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六:眼鏡
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書斎に戻った俺は、あの『ネクタイ』を机に置き、執筆に耽った。
洗わずに持ち帰ったそれは、沙華の『人間』としての体温や、抑えられない快楽で零れた涙――そんな、自分があの少年に刻み込んだ痕跡を、雄弁に物語っている気がした。
沙華は「洗って返します」「黴びますよ」などと情緒の無いことを言っていたが、これはもう服飾品の枠を超えた『遺物』だ。
こんなインスピレーションの塊をただのネクタイに戻してしまうなど、到底出来ることではなかった。
初めての夜に見た虚無とは程遠い、与えられる刺激に身を捩り嬌声を漏らす姿がひどく鮮烈に脳裏に焼き付いている。
娼としての手練手管など一切混じっていない、ただ生々しい人間の反応だった。
目隠し一つでここまで変わるものかと驚愕したが、あの様子を見るとどちらも沙華の真実であるのだと信じざるを得なかった。
やはり相手に所有され、支配されている状況でないと自分を解放できない性質なのだろうか。
もしそうだとすると、初回の人形ぶりにも説明がついてしまう。あの時俺は、沙華の反応を引き出すのにまるで逆の手段を使っていたことになるじゃないか。
そう考えると、あの虚ろの深淵すら痛ましくも愛おしかった。
そして、俺の著書を読みたいという意志も本物だった。
本の実物を渡してすぐに「本当に作家だったんですね」などと宣われて、一周回ってその不遜さに感嘆するばかりだったが、沙華の身の上を思うと真偽を確認する術もなかったのだから悪気は無いのだろう。
だが、白子症の沙華はどうしても視力が低い。
それでも本を読もうと目を細めるその姿は、健気としか言いようがなかった。
あの赤く美しい瞳に、俺の言葉を、俺という存在を、正しく焼き付けてやりたい。
そんな衝動に支配され、いつの間にか執筆の手が止まっていた。
*
我妻さんが本を持ってきてくれた数日後、再び座敷を訪れた彼は一人ではなく他の人間を伴っていた。
なんでも、この辺りで一番腕のいい眼鏡師なのだという。
困惑する俺をよそに、あれよあれよという間に検査や調整が進んで、金縁の丸眼鏡が我妻さんの手で俺の鼻梁に載せられる。
世界が、変わった気がした。
頼りなく溶け合っていた色彩が、鋭利な刃物のような輪郭を持って押し寄せてくる。
畳のささくれ、障子の隅の破れ、掛け軸の墨の掠れ。そして――。
「……どうだ、沙華?見えるか?」
頭の上の方から、心配と期待に満ちた声が聞こえる。
じっと目の前の『影』を見つめた。
今まで、それはただの、高そうな匂いのする熱塊だった。
しかし今、そこには驚くほど精緻な造形が存在していた。
整えられた眉、少し傲慢そうな光を宿した瞳、意志の強そうな唇。
そんな男の顔が今、自分を覗き込んでいるのがはっきり見えた。
「……沙華?」
「……。……驚きました」
俺は、無意識に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「我妻さんは、顔が良かったんですね」
「…………は?」
我妻さんは時間が止まったように固まる。本心から褒めたのに何故だろう。
せっかくなので、更にまじまじとその端正な顔を眺め回した。
「いえ、今までなんとなくの輪郭と声でしか認識していなかったので。……これほど整ったお顔をされていたとは。道理で、店の姉たちが『上客だ』と騒ぐわけです」
こんなに手放しで褒めているのに、俺の賛辞を聞くほどに、我妻さんの表情は脱力感に満ちていく。
「……お前、今まで俺がどんな顔をしているかすら、見えていなかったのか?」
「はい。洒落た服を着た、いい匂いのする影だと思っていました」
我妻さんは黙ったままずるずると座り込み、手近な脇息にどさりと肘をついた。
彼の態度はどうにも不可解だったが、自分が肝心のことを伝えていないことにふと気がついて、姿勢を正し頭を下げた。
「我妻さん、ありがとうございます。あなたのおかげで、とてもよく見える。……本当に、嬉しいです」
真面目に礼を言うつもりだったのに、知らずに口元が笑みの形を作ってしまう。
