた、尊敬する王子の突然の奇行と醜態に、近衛兵や貴族はおろおろと戸惑うばかりだ。
「く、くそ! ヒルダ……!」
情けない姿をさらし、顔を赤と青に交互に染めるシャルルは滑稽だ。
シャルルは視線を彷徨わせたのち、青年に抱かれるリオンに目を留める。
それから羞恥と怒りで埋め尽くされた様子でリオンを指差し、叫んだ。
「リオン・ロッテンメイヤー! 貴様のせいだ! 貴様の、貴様のせいで――!」
――刹那。シャルルの声を最後に、空気が、止まった。
張りつめた、凍った、そのどちらでもない。それは、この状況にふさわしい表現ではない。
正しく、空気が止まったのだ。
「あ――?」
シャルルは、じしんの体になにがもたらされたのかわかっていないようで、小さく声を上げた。
ぱき、ぱき、と音がして、シャルルの体が、指から、足先から、動かなくなっていく。まるで陶器のように、シャルルの体が硬くなっていく。
「今、なんと言った」
白金が揺らめく。対比のように、シャルルの髪が滑らかな人形のそれへと変わっていく。
「国ごと焦土にされたいか、アルトゥールの王子。返答についてはよく考えよ」
ヒルデガルドが尻餅をついた。
「ヒルダ――」
「いや! 来ないで、バケモノ!」
シャルルが――否、シャルルだった生き人形が一歩近づくたびに、ヒルデガルドは悲鳴を上げて後退する。
「りゅ、りゅう、王、竜王、助けて、たす、たすけ、けててけててて」
ガラス玉となったシャルルの目がぐりんと上向いた。そしてそれはがしゃんと転んだのちに、地べたを這うようにして青年――竜王の足元にキスをする。
「な、なめれば、いイ? 靴を、なめる、から、たす、たすけ」
「助けを乞うのは私にではない。だが、助けを乞う機会をやる気も失せた」
そう、竜王はシャルルだったものを一瞥した。
「シャルル、さま? ヒルダ……?」
リオンは、そこでようやく声を出す。
途端、竜王はまるで嫉妬のような熱い視線をリオンに向けた。
それからなにかを言いかけて、耐えるように唇を噛み、リオンの髪を撫でる。
竜王は大きく息をついたあと、じしんの髪を一筋引き抜き、魔法を行使した。
白金の髪は空中で星をかたどって、眩い光とともに、シャルルの中に吸い込まれる。
その瞬間、竜王の手がさっとリオンの目を覆った。
「なにが、起こったのだ……?」
貴族のひとりが呆然とつぶやく。
視界が明るくなったと同時に、リオンはぼんやりとその場を見た。
そこには、四体の人形が落ちていた。
それは、すべてひとと同じ大きさで、シャルルとヒルデガルド、そして背後で逃げようとしていた義父母とそっくりな容姿をしている。
「お人形……?」
リオンが静かに言い――やがて、目をしばたたいて、口を押さえた。
……これは、人形ではない。
「これは、猶予だ」
竜王が告げる。
「その陶器は皮だけだ。下にはひとの血肉がある。まだ生きているが、早く剥がさねば三日程度で死ぬだろう……人間、これは警告だ。真実をつまびらかにし、我が番姫の名誉を回復せよ。さすれば、彼らは元に戻る」
最後にそう告げて、竜王はなにごとか唱えた。
途端、扉にかかった魔法が解けて、大勢の人間が羽虫のように逃げ出していく。
王子らを気にかけるものはいない。ヒルデガルドやその両親に至っては、足蹴にするものすらいた。
――なにが、起こったのだろう。
目の前の状況は、リオンの理解をあまりにも超えていた。必死に繋ぎとめていた意識が、だんだんと遠ざかっていく。
やがて、意識がぷつんと途切れる寸前、リオンはじしんを包み込む腕に、その身を委ねたのだった。
◆ ◆ ◆
竜王は、人形のみが残る大広間で、リオンをそっと抱き締めた。
「ごめん、リオン……。我慢できなかった」
返事はない。リオンの寝顔を見ながら、悲しげにつぶやく。
「リオンはきっと、こんなことを望まないね」
竜王がリオンの義父母、義妹に施したのは、ひとが呪いと呼ぶものだ。竜王は、それを知っていた。
だが、とどめは刺さなかった。
……けれど、これは言い訳で、竜王がしたことはきっと彼らへの拷問だろう。
リオンのやさしさを受けていたのに、それを無下にした人間たちが許せなかった。
愛おしいリオンの苦しみは、こんなものではないのだから。
竜王は、リオンの前髪を上げる。
その瞼の奥にある美しい星屑の瞳を思い出して、白い額に音もなく口付けた。
次の瞬間、竜王の姿が霧のように立ち消える。
残ったのは、黄色い水たまりに浮かぶ、汚らしい四体の人形だけだった。
