3 / 51
彼の中に小さな気持ち
しおりを挟む
次の日。時はすでに放課後。碧乃は1人で喫茶小路に向かっていた。昨日同様、現地集合らしかった。
今日一日、小坂が話しかけてくることは無かった。何度か視線を感じて目を合わせてしまったが、それだけだった。今まで通りの平和な日常だった。
やっぱり、昨日思い切って言って良かった。
碧乃は上機嫌でコンビニの角を曲がった。ここから大通りを外れて、住宅街へ入っていくのだ。
曲がってすぐのことだった。
「おはよっ!」
「わっ!?」
いきなり誰かが、ビタッと碧乃の斜め後ろにくっついてきた。
小坂だった。
「ちょっ、ち、近いよっ!」
慌てて反対側へ逃げ、小坂を睨む。あまりに近い距離で彼の顔を見てしまったため、頭がパニックを起こしていた。顔も自覚できるほど熱いので、多分赤くなっている。
何すんだ、バカ!
対する小坂は、イタズラが成功して嬉しそうにニヤニヤしていた。
もう、何がおはようだ!何が………………あれ?
「え?おはよう?」
「朝言わなかったから」
「あ…そう…」
そんな理由……。
碧乃はまだ警戒態勢をとっている。
「ちゃんと学校では話しかけないようにしてただろ?」
「そう…だけど…。って、先に行ったんじゃなかったの?」
「一緒に行こうと思って、そこで待ってた」
小坂はさっき通り過ぎたコンビニを指さした。
「……」
だからって、何もおどかさなくても………。
「ほら、行くぞ?」
碧乃を促し、歩き出す。彼の顔はまだ若干ニヤけていた。
うう…もう帰りたい…。
しかしこちらから勉強を教えると約束したので、それはできなかった。それに、逃げてもどうせすぐに捕まる。
仕方なく碧乃は小坂の横についていった。少し距離を置きながら。
カランカラン、とベルを揺らして小坂が店に入っていった。
碧乃も後ろについていく。
「いらっしゃいませ」
中野さんが笑顔で迎えてくれた。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
小坂は、同じく笑顔で挨拶した。
碧乃はそれに続いて、軽く会釈をした。
「こんにちは光毅君…と碧乃ちゃんだったかな?」
「あ、はい。よ、よろしくお願いします」
家族以外に下の名前で呼ばれることがないので、少しどぎまぎしてしまった。
店の奥へ促され、2人は昨日と同じテーブルに座った。店内は今日も、店主と同年代くらいの客が何人か来ているようだった。
中野さんがお水を持って来た。
「はい、どうぞ。ご注文は?」
「いつものカフェオレお願いします」
「はい。碧乃ちゃんは?」
「あ、ブレンドコーヒーで…」
「コーヒーね。かしこまりました」
注文を聞き、中野さんはカウンターへ戻っていった。
「今日は何やるんだ?」
小坂が、スマホの電源を切りながら訊いてきた。
「あ、昨日の続きと…じゃあ、地理かな」
こういう暗記系は早くから始めないと、ちゃんと頭に入れることはできない。実は碧乃も苦手なのだが、小坂のように赤点を取る程ではないので、彼に教える分には問題ないだろう。
「うへぇー。俺、地理嫌い」
小坂はかなり嫌そうな顔をした。
「ただ覚えるだけだもんね。私も苦手」
「えっ!斉川にも苦手とかあるの?」
共感したら、予想以上に驚かれた。
「う、うん、あるよ。暗記するの得意じゃないから」
「へぇー、勉強なら何でもできるのかと思ってた」
「……ふふっ。そんな訳ないよ。いつも必死で頭に詰め込んでるだけ」
予想通りの答えに、思わず笑ってしまった。クラスの人からそんなイメージを持たれている事は、何となく自覚していた。そのせいで近づき難い人間になっているのも分かっていた。だから小坂に話しかけられた時に、あんなに驚いたのだ。
「……」
小坂は何も発さず、ボーっとこちらを見つめていた。
「え?何?」
「え!あ、いや、何でもない」
彼は慌てて目をそらし、水の入ったグラスに手を伸ばした。
「?」
どうしたんだろう?そんなに変なこと言ったかな?
