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八:春琴抄
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我妻さんがくれた眼鏡で、俺の世界は、文字通り変わった。
何年も過ごしてきたはずのこの狭い座敷でさえ、新しい発見に溢れていて、緩慢だった日常は鮮やかな色彩を得た。
だが、視えるということは、相手に視られているという実感を否応なく認識させられることでもあった。
他者の目は、殺していたはずの俺の自己像を立ち上がらせて、完璧に貼り付けられていた仮面に余計な感情が滲んでしまう。
『人間』に戻れば戻るほど、俺が生きるために必要な合理性が、軋んでしまうのだ。
だからこの眼鏡は、客の相手をする時はしまっておくことにした。それなら、何かの弾みで壊してしまう心配も無い。
そもそも、我妻さんの要求が特殊なだけで、他の客が求めているのは俺が貼り付ける「仮面」の方だ。素の俺自身などではない。
欲と不満と退屈を湛えた、生々しい目が、俺の「商品価値」だけを値踏みする。
そんなものを、わざわざ鮮明に視る必要はない。
俺が『人間』として視るのは、あの傲慢なのに優しくて、麗しいのに滑稽で、知的なのに子供みたいな人だけでいい。
我妻壱師、だけでいい。
俺が我妻さんに借りた本を読み終わり、別の本が読みたいとそわそわしていた頃、再度我妻さんが座敷を訪れた。
客を迎える体裁というよりも、家に帰ってきた親に土産を強請る子供のようになってしまったが、我妻さんは気にした様子もなく笑ってくれた。
「我妻さん。あなたの本、とても興味深かったです。あんなに綺麗な言葉の文章は初めて読みました。……あと、他に持って来て頂いた本も、面白かったです」
「……待て、沙華。もう全部読んだのか?お前、学校に通っていなかったのだろう?あんな難読漢字だらけの内容を、どうしてそんなに速く読めるんだ……?」
我妻さんが心底怪訝そうな顔で問いかけてきた。
確かに、我妻さんの美文には普段見慣れない単語も漢字も多かったが、俺が読むのに詰まることはなかった。
「前に、暇があればお下がりの教科書を読んで過ごしていたとお話したでしょう?その中に辞書が含まれていて、一番よく読んでいたのは辞書だったんです。だから大体内容覚えてしまっていて、言葉を読むのにだけはあまり困らないんですよ」
「辞書を……読み物にして、暗記しているのか……!?」
何だか我妻さんはここに来る度に驚愕の表情をしているが、今日は特に驚いている気がする。
そんなにおかしいのだろうか?
「……お前、それはもう特殊な技能と言っていいものだぞ……すまん、こんなに早くに全部読み終わると思っていなかったから、今日は本は持ってきていないんだ」
「そうですか……いえ、気にしないでください。もう一度読み返すのも、新しい発見があってきっと楽しいと思います」
残念だが、仕方がない。我妻さんの本を再度読み直して、『耽美』の解釈を深めるのも悪くない時間になるだろう。
我妻さんは「次は必ず持ってくる」と言いながら何やら荷物を探り、少し照れたような、しかしどこか誇らしげな顔で小箱を差し出してきた。
「……今日は、お前にこれを持ってきた」
掌に乗せられた小箱を開けると、出てきたのは深紅の薔薇を模した瓶。香水だ。
「お前の白い肌には、こういう香りが映えると思ってな」
その声音は、どこか自信と期待に満ちていた。
俺は蓋を開け、そっと香りを試す。
甘く、濃く、花弁がとろけるような香りだ。
「……うん。これは、いい香りですね。鮮やかで華やかで……美しいです。でも……」
俺の『でも』という逆接を聞いて、うんうんと頷いていた我妻さんの表情が固まった。
だが、これは伝えなければならない。
「これ、少し香りが強いので……仕事の時に使って香りが残ると、次の客の妨げになるかもしれません」
「え……?あ、ああ……そうか……」
我妻さんは明らかに気を落としたが、伝えた内容には納得してくれたようだった。
“あなたの気持ちは嬉しい”というのだけは伝えたくて、瓶をそっと胸に抱えた。
「……だからこれは、仕事のない時にだけ……俺の部屋で、使います。……あなたが俺に、選んでくれたものなので」
我妻さんはそれを聞くと、数秒黙り込んだあと顔を赤くした。
なぜだろう。我妻さんは、俺にはよくわからない理由で百面相をしていて、ずっと面白い。