第二章
リオンが目を覚ましたとき、最初に見たのは、柔らかく細まった黄金の瞳だった。
ぱちり、ぱちりと目をしばたたく。
愛しいという気持ちが押し出された眼差しを向けられるのは、両親が死んでから初めてだ。
リオンの乾いた砂のような心に、しいんと染み入るようだった。
「リオン、起きたの?」
そこにいたのは、美しい青年だった。
座っているけれど、それでもなおわかる上背の高さと、女性的にすら見える整った顔立ち。
その中で、きらきらと輝く金の目と、光の加減で金にも銀にも見える髪が印象的だった。
……そういえば、リオンは衆目にさらされた場でシャルルに婚約破棄され、義妹に裏切られたのだ。
絶望の中、手を伸ばしたら――このひとが、掴んでくれた。
周りの人々はたしか、彼を竜王と呼んでいた気がすると思い出しながら、リオンは改めて問う。
「あなたは、だあれ?」
「私はラキスディート。ラキスと呼んでくれるとうれしい」
「ラキス……さま?」
彼の名乗ったラキスという名前は、リオンの舌によくなじんだ。
さま、という敬称が余計に思えるほど。
ラキスディートは、リオンが彼の名を呼んだ瞬間、まるで花が咲き誇るような笑みを浮かべ、敬称をつけるとしゅんと項垂れた。
その顔がとても好もしくて、どこか懐かしくて。
リオンは横になったまま、ゆるゆるとかぶりを振って、前髪を払った。
その姿を、障害物なしに見たかった。
……が、リオンはハッと我に返る。
リオンの目は、汚いものだ。このひとに見せたくないと強く思って、ぎゅっと目を閉じた。
「リオン?」
「だ、だめ。ラキスさま。目を見ないでください」
リオンは閉じた瞼を両の手で押さえる。
ラキスディートに嫌われたくないと心底から思ったからだ。
「どうして、リオン」
ラキスディートの声が硬い。リオンは続けた。
「私の目は、汚いものだから……」
どうして、自分の目はこんな色をしているのだろう。ラキスディートを見ることすら許されない。
リオンは恥ずかしくなって、ぐっと唇を噛んだ。
途端、部屋の空気が重くなる。
しかし、リオンの肌がそう感じる前にそれは霧散した。
ひんやりした彼の手がリオンの手にやさしく重ねられて、リオンの意識はそちらに向いた。
「ラキス、さま?」
「汚くなんてないよ」
「けれど……」
「私にとってこの世で一番美しい瞳を、そんな風に言わないで、リオン。星屑の瞳だ、とても綺麗だ」
ラキスディートが必死な様子でリオンに言う。
あら、とリオンは思った。両親と同じことを、ラキスディートが言ってくれたから。
それだけでなくて、この声をどこかで聞いたような気がする。
「ラキスさま」
「なに? リオン」
リオンは横になったまま、首を傾げた。
ラキスディートがチェリーブロンドの髪をやさしく撫でて、リオンの額をあらわにする。
まぶしい光を感じて、リオンはゆっくりと瞼を開いた。
「やっぱり、リオンの瞳は綺麗だ。夜の空に、星屑が散っている」
ラキスディートがリオンの目を見て、幸せそうに口を開く。
何度もリオンの髪に触れて、愛しい気持ちを隠そうとしない。
だからリオンは、ラキスディートが自分を好もしく思っていることがわかった。
だからこそ、不思議なのだ。
初対面のはずなのに、彼はリオンに好意的すぎる。
リオンがいやがらない程度の触れ合いを試みるラキスディートは、まるでリオンに嫌われるのが怖いみたいだ。
こんなに綺麗なひとだから、自分じゃなくても、釣り合う相手がたくさんいるはずなのに。
「ラキスさまと、わたくし、会ったことがありますか?」
「うん、ずうっと昔に」
リオンが尋ねると、ラキスディートが短く返してきた。
硬い声だった。まるで殻にこもって、柔らかいところを隠しているような声だった。
それを感じたから、リオンは視線を落としてぽつりとこぼす。
「ごめんなさい。わたくしは、それを覚えていないのです」
「うん」
「やさしくされても、同じ想いを返せません」
「うん」
「だから――」
「それでもいい」
ラキスディートは、リオンの言葉を遮った。
「君が生きてここにいてくれる。私の側にいてくれる。私に大切にされてくれることが、なによりうれしい。君は私の番だ。私は君が、なにより愛しい」
真剣な眼差しが、リオンを射貫くようだ。
けれど、リオンにはその目が潤んで見えて、そうっと手を伸ばした。
そして気づく。リオンの痩せて白粉だらけだった手は清められ、青白い肌の色が見える。
「あ……」