中野さんが近づいてきたため、それ以上は訊けなかった。
碧乃は気付かなかったが、小坂の顔が少しだけ赤くなっていた。
飲み物が届いたので、2人は勉強を始めた。
「あーー、もう無理。頭がパンクする」
小坂が両手で頭を抱えてうめいた。
「…まだちょっとしか進んでないんだけど」
そのままテーブルに突っ伏してしまった小坂を、碧乃は半ば呆れ顔で見つめた。
数学の残りを教えている時は調子が良かったのだが、地理を始めた途端にペースがガクンと落ちた。試験範囲は教科書の約30ページ分あるというのに、一時間近くかけてまだ5ページしか終わっていなかった。他の教科もあるのだ、こんな速度じゃ試験に間に合わない。
碧乃はため息をついた。
「…じゃあ、5分だけ休憩ね」
「ううー………………………わかった」
かなり悩んでの返事だった。やりたくない気持ちを何とか抑え込んだのだろう。禁止令の効果は絶大だった。
自分の腕に顔をうずめた小坂を見ながら、碧乃は苦く微笑んだ。
…まぁ、これでも結構頑張ってる方か。
弱音は吐くが、決して放棄することはないので、そこは感心する。彼の本気が伝わってくるので、こちらも頑張って教えようという気になる。正直、彼に教える事が少しだけ楽しくなってきた。
先程休憩は5分だけと言ったが、小坂が自分からやると言い出すまで待つ事にしよう。嫌々やるより、その方が理解力が高まる。
碧乃は小坂のやる気が戻るのを待ちながら、自分の勉強をした。
§
「……」
不意に顔だけを動かして、光毅は斉川を見つめた。彼女は勉強に集中しているので気付かない。光毅の中に、こっちを見てほしいような邪魔したくないような、不思議な気持ちが生じていた。
しかし見てほしい気持ちが勝って、話しかけてしまった。
「…なぁ」
「ん?…何?」
斉川が顔を上げた。2人の目が合う。
真っ直ぐな視線を向けられ、光毅は少しドキドキした。邪な気持ちが全くない、とても純粋なそれは、他の人からは感じた事がないものだった。真剣に話を聴いてくれるのが分かる。
あ…何話そう……
「…俺が試験で良い点取れたら、嬉しい?」
なぜか気になって、自然に口から出てしまった。
「え?…う、うん、嬉しいよ。ちゃんと役に立てたんだって思えるし」
それを聞いて、何だかやる気が湧いてきた。
「…そっか」
光毅はむくっと体を起こした。
「じゃあ…頑張る」
「…頑張って」
微笑んで、そう言ってくれた。
頑張る。斉川のために。
そう思ったら、勉強が嫌じゃなくなった。
§
休憩が終わってからの小坂は、さっきとは別人のようだった。勉強のスピードが上がった訳ではないが、弱音を吐いたり、嫌そうな顔をする事がなくなった。
先の小坂からの質問はいきなりで少し驚いたが、ちゃんと本音を伝えた。正確には嘘がつけない性格なので、そうするしかなかっただけだが。それに対して彼が何を思ったのかは分からないが、とりあえず『頑張る』と言ってくれた。せっかくのやる気を失わせないよう、こちらも頑張って協力しなくては。
碧乃は、どうやったら覚えやすいかなどのアドバイスもしながら、勉強を教えていった。
「お疲れ様。ずいぶん熱心だね。時間は大丈夫かい?」
中野さんが話しかけてきてくれた。手にはマグカップの乗ったトレーを持っている。
「え?…あ」
碧乃は腕時計を確認した。午後8時を過ぎていた。小坂にも時計を見せると、驚いた顔をした。どうやら2人ともかなり集中していたらしい。
「あまり遅いと家の人が心配しちゃうよ?」
そう言いながら、テーブルにココアを置いてくれた。
「すいません、ありがとうございます。じゃあこれ飲んだら帰ります」
小坂が申し訳なさそうに返した。
「ああ、分かったよ」
優しい笑顔を見せて、中野さんはカウンターへ戻っていった。
「ごめん、全然気付かなかった」
「ううん、大丈夫。私も気付かなかった」
言いながら2人はマグカップを手に取り、一息つく。
「…残った所は、1人でできそう?」
「うーん…、何とかやってみる。分かんなかったらまた訊く」
「そっか、分かった」
しばし沈黙。疲れを癒やしてくれるココアの香りが心地良かった。
小坂が自分を見つめていることに、今日は気付かなかった。
「…そういえば」
不意に小坂が話しかけてきた。
「甘いもの苦手って言ってたのに、それ飲んで大丈夫なのか?」
「え?」
…ああ、昨日そんなこと言ったな。
「疲れてる時はおいしいって思えるよ。少しだけだけど」
「へぇー、そうなんだ」
昨日と同じ顔をされた。
私ってそんなに珍しいかなぁ…?
