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十:文字禍
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薔薇の香水が香るだけで、慣れ親しんだはずの煎餅布団がなんだか貴族の寝所のように思えて、ふわふわとした心地になる。
どんなに疲れた日でも、休む前にここで寝転がりながら本を読むのが、欠かせない楽しみになった。
我妻さんみたいに洒落た人が選ぶと、贈り物もこんなに洗練された物になるのかと改めて実感する。
俺のような華の無い若造には勿体無い気がしたが、あの人が似合うと言ってくれたのだから、自分でもそう思っておくことにした。
この香りの向こう側に、無意識のうちに我妻さん自身の匂いを探してしまう自分に気づいて、少しだけ戸惑った。
この香水を貰った夜以降、我妻さんは必ず本を持ってきてくれた。
自著も他著も、分野も発刊時期も様々で、世の中にはこんなにも物語が溢れているのかと驚いたのに、まだほんの一部だと言うから更に驚くばかりだった。
毎回重いものを運ばせてしまって申し訳なくも思ったが、読みたい気持ちが勝ってしまって遠慮することは出来なかった。それを正直に伝えると、我妻さんは「気にするな」と笑ってくれた。
物語に飢えた俺にとってはどの本も興味深かったが、やはり我妻さんの本はどこか特別で、読み終えるたびに胸の奥がひどくざわついた。
あれはただの言葉の集合体ではない。
辞書に載っている単語と単語を並べただけで、精神の深部を書き換えられてしまうような“美”が立ち上がるのは、何故なのだろう。
無機質な文字列が、あれほど生々しい情景と温度を帯びる。
それは、俺にはどうしても理解し難い現象だった。
「辞書を読み物にして暗記しているなんて特殊だ」と我妻さんは言ったが、俺からすればああいう文章を書ける感受性の方が、よほど特殊だ。
俺はただ観察し、記憶し、整理するだけだ。
情緒というものは、俺にはほとんど存在しない。
文字は読めても、あの美しさを紡ぐことは出来ない。
一体何を見て、何を経験すれば、あの言葉を生み出せる豊かな心を得られるのだろう。
情動のようなもの、を演じることなら出来る。
だがそれは、俺の中から湧いたものではない。
この生は何年も前に円環として閉じていて、同じところをぐるぐると回るばかりで、俺が主体になれる余地なんてもう有りはしなかった。
だから本を読むたびに、心が踊る反面、その奥がわずかに痛む。
これらに書いてあるどんな出来事も、俺に経験することは出来ない。
人間として本心から理解することが出来ない。
けれど、我妻さんが紡いだ言葉が胸に残響して離れなくなるたび、腹の底で小さな焦燥が生まれる。
これは何だ。羨望でも憧れでもないはずだ。
もっと形のない、名付けようのないものが、俺にも『何か』をさせようとしている。
その衝動的な『何か』は、耽美を追求するという行動で少しだけ満たされる。
だが埋まらない。どうにも満たしきれない。
自分でもそれが何なのか分からず、ページを閉じた指先が微かに震えていた。
*
沙華に新しい本を渡すと、俺が再訪するまでに必ずそれを読み切っていた。
あれはもう貪欲を通り越して、中毒者の域だ。
あの子の虚無に見えていたものは真に『無』ではなく、そっくりそのまま言葉を受け取る『余白』でもあったのだろう。
耽美小説だけではない。
随筆でも、恋愛譚でも、思想書でも。
そこに書かれた喜びを、悲しみを、怒りを、絶望を。
人間が生む情動のすべてを、あの子は己の中で噛み砕き、『美しさ』の形に解体して返してくる。
それは善も悪も等しく肯定してしまう、どこまでも残酷な人間讃歌だった。
「俺は情緒がほとんど無いので」と真顔で言っていたが、とんでもない。鏡の前で沙華が見せた反応は、狂おしいまでの人間性に他ならない。
そもそも情緒を理解していない人間には、完璧に人を欺く演技など出来るはずがないではないか。
情緒が欠けているのではなく、おそらく感受性そのものの『運用方法』が俺たちと根本的に違うのだ。
己の感情として抱くのではなく、現象として観察し、構造として理解し、その本質だけを抽出してしまう。
それはある種、作家の才能そのものだ。
ただその環境から、書くという行為に触れる機会が、人生の中で極端に少なかっただけなのだろう。
ともすれば、俺が十数年かけて積み上げてきたものを、あの子はたった数年の観察だけで追い越してしまうかもしれない。
言葉とは本来、感じたものを外に流すための出口だ。
沙華の内部には、出口を持たないまま積み上がった“観察結果”がいくつも沈殿している。
沙華の創作者としての自我は、既に萌芽している。
それどころか、あの『耽美』への理解と狂気的な実践を思うと、「吐き出したい」という衝動は本人が思っているよりずっと強いはずなのだ。