みっともなくて、思わず引っ込めようとした手を、ラキスディートがやさしく捕まえた。
「リオン、私に触れようとしてくれた?」
「……ええ。けれど、こんな、みっともない手では、あなたには触れられませんわ」
「みっともなくなんかない」
ラキスディートは、宝物みたいにリオンの手を両の手で包み込んだ。
黄金の目が、泣きそうに緩んだ。今度は、たしかにそう見えた。
「君のあたたかさを感じる。この手は、私にとって世界で一番尊い手だ」
ラキスディートはリオンの手をそう褒めた。
リオンは、そんな風に言われるような人間ではない。
だというのに、ラキスディートはリオンを大切にしようと言葉を尽くしている。
リオンはそれが不思議で、そして、どうしてか目の奥が熱くなるくらいに胸が締めつけられた。
「ラキスさまは、どうしてわたくしのことをそんな風に言ってくださるのですか」
尋ねた声は、こみ上げてくるなにかを抑えているせいで、絞り出すような小さなものになってしまった。
だっておかしいだろう。自分はラキスディートが言うような素晴らしい人間ではない。
髪はありふれた赤毛で、手入れがおざなりなせいで艶もなく、ぱさぱさしている。
顔立ちだって普通以下だ。前髪を鼻の上まで伸ばしているから、ただでさえ不気味な容貌。目に至っては星屑なんて美しいものではなく、汚らしいと言われ続けた。
姿だけでなく中身だって、あんな義父母や義妹を信じ続けた愚かな人間だ。
「わたくしは、なにも素晴らしいところのない人間です。すべてにおいて、出来損ないです」
「リオン」
ラキスディートは、もう一度リオンの髪を撫でる。それから、掬い上げるようにしてリオンを起こし、その腕に抱いた。
絹がこすれる滑らかな音がする。
その向こうで、とくん、とくんと速いリズムの鼓動が聞こえた。
「リオンは、リオンのことが嫌いなんだね」
「え……」
突然抱き締められたことよりも、ラキスディートの言葉に驚いて声をこぼした。
リオンには、自分がじしんを嫌いだという自覚がなかったから。
「わたくし、わたくしが嫌いなのですか?」
「そうかもしれない。私はリオンではないから、リオンの本当のところは、決してわからない」
ラキスディートはリオンの頭をそうっと抱え、前髪を持ち上げた。
不思議と、それに恐怖は感じなかった。
リオンの目と、ラキスディートの黄金の目が正面から交わる。
リオンは、ラキスディートの目から一筋の涙が流れていることに気づいた。
ラキスディートは美しい唇から、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「わからないけれど、知ろうとすることをやめないよ、リオン。一生わからないけれど、わかるように努力する。リオンが自分のことを嫌いなら、私がリオンをふたり分好きになろう」
「ラキスさまは……」
リオンは少し戸惑って、言葉を途切れさせた。
「ラキスさまは、どうしてわたくしを好きなのですか」
「生きているから」
ラキスディートは淀みなく答えた。ラキスディートの涙が、顎を伝ってリオンの手に落ちる。そして微笑み、疑問を浮かべるリオンの頬を撫でた。
「息をしているから好きだ、その目が好きだ。あたたかいから好きだ。私を見てくれるところが好きで、声も好きだ。その赤毛も愛している。リオンがリオンを好きでないところだって、好もしいと思う。リオン、つまり、私はリオンがリオンであるところのすべてを好きなんだ」
「……ごめんなさい、わたくし、意味がよく……」
リオンの言葉に、ラキスディートは苦笑した。
「実は、私も。君が好きだよ、リオン。けれど、君が思う以上に、ずっと私はリオンが好きで、好きすぎて、うまく言えないんだ。ごめんね」
「そういうことなら、わかります。わたくしだって、自分が自分を嫌いなことをさっき知ったばかりですもの」
リオンは、ラキスディートの胸に耳を当てた。先ほどより速い鼓動が、リオンの耳朶を心地よく打つ。
リオンは、それをとてもうれしく思った。安心できる場所は、ここだと思った。
その理由はよくわからないけれど、とにかく今は、心から安心していた。
――そのとき。
くるるる、と音が鳴って、リオンはぱっと顔を熱くする。
そういえば、王宮に行く前からなにも食べていなかった。
はっとラキスディートを振り仰ぐと、彼はまるでこの世で最も愛らしいものを見ているかのように、リオンを見下ろしていた。
「リオン、ご飯を食べよう」
「あ、あの……すみません」