2人は飲み終えてすぐに会計を済ませ、店を出た。
小坂の他愛ない話を聞いているうちに、大通りの近くまで来た。
そのままコンビニの角を曲がろうとした時だった。
「あ!やばっ!」
「え、わっ!?」
小坂が碧乃の腕を引っ張って、一緒に建物の陰に隠れさせた。バランスを崩した碧乃の肩が、小坂の胸辺りにぶつかる。奇しくもそれは、行きに小坂がおどかした時と同じ位置関係だった。
なっ…また!?今度は何っ!
小坂は腕を掴んだまま、もう片方の手を碧乃の肩に置いて通りの向こうを伺った。碧乃に寄り掛かる形になり、密着度が大幅に増した。
近い近い近い近い近いっ!くっついてるって!!
「ちょっ…!?何して…」
「あれあれ」
小坂が示した先に、ファミレスから出てくる2人の女子高生が見えた。緑星高校の制服を着ていた。
「あ…」
2人は道路を挟んだ向こう側にいるので、声が聞こえることはない。しかしこの最悪な状況を見られたらと思うと、恐怖で声を出せなくなってしまった。しばしそのまま硬直する。密着しているせいで、互いの心臓の音がやけに大きく聞こえた。
女子高生2人が完全にこちらに背を向けた所で、小坂が声を発した。
「危なかった…。見つかったかと思った」
「あの……離して」
「あ、わりぃ」
やっと声が出せるようになったので、小坂に解放してもらう。碧乃は彼から少し離れ、無意識に自分の腕を触った。
全く、なぜ一日に2度も経験しないといけないのか。しかも同じ場所で。そもそも、彼はいつからそんなに危機感を感じるようになったんだ?見られても気にしない感じだったのに。
心臓はバクバク鳴っているが、頭は意外にも冷静だった。そしてある考えに行き着く。
「…思ったんだけど、一緒にいる所を見られなければ良いんだから、2人とも隠れる必要なかったよね?」
小坂1人が隠れるだけで十分だったはずだ。自分はごくごく平凡な高校生でしかなく、見つけても誰も気にしないのだから。
「え?…あ、そっか。そういえば」
小坂の平然とした返事を聞いて、少々深めのため息が出た。
…この人には距離感というものがないのか?
「…じゃあ、先帰る」
「え?先?」
「また誰かいたら困るから、私が先に駅に入るまでここで待ってて」
これで他の人に見つかったら、さっき隠れた意味がなくなる。無駄にくっついていただけなんて、死んでも御免だ。
「えー?」
小坂がわざとらしく嫌な顔をした。
「待ってて」
「…わかったよー」
碧乃が念を押すと、今度は拗ねてみせた。
「……」
対応が面倒なので、放っておいて帰ることにする。
「じゃあ、また明日」
小坂にそう告げ、駅に向かって歩き出した。
「また明日ー」
小坂の声が聞こえたが、碧乃は振り返ることなくそのまま帰っていった。
その後ろ姿を苦笑いで見つめているなんて、知る由もなかった。
「はぁ…」
碧乃は自分のベッドに倒れ込んでいた。もう風呂にも入り、髪も乾かしていた。
今日はエネルギーの消耗が激しい一日だった。ただでさえ勉強で疲れるのに、本当勘弁してほしい。彼はいつもあんな感じなのだろうか。だとしたら、普通に対応している彼の友達はすごいと思う。
……あ、そうか。ああやって躊躇なく人の間合いに入れるから、たくさん友達ができるのか。
そして学校で一番モテる理由も、きっとそこにある。しかし、自分には無理だ。期間限定じゃなかったら、すでに挫折している。悪い人でない事は分かるのだが、予測不能な行動が多すぎるのだ。
こうなったら、あれはああいう生き物なんだと思うことにしよう。これ以上心臓に負担をかけて、寿命を縮めないためにも。
「……」
考え事がとりあえず一段落し、しばしボーッとする。
ああ、ダメだ…。これじゃ、寝てしまう。
むくっと起き上がり、勉強机へ向かった。かばんから教科書などを取り出す。
実は、家に帰ってからも勉強をする事にしたのだ。小坂のペースに合わせていたら、赤点を脱した程度の点数しか取れない。自分の成績を下げる訳にはいかなかった。
碧乃は眠気を抑えて、目の前のノートを開いた。
今日一日、小坂が話しかけてくることは無かった。何度か視線を感じて目を合わせてしまったが、それだけだった。今まで通りの平和な日常だった。
やっぱり、昨日思い切って言って良かった。
碧乃は上機嫌でコンビニの角を曲がった。ここから大通りを外れて、住宅街へ入っていくのだ。
曲がってすぐのことだった。
「おはよっ!」
「わっ!?」
いきなり誰かが、ビタッと碧乃の斜め後ろにくっついてきた。
小坂だった。
「ちょっ、ち、近いよっ!」
慌てて反対側へ逃げ、小坂を睨む。あまりに近い距離で彼の顔を見てしまったため、頭がパニックを起こしていた。顔も自覚できるほど熱いので、多分赤くなっている。
何すんだ、バカ!
