灼華楼綺譚

兎沙

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七:鍵

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沙華が俺の本を読んでいる姿を、しばらく黙って眺めていた。

眼鏡一つで、これほどまでに印象が変わるものか。
あれほど焦点の合わなかった赤い瞳が、紙の上の文字を追うたびにわずかに揺れ、感情の気配を帯びる。

長い睫毛が硝子越しに影を落とし、頬の線をひどく幼く見せている。

無防備だ。俺という客がいることを完全に忘れている。

だが今、その無防備さがどうしようもなく胸に刺さった。
この少年はいつも、静かで、淡々としていて、まるで人の形を借りただけの白蛇の化生のようだったのに。
今は、ただの『生きた人間』だった。

頁をめくる指が、微かに震えている。
読み慣れていないせいか、感情が動いているせいか、それはわからない。
ただ、その仕草がどうしようもなく愛おしく見えてしまう。

声をかけないまま見ていたが、視線に気付いたのか沙華がふっと顔を上げた。
眼鏡の奥で、以前よりよく光を捉える瞳が真っ直ぐにこちらを射抜く。

目が合った。刹那、胸の奥が跳ねる。

その一瞬で、無防備だった沙華の表情が僅かに変わった。
読みかけの本をぱたんと閉じ、膝に置いたそれを静かに撫でてから、こちらへ体を向けた。

そんな動作だけで、何故か喉がひどく乾く。

沙華は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。
どこか存在が希薄に思える軽い足音なのに、俺の耳にはいやに響いて聞こえた。

「……我妻さん」

至近距離で声をかけられて、呼吸が止まりそうになるのを必死に隠した。
眼鏡越しの紅は、今までのどの沙華よりも鮮やかな色彩で、俺を捕らえて離さない。

「すみません、本が面白くて仕事を忘れていました……俺、こんなに読めるのが、本当に嬉しくて……」

申し訳無さそうに言われたが、声色には喜びが滲んでいる。
その無自覚な甘さが、どんな美辞麗句よりも胸をざわつかせた。

「そんなことは気にしなくていい」と言ってやろうとしたが、その前に沙華が俺の顔を覗き込んで告げた。

「俺は、あなたに恩が出来ました。そして、まだ読みかけではありますが……あの本に書いてあったあなたの『嗜好』を……多分、理解しました」
「…………え?」

夢のように浮ついていた気持ちが一気に現実に引き戻される。
嗜好?俺の嗜好って何だ?
情報を処理しきれていないうちに、沙華は更に続けた。

「今まで俺の知らなかった分野ですが、あれが『耽美』というものなのでしょう? 『支配と陶酔』、『献身』、『服従』……それが我妻さんの求めているものなのだと、読み取れました」

思わず、絶句した。
違う。断じて違う。俺が書いているのは美学と思想であって、己の性的嗜好ではない。

いや、違わないのか?そもそも俺が沙華に興味を持ったのは、その在り方に『耽美と退廃』の気配を感じたからではないのか?

対立する思考が混線している俺の顔を見て、沙華がふ、と微笑んだ。

「……ふふ。我妻さんて、こんなに百面相をしていたんですね。大丈夫ですよ、俺自身が『耽美』を理解したいと思っているんです。あなたにちゃんと『返礼』をするために、最適な形を取るだけですよ」
「……沙華、お前が?耽美に?興味があるのか……?」

その美しい微笑みと言っている内容が噛み合わずに、作家だというのに意味の無い垂れ流しのような言葉しか返せない。
しかし、ふと思い出す。この少年が、支配される悦びの中でしか自分を解放できないということを。

それならば、この提案は、沙華の嗜好を満たすということにもなるのではないか?
これは利と利が噛み合った、嗜好の相互補完と言っていい。……いや、もはや宿命かもしれない。

「……沙華、お前の気持ちはわかった。ならば俺に、お前の解釈した『耽美』を見せてくれ……」

沙華の両肩を掴んで、真っ直ぐ目を見て言った。
そして沙華も、至極神妙な面持ちで頷いた。


そうして完成したのが、再び俺のネクタイを使い、両手首を後ろ手に縛られて跪く沙華の姿だった。

美しい。美しいが、なんだ、これは?