「ちなみに、私は、君のおなかの音だって好きだと思うよ」
ラキスディートがそう言うから、リオンは今度こそ、耳まで真っ赤に染まったのを感じた。
彼は小さく笑ってなにごとかつぶやくと、リオンの背に回っていないほうの手の指先から、ほのかな白い光をひとつ、出現させた。
リオンが目をしばたたいてそれを見つめていると、ラキスディートはなにか思いついたような顔をして、もう一度、今度はもっと長い言葉を口にした。
すると、ぽわん、ぽわんと白い光が増えて、部屋中が白い光の珠で満たされる。
「まあ……! この光は……?」
「これは魔法で出した、呼び出しのための合図だよ。壁を通り抜けることのできる光の珠なんだ。音が出ないから便利なんだよ」
リオンが尋ねると、ラキスディートは特段大したことではないことを言うように、簡単な説明をしてくれた。
「魔法……」
アルトゥール王国では畏怖の対象だった超常の力が、まるでカトラリーでも使うように日常的に用いられていることに驚いた。
美しい光景に、リオンは目を奪われる。
それは、リオンを鞭打った家庭教師の竜の魔法の講義より、何倍も興味深いものに思えた。
「もっと神秘的なものだと思った?」
「いいえ、はい。……いいえ?」
魔法など見ることはないと思っていたので、しどろもどろになる。
リオンの不明瞭な答えに、ラキスディートは声を上げて笑った。
「ラキスさま?」
「笑ってごめんね、リオン。かわいくてつい」
ラキスディートがすいと指先でリオンの背後を示すと、その光が一斉にそのほうへ向かった。
リオンは、その白い珠を目で追う。
リオンはそこでやっと、ここが今まで見たこともないような豪奢な部屋であることに気がついた。
リオンとラキスディートがいるのは、部屋の端の窓際に置かれたベッドの上だ。
部屋の中央には、寄せ木細工に花の描かれた陶器がはめ込まれた、可憐なテーブルがある。
二つ並んだ椅子の脚は茎が伸び上がっているようで、花をかたどった座面は柔らかそうだ。どうやら、テーブルと同じ花がモチーフらしい。
集まった貴族のひとりが、突然その場に現れた青年の姿を見てなにかに気づき、悲鳴を上げながら扉へ走り出した。
その男が、扉を押す。しかし、鍵はかかっていないはずなのに、まるで一枚の壁のように微動だにしない。
だれかが、ひ、と小さく悲鳴を上げる。そして、この世で最も恐ろしいものを見たかのように、魔法だ、とつぶやいた。
――魔法。
それは、生態系の頂点、この世界の支配者たる生き物――竜にのみ使うことを許された異能。
奇跡の力。人間には決して扱えぬ強大な力。
まだ戦争をしていた頃、ひとは、これを呪いの力と言った。
「魔法だ」
「魔法……だと……」
「だとしたら、だとしたらあの男は、まさか……」
「竜だというのか……⁉」
ざわめきが波紋のように広がり、貴族たちの目がさっと恐怖に染まった。
先ほどまでの、強気な雰囲気が嘘のように、恐怖ゆえのさざめきが叫びとなって、王宮の広間を埋め尽くす。
「リオン、私のリオン」
震えているリオンに気づいたのだろう。白金の青年は、リオンの手をやさしく握ったまま低い声を和らげ、そのつむじに口付けて囁いた。
「もう、大丈夫だ」
――大丈夫。
リオンは呆然としたまま、自分をやさしく包み込んでくれているその青年を見上げた。
黄金の目が、縦に長い瞳孔を開いてこちらを見ている。それは、リオンの姿をその目に焼きつけんと、必死なようだった。
男性に触れるのは、父と幼き頃のシャルル以外、これが初めてだ。
だというのに、リオンはまったく恐ろしくなかった。
このひとに恐怖を感じることなどありはしない。なぜか、そう確信していた。
むしろ、懐かしさまである。リオンはどうしてしまったのだろう。
シャルルへの恋心が霧散したわけではないけれど、まるで、その対象がそっくりそのままこの青年に移ったような気持ちだった。
「……あなたは?」
リオンは戸惑いながら、青年に尋ねる。
「……そうか、そうだったな」
彼はリオンの言葉に目を細め、悲しげに眉を下げた。
そんな顔をしてほしくなくて、リオンは咄嗟に青年の法衣のような白い服を握る。彼ははっとした顔をして、リオンにやさしく微笑んで見せた。
「忘れていても、また育めばいい。リオン、もう君を辛い目にはあわせない」
「忘れ……?」
「今は気にしないでいい。リオン」
そう言った青年は、ようやく周囲の阿鼻叫喚に気づいた様子で、シャルルとヒルデガルド、そしてリオンの義父母を順番に見やり、黄金の目を炯々と輝かせた。