対する小坂は、イタズラが成功して嬉しそうにニヤニヤしていた。
もう、何がおはようだ!何が………………あれ?
「え?おはよう?」
「朝言わなかったから」
「あ…そう…」
そんな理由……。
碧乃はまだ警戒態勢をとっている。
「ちゃんと学校では話しかけないようにしてただろ?」
「そう…だけど…。って、先に行ったんじゃなかったの?」
「一緒に行こうと思って、そこで待ってた」
小坂はさっき通り過ぎたコンビニを指さした。
「……」
だからって、何もおどかさなくても………。
「ほら、行くぞ?」
碧乃を促し、歩き出す。彼の顔はまだ若干ニヤけていた。
うう…もう帰りたい…。
しかしこちらから勉強を教えると約束したので、それはできなかった。それに、逃げてもどうせすぐに捕まる。
仕方なく碧乃は小坂の横についていった。少し距離を置きながら。
カランカラン、とベルを揺らして小坂が店に入っていった。
碧乃も後ろについていく。
「いらっしゃいませ」
中野さんが笑顔で迎えてくれた。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
小坂は、同じく笑顔で挨拶した。
碧乃はそれに続いて、軽く会釈をした。
「こんにちは光毅君…と碧乃ちゃんだったかな?」
「あ、はい。よ、よろしくお願いします」
家族以外に下の名前で呼ばれることがないので、少しどぎまぎしてしまった。
店の奥へ促され、2人は昨日と同じテーブルに座った。店内は今日も、店主と同年代くらいの客が何人か来ているようだった。
中野さんがお水を持って来た。
「はい、どうぞ。ご注文は?」
「いつものカフェオレお願いします」
「はい。碧乃ちゃんは?」
「あ、ブレンドコーヒーで…」
「コーヒーね。かしこまりました」
注文を聞き、中野さんはカウンターへ戻っていった。
「今日は何やるんだ?」
小坂が、スマホの電源を切りながら訊いてきた。
「あ、昨日の続きと…じゃあ、地理かな」
こういう暗記系は早くから始めないと、ちゃんと頭に入れることはできない。実は碧乃も苦手なのだが、小坂のように赤点を取る程ではないので、彼に教える分には問題ないだろう。
「うへぇー。俺、地理嫌い」
小坂はかなり嫌そうな顔をした。
「ただ覚えるだけだもんね。私も苦手」
「えっ!斉川にも苦手とかあるの?」
共感したら、予想以上に驚かれた。
「う、うん、あるよ。暗記するの得意じゃないから」
「へぇー、勉強なら何でもできるのかと思ってた」
「……ふふっ。そんな訳ないよ。いつも必死で頭に詰め込んでるだけ」
予想通りの答えに、思わず笑ってしまった。クラスの人からそんなイメージを持たれている事は、何となく自覚していた。そのせいで近づき難い人間になっているのも分かっていた。だから小坂に話しかけられた時に、あんなに驚いたのだ。
「……」
小坂は何も発さず、ボーっとこちらを見つめていた。
「え?何?」
「え!あ、いや、何でもない」
彼は慌てて目をそらし、水の入ったグラスに手を伸ばした。
「?」
どうしたんだろう?そんなに変なこと言ったかな?