あれが文字となって外へ流れ出したとしたら、どれほどの文章が生まれるのか。
想像しただけで、背骨の内側をゆっくりと焼かれるような心地がした。
どんなに疲れた日でも、休む前にここで寝転がりながら本を読むのが、欠かせない楽しみになった。
我妻さんみたいに洒落た人が選ぶと、贈り物もこんなに洗練された物になるのかと改めて実感する。
俺のような華の無い若造には勿体無い気がしたが、あの人が似合うと言ってくれたのだから、自分でもそう思っておくことにした。
この香りの向こう側に、無意識のうちに我妻さん自身の匂いを探してしまう自分に気づいて、少しだけ戸惑った。
この香水を貰った夜以降、我妻さんは必ず本を持ってきてくれた。
自著も他著も、分野も発刊時期も様々で、世の中にはこんなにも物語が溢れているのかと驚いたのに、まだほんの一部だと言うから更に驚くばかりだった。
毎回重いものを運ばせてしまって申し訳なくも思ったが、読みたい気持ちが勝ってしまって遠慮することは出来なかった。それを正直に伝えると、我妻さんは「気にするな」と笑ってくれた。
物語に飢えた俺にとってはどの本も興味深かったが、やはり我妻さんの本はどこか特別で、読み終えるたびに胸の奥がひどくざわついた。
あれはただの言葉の集合体ではない。
辞書に載っている単語と単語を並べただけで、精神の深部を書き換えられてしまうような“美”が立ち上がるのは、何故なのだろう。
無機質な文字列が、あれほど生々しい情景と温度を帯びる。
それは、俺にはどうしても理解し難い現象だった。
「辞書を読み物にして暗記しているなんて特殊だ」と我妻さんは言ったが、俺からすればああいう文章を書ける感受性の方が、よほど特殊だ。
俺はただ観察し、記憶し、整理するだけだ。
情緒というものは、俺にはほとんど存在しない。
文字は読めても、あの美しさを紡ぐことは出来ない。
一体何を見て、何を経験すれば、あの言葉を生み出せる豊かな心を得られるのだろう。
情動のようなもの、を演じることなら出来る。
だがそれは、俺の中から湧いたものではない。
この生は何年も前に円環として閉じていて、同じところをぐるぐると回るばかりで、俺が主体になれる余地なんてもう有りはしなかった。
だから本を読むたびに、心が踊る反面、その奥がわずかに痛む。
これらに書いてあるどんな出来事も、俺に経験することは出来ない。
人間として本心から理解することが出来ない。
けれど、我妻さんが紡いだ言葉が胸に残響して離れなくなるたび、腹の底で小さな焦燥が生まれる。
これは何だ。羨望でも憧れでもないはずだ。
もっと形のない、名付けようのないものが、俺にも『何か』をさせようとしている。
その衝動的な『何か』は、耽美を追求するという行動で少しだけ満たされる。
だが埋まらない。どうにも満たしきれない。
自分でもそれが何なのか分からず、ページを閉じた指先が微かに震えていた。
*
沙華に新しい本を渡すと、俺が再訪するまでに必ずそれを読み切っていた。
あれはもう貪欲を通り越して、中毒者の域だ。
あの子の虚無に見えていたものは真に『無』ではなく、そっくりそのまま言葉を受け取る『余白』でもあったのだろう。
耽美小説だけではない。
随筆でも、恋愛譚でも、思想書でも。
そこに書かれた喜びを、悲しみを、怒りを、絶望を。
人間が生む情動のすべてを、あの子は己の中で噛み砕き、『美しさ』の形に解体して返してくる。
それは善も悪も等しく肯定してしまう、どこまでも残酷な人間讃歌だった。
「俺は情緒がほとんど無いので」と真顔で言っていたが、とんでもない。鏡の前で沙華が見せた反応は、狂おしいまでの人間性に他ならない。
そもそも情緒を理解していない人間には、完璧に人を欺く演技など出来るはずがないではないか。
情緒が欠けているのではなく、おそらく感受性そのものの『運用方法』が俺たちと根本的に違うのだ。
己の感情として抱くのではなく、現象として観察し、構造として理解し、その本質だけを抽出してしまう。
それはある種、作家の才能そのものだ。
ただその環境から、書くという行為に触れる機会が、人生の中で極端に少なかっただけなのだろう。
ともすれば、俺が十数年かけて積み上げてきたものを、あの子はたった数年の観察だけで追い越してしまうかもしれない。
言葉とは本来、感じたものを外に流すための出口だ。
沙華の内部には、出口を持たないまま積み上がった“観察結果”がいくつも沈殿している。
沙華の創作者としての自我は、既に萌芽している。
それどころか、あの『耽美』への理解と狂気的な実践を思うと、「吐き出したい」という衝動は本人が思っているよりずっと強いはずなのだ。
あれが文字となって外へ流れ出したとしたら、どれほどの文章が生まれるのか。
想像しただけで、背骨の内側をゆっくりと焼かれるような心地がした。
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