「それより、そこのものたちの対処をするから、待っていてくれるかい?」
青年は、リオンをそうっと横抱きにして、その切れ長の目をすいと細める。
いつの間にか、近衛兵たちが青年とリオンを取り囲んでいた。
「あ、あの……」
「大丈夫、リオン。心配しないで」
そうは言っても、心配せずにはいられない。
リオンは、出会ったばかりのこの青年が傷つくところを見たくないと思った。
どうしてか、そう思った。
「竜! 貴様、ここが人間の国、アルトゥールと知っての狼藉か」
髭を生やした、ひときわ華美な服を着た貴族が、剣を構える近衛兵の後ろに隠れながら声を張った。
しかし、その声はわずかに震えている。
それに、青年も気づいたのだろう。
呆れたように、くっと笑って見せ、その貴族を指す。
途端、風が吹き、男が宙へ舞い上がった。
リオンは、宙に浮き、恐怖で顔を青くした男を見る。
貴族の中でリオンを最初に糾弾した、ヒルデガルドの信奉者だ。
「貴様こそ、竜の番のことも知らずによく言えたな」
青年は、燃えるような怒気を孕んだ声で男に言う。
番。先ほども、彼はリオンをそう呼んだ。
リオンは、番という言葉に聞き覚えがある気がしたが、それがなんなのかはわからなかった。
しかし、第一王子であるシャルルは知っていたらしい。
彼はさっと顔色を変え、リオンを見て、まさか、と口にした。
「しゃ、シャルルさま、なあに? あの不審者……は、早く、早く追い出して!」
ヒルデガルドはシャルルに抱きついて、どうにか隠れようとする。
しかし、ヒルデガルドとそう体格の変わらない、背が低くヒョロヒョロとしたシャルルには到底隠れられなかった。
「さあ、どうだ。その顔、知らないとは言わせない」
青年の声を聞き、シャルルの顔が蒼白を通り越して完全に色を失う。
ヒルデガルドはガタガタ震えるシャルルに抱きつきながら、不意に鼻をついた異臭に顔をしかめた。
「シャルルさま? どうしたの?」
ヒルデガルドはにおいの元を探して下を向き、自分のフリルたっぷりの真っ白なドレスが、黄色い液体で濡れていることに気づく。
そうして悲鳴を上げ、シャルルから飛び退いた。
「いや! 汚い!」
「ひ、ヒルダ、すまない、すまない」
「近寄らないで!」
ヒルデガルドがシャルルを突き飛ばす。
いつも自信に満ちた、尊敬する王子の突然の奇行と醜態に、近衛兵や貴族はおろおろと戸惑うばかりだ。
「く、くそ! ヒルダ……!」
情けない姿をさらし、顔を赤と青に交互に染めるシャルルは滑稽だ。
シャルルは視線を彷徨わせたのち、青年に抱かれるリオンに目を留める。
それから羞恥と怒りで埋め尽くされた様子でリオンを指差し、叫んだ。
「リオン・ロッテンメイヤー! 貴様のせいだ! 貴様の、貴様のせいで――!」
――刹那。シャルルの声を最後に、空気が、止まった。
張りつめた、凍った、そのどちらでもない。それは、この状況にふさわしい表現ではない。
正しく、空気が止まったのだ。
「あ――?」
シャルルは、じしんの体になにがもたらされたのかわかっていないようで、小さく声を上げた。
ぱき、ぱき、と音がして、シャルルの体が、指から、足先から、動かなくなっていく。まるで陶器のように、シャルルの体が硬くなっていく。
「今、なんと言った」
白金が揺らめく。対比のように、シャルルの髪が滑らかな人形のそれへと変わっていく。
「国ごと焦土にされたいか、アルトゥールの王子。返答についてはよく考えよ」
ヒルデガルドが尻餅をついた。
「ヒルダ――」
「いや! 来ないで、バケモノ!」
シャルルが――否、シャルルだった生き人形が一歩近づくたびに、ヒルデガルドは悲鳴を上げて後退する。
「りゅ、りゅう、王、竜王、助けて、たす、たすけ、けててけててて」
ガラス玉となったシャルルの目がぐりんと上向いた。そしてそれはがしゃんと転んだのちに、地べたを這うようにして青年――竜王の足元にキスをする。
「な、なめれば、いイ? 靴を、なめる、から、たす、たすけ」
「助けを乞うのは私にではない。だが、助けを乞う機会をやる気も失せた」
そう、竜王はシャルルだったものを一瞥した。
「シャルル、さま? ヒルダ……?」
リオンは、そこでようやく声を出す。
途端、竜王はまるで嫉妬のような熱い視線をリオンに向けた。
それからなにかを言いかけて、耐えるように唇を噛み、リオンの髪を撫でる。
竜王は大きく息をついたあと、じしんの髪を一筋引き抜き、魔法を行使した。