中野さんが近づいてきたため、それ以上は訊けなかった。
碧乃は気付かなかったが、小坂の顔が少しだけ赤くなっていた。
飲み物が届いたので、2人は勉強を始めた。
「あーー、もう無理。頭がパンクする」
小坂が両手で頭を抱えてうめいた。
「…まだちょっとしか進んでないんだけど」
そのままテーブルに突っ伏してしまった小坂を、碧乃は半ば呆れ顔で見つめた。
数学の残りを教えている時は調子が良かったのだが、地理を始めた途端にペースがガクンと落ちた。試験範囲は教科書の約30ページ分あるというのに、一時間近くかけてまだ5ページしか終わっていなかった。他の教科もあるのだ、こんな速度じゃ試験に間に合わない。
碧乃はため息をついた。
「…じゃあ、5分だけ休憩ね」
「ううー………………………わかった」
かなり悩んでの返事だった。やりたくない気持ちを何とか抑え込んだのだろう。禁止令の効果は絶大だった。
自分の腕に顔をうずめた小坂を見ながら、碧乃は苦く微笑んだ。
…まぁ、これでも結構頑張ってる方か。
弱音は吐くが、決して放棄することはないので、そこは感心する。彼の本気が伝わってくるので、こちらも頑張って教えようという気になる。正直、彼に教える事が少しだけ楽しくなってきた。
先程休憩は5分だけと言ったが、小坂が自分からやると言い出すまで待つ事にしよう。嫌々やるより、その方が理解力が高まる。
碧乃は小坂のやる気が戻るのを待ちながら、自分の勉強をした。
§
「……」
不意に顔だけを動かして、光毅は斉川を見つめた。彼女は勉強に集中しているので気付かない。光毅の中に、こっちを見てほしいような邪魔したくないような、不思議な気持ちが生じていた。
しかし見てほしい気持ちが勝って、話しかけてしまった。
「…なぁ」
「ん?…何?」
斉川が顔を上げた。2人の目が合う。
真っ直ぐな視線を向けられ、光毅は少しドキドキした。邪な気持ちが全くない、とても純粋なそれは、他の人からは感じた事がないものだった。真剣に話を聴いてくれるのが分かる。
あ…何話そう……
「…俺が試験で良い点取れたら、嬉しい?」
なぜか気になって、自然に口から出てしまった。
「え?…う、うん、嬉しいよ。ちゃんと役に立てたんだって思えるし」
それを聞いて、何だかやる気が湧いてきた。
「…そっか」
光毅はむくっと体を起こした。
「じゃあ…頑張る」
「…頑張って」
微笑んで、そう言ってくれた。
頑張る。斉川のために。
そう思ったら、勉強が嫌じゃなくなった。
§
休憩が終わってからの小坂は、さっきとは別人のようだった。勉強のスピードが上がった訳ではないが、弱音を吐いたり、嫌そうな顔をする事がなくなった。
先の小坂からの質問はいきなりで少し驚いたが、ちゃんと本音を伝えた。正確には嘘がつけない性格なので、そうするしかなかっただけだが。それに対して彼が何を思ったのかは分からないが、とりあえず『頑張る』と言ってくれた。せっかくのやる気を失わせないよう、こちらも頑張って協力しなくては。
碧乃は、どうやったら覚えやすいかなどのアドバイスもしながら、勉強を教えていった。
「お疲れ様。ずいぶん熱心だね。時間は大丈夫かい?」
中野さんが話しかけてきてくれた。手にはマグカップの乗ったトレーを持っている。
「え?…あ」
碧乃は腕時計を確認した。午後8時を過ぎていた。小坂にも時計を見せると、驚いた顔をした。どうやら2人ともかなり集中していたらしい。
「あまり遅いと家の人が心配しちゃうよ?」
そう言いながら、テーブルにココアを置いてくれた。
「すいません、ありがとうございます。じゃあこれ飲んだら帰ります」
小坂が申し訳なさそうに返した。
「ああ、分かったよ」
優しい笑顔を見せて、中野さんはカウンターへ戻っていった。
「ごめん、全然気付かなかった」
「ううん、大丈夫。私も気付かなかった」
言いながら2人はマグカップを手に取り、一息つく。
「…残った所は、1人でできそう?」
「うーん…、何とかやってみる。分かんなかったらまた訊く」
「そっか、分かった」
しばし沈黙。疲れを癒やしてくれるココアの香りが心地良かった。
小坂が自分を見つめていることに、今日は気付かなかった。
「…そういえば」
不意に小坂が話しかけてきた。
「甘いもの苦手って言ってたのに、それ飲んで大丈夫なのか?」
「え?」
…ああ、昨日そんなこと言ったな。
「疲れてる時はおいしいって思えるよ。少しだけだけど」
「へぇー、そうなんだ」
昨日と同じ顔をされた。
私ってそんなに珍しいかなぁ…?