手伝っておいて呆然とする俺をよそに、沙華は大真面目な顔でうんうん頷いている。

「ありがとうございます、これで完璧です。では、我妻さん……俺の『返礼』を、受け取ってください……」

沙華は跪いたまま口でつい、と俺の着物の袖を引き、座るように促した。
されるがままに座り込むと、沙華がゆっくりと体を密着させてきて、その顔が俺の首筋に埋まる。
そして、濡れた舌の感触が、鎖骨から喉仏に走った。

「……っ!」

思わず息が詰まった。
同じような愛撫は何度も受けているが、状況はここまで倒錯していなかった。
バランスが取り難いのか不安定に揺れる体と、赤く小さな舌が、いやに扇情的に見えた。

首筋、耳朶、肩口。手が使えないというのに口だけで器用に俺の襟をはだけさせて、唇を這わせて口付ける。

「あなたに服従します」などと言われた訳ではないのに、その艶態だけで言葉以上にそれを表してみせる沙華に、情欲以上に創作意欲を刺激された。

沙華の唇はゆっくりと、俺の体の下へ下へと降りていく。
そして腰の前で止まり、ズボンのファスナーを口で咥えて下げ、昂りを露出させた。

「……ああ、眼鏡のおかげでよく見えますね。これが、俺の内部に入って……ぐちゃぐちゃに、掻き回していたんだ……」

どこか陶酔したような吐息と共に呟いて、そのまま口腔内に含まれた。生温かく濡れた粘膜に包まれ、ぞくりとするような快感が腰から背へ上ってくる。

両手を拘束されたまま、白く儚げな顔貌が、その薄い唇に男のものを咥えている。
その光景は、背徳と猥雑が極まった美の顕現に他ならなかった。

「んぅ……っ、あがつま、さん……気持ちいい、ですか……?」
「……ッ、待て沙華、これ以上は……悦すぎて、我慢が……」

視覚と触覚の暴力に脳の中枢を殴られて、震える情けない声で静止するしかなかった。
沙華は微笑み、つ、と唾液の糸を引きながら口を離した。

「……ふふ。悦くなってる我妻さんの顔も、よく見えます。では、このまま俺が、上に乗って動きますね……」

上体を起こして膝立ちになった沙華が、腹の上に跨った。
腰を揺らしながら俺のものを秘部にあてがい、ゆっくりとその体内に飲み込んでいく。

「……は、ぁ……っ、あ……ッ!」

内部を犯す熱にその細い体全てを支配されながら、尚も献身を尽くそうと息を乱し、肢体を震わせる。
目に映る姿はひどく被虐的なのに、その『耽美』に圧倒され精神を侵されているのは、俺の方だった。

「……っあ、んん……ッ、きもち、いい……っ」

沙華が主体となり動いていることで、自然と己の快楽を得やすい箇所も擦れるのか、眼鏡越しに見えるその赤い瞳は情欲に濡れていた。
腰を激しく上下させて、欲を貪るように喰らう沙華の嬌容は劣情を煽り立て、見ているだけで絶頂に達しそうだった。

「はっ、ぁ、ぅあぁ……っ!」

沙華の声が一際高く上擦り、白い喉を仰け反らせながら達した時、俺もその内部に精を放っていた。

上体を支えられなくなり、俺の胸に倒れ込む沙華を受け止めて、その手の拘束を解いてやる。
いくら拘束具が柔らかくても、無理な体勢で動き続けたせいで、手首には赤い痕がくっきり残っていた。
その痛ましい痕跡すら、美しく体現された芸術の残滓に見えた。

「……沙華。お前の『耽美』は、圧倒的だった……自覚は無いようだが、芸術を理解する才能があるのではないか?」
「……そうですか?我妻さんの書いていた内容を、俺に出来る解釈でやってみただけですが……気に入ってもらえたなら、良かったです」

抑えられない感嘆を事もなげに返されて、不遜どころか末恐ろしさすら感じた。
理解したつもりになる度に、この少年の底は深淵のさらに奥なのだと思い知らされる。

沙華は乱れた髪を手櫛で整え、眼鏡を掛け直しながら淡々と言った。

「……視界が鮮明になったので、観察にそこまで神経を割かなくてもよくなりましたね。これなら目隠しをしないでも、あなたの望みに沿えそうです」

俺にはその言葉の後半部分しか理解できなかったが、沙華の満足気な表情に衝動が湧き起こり、気付けば頭を撫でていた。
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