白金の髪は空中で星をかたどって、眩い光とともに、シャルルの中に吸い込まれる。
その瞬間、竜王の手がさっとリオンの目を覆った。
「なにが、起こったのだ……?」
貴族のひとりが呆然とつぶやく。
視界が明るくなったと同時に、リオンはぼんやりとその場を見た。
そこには、四体の人形が落ちていた。
それは、すべてひとと同じ大きさで、シャルルとヒルデガルド、そして背後で逃げようとしていた義父母とそっくりな容姿をしている。
「お人形……?」
リオンが静かに言い――やがて、目をしばたたいて、口を押さえた。
……これは、人形ではない。
「これは、猶予だ」
竜王が告げる。
「その陶器は皮だけだ。下にはひとの血肉がある。まだ生きているが、早く剥がさねば三日程度で死ぬだろう……人間、これは警告だ。真実をつまびらかにし、我が番姫の名誉を回復せよ。さすれば、彼らは元に戻る」
最後にそう告げて、竜王はなにごとか唱えた。
途端、扉にかかった魔法が解けて、大勢の人間が羽虫のように逃げ出していく。
王子らを気にかけるものはいない。ヒルデガルドやその両親に至っては、足蹴にするものすらいた。
――なにが、起こったのだろう。
目の前の状況は、リオンの理解をあまりにも超えていた。必死に繋ぎとめていた意識が、だんだんと遠ざかっていく。
やがて、意識がぷつんと途切れる寸前、リオンはじしんを包み込む腕に、その身を委ねたのだった。
◆ ◆ ◆
竜王は、人形のみが残る大広間で、リオンをそっと抱き締めた。
「ごめん、リオン……。我慢できなかった」
返事はない。リオンの寝顔を見ながら、悲しげにつぶやく。
「リオンはきっと、こんなことを望まないね」
竜王がリオンの義父母、義妹に施したのは、ひとが呪いと呼ぶものだ。竜王は、それを知っていた。
だが、とどめは刺さなかった。
……けれど、これは言い訳で、竜王がしたことはきっと彼らへの拷問だろう。
リオンのやさしさを受けていたのに、それを無下にした人間たちが許せなかった。
愛おしいリオンの苦しみは、こんなものではないのだから。
竜王は、リオンの前髪を上げる。
その瞼の奥にある美しい星屑の瞳を思い出して、白い額に音もなく口付けた。
次の瞬間、竜王の姿が霧のように立ち消える。
残ったのは、黄色い水たまりに浮かぶ、汚らしい四体の人形だけだった。
第二章
リオンが目を覚ましたとき、最初に見たのは、柔らかく細まった黄金の瞳だった。
ぱちり、ぱちりと目をしばたたく。
愛しいという気持ちが押し出された眼差しを向けられるのは、両親が死んでから初めてだ。
リオンの乾いた砂のような心に、しいんと染み入るようだった。
「リオン、起きたの?」
そこにいたのは、美しい青年だった。
座っているけれど、それでもなおわかる上背の高さと、女性的にすら見える整った顔立ち。
その中で、きらきらと輝く金の目と、光の加減で金にも銀にも見える髪が印象的だった。
……そういえば、リオンは衆目にさらされた場でシャルルに婚約破棄され、義妹に裏切られたのだ。
絶望の中、手を伸ばしたら――このひとが、掴んでくれた。
周りの人々はたしか、彼を竜王と呼んでいた気がすると思い出しながら、リオンは改めて問う。
「あなたは、だあれ?」
「私はラキスディート。ラキスと呼んでくれるとうれしい」
「ラキス……さま?」
彼の名乗ったラキスという名前は、リオンの舌によくなじんだ。
さま、という敬称が余計に思えるほど。
ラキスディートは、リオンが彼の名を呼んだ瞬間、まるで花が咲き誇るような笑みを浮かべ、敬称をつけるとしゅんと項垂れた。
その顔がとても好もしくて、どこか懐かしくて。
リオンは横になったまま、ゆるゆるとかぶりを振って、前髪を払った。
その姿を、障害物なしに見たかった。
……が、リオンはハッと我に返る。
リオンの目は、汚いものだ。このひとに見せたくないと強く思って、ぎゅっと目を閉じた。
「リオン?」
「だ、だめ。ラキスさま。目を見ないでください」
リオンは閉じた瞼を両の手で押さえる。
ラキスディートに嫌われたくないと心底から思ったからだ。
「どうして、リオン」
ラキスディートの声が硬い。リオンは続けた。
「私の目は、汚いものだから……」
どうして、自分の目はこんな色をしているのだろう。ラキスディートを見ることすら許されない。
リオンは恥ずかしくなって、ぐっと唇を噛んだ。
途端、部屋の空気が重くなる。
しかし、リオンの肌がそう感じる前にそれは霧散した。