「……沙華……わかった、それでいい。そうしてくれ……」
「……ふふ。はい、ありがとうございます。……ああ、それに……」
そこまで言ってしまってから、これは言うべきなのかと迷ったが、物事の根拠は明確な方がいいだろうと判断して続けた。
「……俺、我妻さんの匂いが、好きなんです」
「…………は?」
我妻さんが硬直してしまった。やはり人の匂いに言及するのは失礼だっただろうか。
悪気からではなく、ただの事実の共有だったのだが。
「すみません、あの、変な意味ではなくて……初めていらっしゃった夜からずっと、我妻さんはいい匂いがするなと思っていて……最近は、なんだか落ち着いてしまうくらいで……」
自分でそう言いながら、もし他人に同じことを言われたら少し気持ち悪いと感じてしまうかもしれないと思い至ったが、そのまま続きを落とした。
「だから、あなたと一緒に居る時は……あなたの匂いを、感じたいんです」
硬直したままの我妻さんの表情が、紙芝居のようにぱたぱたと切り替わる。百面相じゃ足りないくらいに顔の種類がありそうだ。
素の俺の表情などは下手をしたら片手で数え切れてしまいそうなのに、やはりこの感受性の豊かさが、作家として成功している所以なのだろうか。
我妻さんは顔を赤くしながら、震える声で、なんとかといった様子で声を絞り出した。
「……沙華、お前……それは……自覚して言っているのか……?」
「自覚? いえ、事実をお伝えしただけなんですが……気持ち悪かったでしょうか……?」
我妻さんはぶんぶんと首を横に振った。
反応はよくわからないが、気分を害した訳ではないらしいので良かった。
俺はただ正直に、好ましい匂いなのだと言いたかっただけなのだ。
この人と同じ石鹸や煙草を使っているのだろうなという客も稀にいるにはいるのだが、好きとまで言えるのは我妻さんの匂いだけであると、不思議と言い切れてしまう。
俺にとってのこの人は、やはりどこか特別なのかもしれない。
「……ねえ、我妻さん。今の俺は、きっとどんな土産より、あなたが書いた本を読めるのが一番嬉しいんだと思うんです。……だから次も、その次も。あなたの言葉を、俺に刻んでください」
何年も過ごしてきたはずのこの狭い座敷でさえ、新しい発見に溢れていて、緩慢だった日常は鮮やかな色彩を得た。
だが、視えるということは、相手に視られているという実感を否応なく認識させられることでもあった。
他者の目は、殺していたはずの俺の自己像を立ち上がらせて、完璧に貼り付けられていた仮面に余計な感情が滲んでしまう。
『人間』に戻れば戻るほど、俺が生きるために必要な合理性が、軋んでしまうのだ。
だからこの眼鏡は、客の相手をする時はしまっておくことにした。それなら、何かの弾みで壊してしまう心配も無い。
そもそも、我妻さんの要求が特殊なだけで、他の客が求めているのは俺が貼り付ける「仮面」の方だ。素の俺自身などではない。
欲と不満と退屈を湛えた、生々しい目が、俺の「商品価値」だけを値踏みする。
そんなものを、わざわざ鮮明に視る必要はない。
俺が『人間』として視るのは、あの傲慢なのに優しくて、麗しいのに滑稽で、知的なのに子供みたいな人だけでいい。
我妻壱師、だけでいい。
俺が我妻さんに借りた本を読み終わり、別の本が読みたいとそわそわしていた頃、再度我妻さんが座敷を訪れた。
客を迎える体裁というよりも、家に帰ってきた親に土産を強請る子供のようになってしまったが、我妻さんは気にした様子もなく笑ってくれた。
「我妻さん。あなたの本、とても興味深かったです。あんなに綺麗な言葉の文章は初めて読みました。……あと、他に持って来て頂いた本も、面白かったです」
「……待て、沙華。もう全部読んだのか?お前、学校に通っていなかったのだろう?あんな難読漢字だらけの内容を、どうしてそんなに速く読めるんだ……?」
我妻さんが心底怪訝そうな顔で問いかけてきた。
確かに、我妻さんの美文には普段見慣れない単語も漢字も多かったが、俺が読むのに詰まることはなかった。
「前に、暇があればお下がりの教科書を読んで過ごしていたとお話したでしょう?その中に辞書が含まれていて、一番よく読んでいたのは辞書だったんです。だから大体内容覚えてしまっていて、言葉を読むのにだけはあまり困らないんですよ」
「辞書を……読み物にして、暗記しているのか……!?」
何だか我妻さんはここに来る度に驚愕の表情をしているが、今日は特に驚いている気がする。
そんなにおかしいのだろうか?