それに釣られてか、憮然とした顔をしていた我妻さんも、どこか満足そうな微笑みを浮かべた。
洗わずに持ち帰ったそれは、沙華の『人間』としての体温や、抑えられない快楽で零れた涙――そんな、自分があの少年に刻み込んだ痕跡を、雄弁に物語っている気がした。
沙華は「洗って返します」「黴びますよ」などと情緒の無いことを言っていたが、これはもう服飾品の枠を超えた『遺物』だ。
こんなインスピレーションの塊をただのネクタイに戻してしまうなど、到底出来ることではなかった。
初めての夜に見た虚無とは程遠い、与えられる刺激に身を捩り嬌声を漏らす姿がひどく鮮烈に脳裏に焼き付いている。
娼としての手練手管など一切混じっていない、ただ生々しい人間の反応だった。
目隠し一つでここまで変わるものかと驚愕したが、あの様子を見るとどちらも沙華の真実であるのだと信じざるを得なかった。
やはり相手に所有され、支配されている状況でないと自分を解放できない性質なのだろうか。
もしそうだとすると、初回の人形ぶりにも説明がついてしまう。あの時俺は、沙華の反応を引き出すのにまるで逆の手段を使っていたことになるじゃないか。
そう考えると、あの虚ろの深淵すら痛ましくも愛おしかった。
そして、俺の著書を読みたいという意志も本物だった。
本の実物を渡してすぐに「本当に作家だったんですね」などと宣われて、一周回ってその不遜さに感嘆するばかりだったが、沙華の身の上を思うと真偽を確認する術もなかったのだから悪気は無いのだろう。
だが、白子症の沙華はどうしても視力が低い。
それでも本を読もうと目を細めるその姿は、健気としか言いようがなかった。
あの赤く美しい瞳に、俺の言葉を、俺という存在を、正しく焼き付けてやりたい。
そんな衝動に支配され、いつの間にか執筆の手が止まっていた。
*
我妻さんが本を持ってきてくれた数日後、再び座敷を訪れた彼は一人ではなく他の人間を伴っていた。
なんでも、この辺りで一番腕のいい眼鏡師なのだという。
困惑する俺をよそに、あれよあれよという間に検査や調整が進んで、金縁の丸眼鏡が我妻さんの手で俺の鼻梁に載せられる。
世界が、変わった気がした。
頼りなく溶け合っていた色彩が、鋭利な刃物のような輪郭を持って押し寄せてくる。
畳のささくれ、障子の隅の破れ、掛け軸の墨の掠れ。そして――。
「……どうだ、沙華?見えるか?」
頭の上の方から、心配と期待に満ちた声が聞こえる。
じっと目の前の『影』を見つめた。
今まで、それはただの、高そうな匂いのする熱塊だった。
しかし今、そこには驚くほど精緻な造形が存在していた。
整えられた眉、少し傲慢そうな光を宿した瞳、意志の強そうな唇。
そんな男の顔が今、自分を覗き込んでいるのがはっきり見えた。
「……沙華?」
「……。……驚きました」
俺は、無意識に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「我妻さんは、顔が良かったんですね」
「…………は?」
我妻さんは時間が止まったように固まる。本心から褒めたのに何故だろう。
せっかくなので、更にまじまじとその端正な顔を眺め回した。
「いえ、今までなんとなくの輪郭と声でしか認識していなかったので。……これほど整ったお顔をされていたとは。道理で、店の姉たちが『上客だ』と騒ぐわけです」
こんなに手放しで褒めているのに、俺の賛辞を聞くほどに、我妻さんの表情は脱力感に満ちていく。
「……お前、今まで俺がどんな顔をしているかすら、見えていなかったのか?」
「はい。洒落た服を着た、いい匂いのする影だと思っていました」
我妻さんは黙ったままずるずると座り込み、手近な脇息にどさりと肘をついた。
彼の態度はどうにも不可解だったが、自分が肝心のことを伝えていないことにふと気がついて、姿勢を正し頭を下げた。
「我妻さん、ありがとうございます。あなたのおかげで、とてもよく見える。……本当に、嬉しいです」
真面目に礼を言うつもりだったのに、知らずに口元が笑みの形を作ってしまう。
それに釣られてか、憮然とした顔をしていた我妻さんも、どこか満足そうな微笑みを浮かべた。
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