ひんやりした彼の手がリオンの手にやさしく重ねられて、リオンの意識はそちらに向いた。
「ラキス、さま?」
「汚くなんてないよ」
「けれど……」
「私にとってこの世で一番美しい瞳を、そんな風に言わないで、リオン。星屑の瞳だ、とても綺麗だ」
ラキスディートが必死な様子でリオンに言う。
あら、とリオンは思った。両親と同じことを、ラキスディートが言ってくれたから。
それだけでなくて、この声をどこかで聞いたような気がする。
「ラキスさま」
「なに? リオン」
リオンは横になったまま、首を傾げた。
ラキスディートがチェリーブロンドの髪をやさしく撫でて、リオンの額をあらわにする。
まぶしい光を感じて、リオンはゆっくりと瞼を開いた。
「やっぱり、リオンの瞳は綺麗だ。夜の空に、星屑が散っている」
ラキスディートがリオンの目を見て、幸せそうに口を開く。
何度もリオンの髪に触れて、愛しい気持ちを隠そうとしない。
だからリオンは、ラキスディートが自分を好もしく思っていることがわかった。
だからこそ、不思議なのだ。
初対面のはずなのに、彼はリオンに好意的すぎる。
リオンがいやがらない程度の触れ合いを試みるラキスディートは、まるでリオンに嫌われるのが怖いみたいだ。
こんなに綺麗なひとだから、自分じゃなくても、釣り合う相手がたくさんいるはずなのに。
「ラキスさまと、わたくし、会ったことがありますか?」
「うん、ずうっと昔に」
リオンが尋ねると、ラキスディートが短く返してきた。
硬い声だった。まるで殻にこもって、柔らかいところを隠しているような声だった。
それを感じたから、リオンは視線を落としてぽつりとこぼす。
「ごめんなさい。わたくしは、それを覚えていないのです」
「うん」
「やさしくされても、同じ想いを返せません」
「うん」
「だから――」
「それでもいい」
ラキスディートは、リオンの言葉を遮った。
「君が生きてここにいてくれる。私の側にいてくれる。私に大切にされてくれることが、なによりうれしい。君は私の番だ。私は君が、なにより愛しい」
真剣な眼差しが、リオンを射貫くようだ。
けれど、リオンにはその目が潤んで見えて、そうっと手を伸ばした。
そして気づく。リオンの痩せて白粉だらけだった手は清められ、青白い肌の色が見える。
「あ……」
みっともなくて、思わず引っ込めようとした手を、ラキスディートがやさしく捕まえた。
「リオン、私に触れようとしてくれた?」
「……ええ。けれど、こんな、みっともない手では、あなたには触れられませんわ」
「みっともなくなんかない」
ラキスディートは、宝物みたいにリオンの手を両の手で包み込んだ。
黄金の目が、泣きそうに緩んだ。今度は、たしかにそう見えた。
「君のあたたかさを感じる。この手は、私にとって世界で一番尊い手だ」
ラキスディートはリオンの手をそう褒めた。
リオンは、そんな風に言われるような人間ではない。
だというのに、ラキスディートはリオンを大切にしようと言葉を尽くしている。
リオンはそれが不思議で、そして、どうしてか目の奥が熱くなるくらいに胸が締めつけられた。
「ラキスさまは、どうしてわたくしのことをそんな風に言ってくださるのですか」
尋ねた声は、こみ上げてくるなにかを抑えているせいで、絞り出すような小さなものになってしまった。
だっておかしいだろう。自分はラキスディートが言うような素晴らしい人間ではない。
髪はありふれた赤毛で、手入れがおざなりなせいで艶もなく、ぱさぱさしている。
顔立ちだって普通以下だ。前髪を鼻の上まで伸ばしているから、ただでさえ不気味な容貌。目に至っては星屑なんて美しいものではなく、汚らしいと言われ続けた。
姿だけでなく中身だって、あんな義父母や義妹を信じ続けた愚かな人間だ。
「わたくしは、なにも素晴らしいところのない人間です。すべてにおいて、出来損ないです」
「リオン」
ラキスディートは、もう一度リオンの髪を撫でる。それから、掬い上げるようにしてリオンを起こし、その腕に抱いた。
絹がこすれる滑らかな音がする。
その向こうで、とくん、とくんと速いリズムの鼓動が聞こえた。
「リオンは、リオンのことが嫌いなんだね」
「え……」
突然抱き締められたことよりも、ラキスディートの言葉に驚いて声をこぼした。
リオンには、自分がじしんを嫌いだという自覚がなかったから。
「わたくし、わたくしが嫌いなのですか?」
「そうかもしれない。私はリオンではないから、リオンの本当のところは、決してわからない」