「……お前、それはもう特殊な技能と言っていいものだぞ……すまん、こんなに早くに全部読み終わると思っていなかったから、今日は本は持ってきていないんだ」
「そうですか……いえ、気にしないでください。もう一度読み返すのも、新しい発見があってきっと楽しいと思います」
残念だが、仕方がない。我妻さんの本を再度読み直して、『耽美』の解釈を深めるのも悪くない時間になるだろう。
我妻さんは「次は必ず持ってくる」と言いながら何やら荷物を探り、少し照れたような、しかしどこか誇らしげな顔で小箱を差し出してきた。
「……今日は、お前にこれを持ってきた」
掌に乗せられた小箱を開けると、出てきたのは深紅の薔薇を模した瓶。香水だ。
「お前の白い肌には、こういう香りが映えると思ってな」
その声音は、どこか自信と期待に満ちていた。
俺は蓋を開け、そっと香りを試す。
甘く、濃く、花弁がとろけるような香りだ。
「……うん。これは、いい香りですね。鮮やかで華やかで……美しいです。でも……」
俺の『でも』という逆接を聞いて、うんうんと頷いていた我妻さんの表情が固まった。
だが、これは伝えなければならない。
「これ、少し香りが強いので……仕事の時に使って香りが残ると、次の客の妨げになるかもしれません」
「え……?あ、ああ……そうか……」
我妻さんは明らかに気を落としたが、伝えた内容には納得してくれたようだった。
“あなたの気持ちは嬉しい”というのだけは伝えたくて、瓶をそっと胸に抱えた。
「……だからこれは、仕事のない時にだけ……俺の部屋で、使います。……あなたが俺に、選んでくれたものなので」
我妻さんはそれを聞くと、数秒黙り込んだあと顔を赤くした。
なぜだろう。我妻さんは、俺にはよくわからない理由で百面相をしていて、ずっと面白い。
「……沙華……わかった、それでいい。そうしてくれ……」
「……ふふ。はい、ありがとうございます。……ああ、それに……」
そこまで言ってしまってから、これは言うべきなのかと迷ったが、物事の根拠は明確な方がいいだろうと判断して続けた。
「……俺、我妻さんの匂いが、好きなんです」
「…………は?」
我妻さんが硬直してしまった。やはり人の匂いに言及するのは失礼だっただろうか。
悪気からではなく、ただの事実の共有だったのだが。
「すみません、あの、変な意味ではなくて……初めていらっしゃった夜からずっと、我妻さんはいい匂いがするなと思っていて……最近は、なんだか落ち着いてしまうくらいで……」
自分でそう言いながら、もし他人に同じことを言われたら少し気持ち悪いと感じてしまうかもしれないと思い至ったが、そのまま続きを落とした。
「だから、あなたと一緒に居る時は……あなたの匂いを、感じたいんです」
硬直したままの我妻さんの表情が、紙芝居のようにぱたぱたと切り替わる。百面相じゃ足りないくらいに顔の種類がありそうだ。
素の俺の表情などは下手をしたら片手で数え切れてしまいそうなのに、やはりこの感受性の豊かさが、作家として成功している所以なのだろうか。
我妻さんは顔を赤くしながら、震える声で、なんとかといった様子で声を絞り出した。
「……沙華、お前……それは……自覚して言っているのか……?」
「自覚? いえ、事実をお伝えしただけなんですが……気持ち悪かったでしょうか……?」
我妻さんはぶんぶんと首を横に振った。
反応はよくわからないが、気分を害した訳ではないらしいので良かった。
俺はただ正直に、好ましい匂いなのだと言いたかっただけなのだ。
この人と同じ石鹸や煙草を使っているのだろうなという客も稀にいるにはいるのだが、好きとまで言えるのは我妻さんの匂いだけであると、不思議と言い切れてしまう。
俺にとってのこの人は、やはりどこか特別なのかもしれない。
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