ラキスディートはリオンの頭をそうっと抱え、前髪を持ち上げた。
不思議と、それに恐怖は感じなかった。
リオンの目と、ラキスディートの黄金の目が正面から交わる。
リオンは、ラキスディートの目から一筋の涙が流れていることに気づいた。
ラキスディートは美しい唇から、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「わからないけれど、知ろうとすることをやめないよ、リオン。一生わからないけれど、わかるように努力する。リオンが自分のことを嫌いなら、私がリオンをふたり分好きになろう」
「ラキスさまは……」
リオンは少し戸惑って、言葉を途切れさせた。
「ラキスさまは、どうしてわたくしを好きなのですか」
「生きているから」
ラキスディートは淀みなく答えた。ラキスディートの涙が、顎を伝ってリオンの手に落ちる。そして微笑み、疑問を浮かべるリオンの頬を撫でた。
「息をしているから好きだ、その目が好きだ。あたたかいから好きだ。私を見てくれるところが好きで、声も好きだ。その赤毛も愛している。リオンがリオンを好きでないところだって、好もしいと思う。リオン、つまり、私はリオンがリオンであるところのすべてを好きなんだ」
「……ごめんなさい、わたくし、意味がよく……」
リオンの言葉に、ラキスディートは苦笑した。
「実は、私も。君が好きだよ、リオン。けれど、君が思う以上に、ずっと私はリオンが好きで、好きすぎて、うまく言えないんだ。ごめんね」
「そういうことなら、わかります。わたくしだって、自分が自分を嫌いなことをさっき知ったばかりですもの」
リオンは、ラキスディートの胸に耳を当てた。先ほどより速い鼓動が、リオンの耳朶を心地よく打つ。
リオンは、それをとてもうれしく思った。安心できる場所は、ここだと思った。
その理由はよくわからないけれど、とにかく今は、心から安心していた。
――そのとき。
くるるる、と音が鳴って、リオンはぱっと顔を熱くする。
そういえば、王宮に行く前からなにも食べていなかった。
はっとラキスディートを振り仰ぐと、彼はまるでこの世で最も愛らしいものを見ているかのように、リオンを見下ろしていた。
「リオン、ご飯を食べよう」
「あ、あの……すみません」
「ちなみに、私は、君のおなかの音だって好きだと思うよ」
ラキスディートがそう言うから、リオンは今度こそ、耳まで真っ赤に染まったのを感じた。
彼は小さく笑ってなにごとかつぶやくと、リオンの背に回っていないほうの手の指先から、ほのかな白い光をひとつ、出現させた。
リオンが目をしばたたいてそれを見つめていると、ラキスディートはなにか思いついたような顔をして、もう一度、今度はもっと長い言葉を口にした。
すると、ぽわん、ぽわんと白い光が増えて、部屋中が白い光の珠で満たされる。
「まあ……! この光は……?」
「これは魔法で出した、呼び出しのための合図だよ。壁を通り抜けることのできる光の珠なんだ。音が出ないから便利なんだよ」
リオンが尋ねると、ラキスディートは特段大したことではないことを言うように、簡単な説明をしてくれた。
「魔法……」
アルトゥール王国では畏怖の対象だった超常の力が、まるでカトラリーでも使うように日常的に用いられていることに驚いた。
美しい光景に、リオンは目を奪われる。
それは、リオンを鞭打った家庭教師の竜の魔法の講義より、何倍も興味深いものに思えた。
「もっと神秘的なものだと思った?」
「いいえ、はい。……いいえ?」
魔法など見ることはないと思っていたので、しどろもどろになる。
リオンの不明瞭な答えに、ラキスディートは声を上げて笑った。
「ラキスさま?」
「笑ってごめんね、リオン。かわいくてつい」
ラキスディートがすいと指先でリオンの背後を示すと、その光が一斉にそのほうへ向かった。
リオンは、その白い珠を目で追う。
リオンはそこでやっと、ここが今まで見たこともないような豪奢な部屋であることに気がついた。
リオンとラキスディートがいるのは、部屋の端の窓際に置かれたベッドの上だ。
部屋の中央には、寄せ木細工に花の描かれた陶器がはめ込まれた、可憐なテーブルがある。
二つ並んだ椅子の脚は茎が伸び上がっているようで、花をかたどった座面は柔らかそうだ。どうやら、テーブルと同じ花がモチーフらしい。
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