2人は飲み終えてすぐに会計を済ませ、店を出た。
小坂の他愛ない話を聞いているうちに、大通りの近くまで来た。
そのままコンビニの角を曲がろうとした時だった。
「あ!やばっ!」
「え、わっ!?」
小坂が碧乃の腕を引っ張って、一緒に建物の陰に隠れさせた。バランスを崩した碧乃の肩が、小坂の胸辺りにぶつかる。奇しくもそれは、行きに小坂がおどかした時と同じ位置関係だった。
なっ…また!?今度は何っ!
小坂は腕を掴んだまま、もう片方の手を碧乃の肩に置いて通りの向こうを伺った。碧乃に寄り掛かる形になり、密着度が大幅に増した。
近い近い近い近い近いっ!くっついてるって!!
「ちょっ…!?何して…」
「あれあれ」
小坂が示した先に、ファミレスから出てくる2人の女子高生が見えた。緑星高校の制服を着ていた。
「あ…」
2人は道路を挟んだ向こう側にいるので、声が聞こえることはない。しかしこの最悪な状況を見られたらと思うと、恐怖で声を出せなくなってしまった。しばしそのまま硬直する。密着しているせいで、互いの心臓の音がやけに大きく聞こえた。
女子高生2人が完全にこちらに背を向けた所で、小坂が声を発した。
「危なかった…。見つかったかと思った」
「あの……離して」
「あ、わりぃ」
やっと声が出せるようになったので、小坂に解放してもらう。碧乃は彼から少し離れ、無意識に自分の腕を触った。
全く、なぜ一日に2度も経験しないといけないのか。しかも同じ場所で。そもそも、彼はいつからそんなに危機感を感じるようになったんだ?見られても気にしない感じだったのに。
心臓はバクバク鳴っているが、頭は意外にも冷静だった。そしてある考えに行き着く。
「…思ったんだけど、一緒にいる所を見られなければ良いんだから、2人とも隠れる必要なかったよね?」
小坂1人が隠れるだけで十分だったはずだ。自分はごくごく平凡な高校生でしかなく、見つけても誰も気にしないのだから。
「え?…あ、そっか。そういえば」
小坂の平然とした返事を聞いて、少々深めのため息が出た。
…この人には距離感というものがないのか?
「…じゃあ、先帰る」
「え?先?」
「また誰かいたら困るから、私が先に駅に入るまでここで待ってて」
これで他の人に見つかったら、さっき隠れた意味がなくなる。無駄にくっついていただけなんて、死んでも御免だ。
「えー?」
小坂がわざとらしく嫌な顔をした。
「待ってて」
「…わかったよー」
碧乃が念を押すと、今度は拗ねてみせた。
「……」
対応が面倒なので、放っておいて帰ることにする。
「じゃあ、また明日」
小坂にそう告げ、駅に向かって歩き出した。
「また明日ー」
小坂の声が聞こえたが、碧乃は振り返ることなくそのまま帰っていった。
その後ろ姿を苦笑いで見つめているなんて、知る由もなかった。
「はぁ…」
碧乃は自分のベッドに倒れ込んでいた。もう風呂にも入り、髪も乾かしていた。
今日はエネルギーの消耗が激しい一日だった。ただでさえ勉強で疲れるのに、本当勘弁してほしい。彼はいつもあんな感じなのだろうか。だとしたら、普通に対応している彼の友達はすごいと思う。
……あ、そうか。ああやって躊躇なく人の間合いに入れるから、たくさん友達ができるのか。
そして学校で一番モテる理由も、きっとそこにある。しかし、自分には無理だ。期間限定じゃなかったら、すでに挫折している。悪い人でない事は分かるのだが、予測不能な行動が多すぎるのだ。
こうなったら、あれはああいう生き物なんだと思うことにしよう。これ以上心臓に負担をかけて、寿命を縮めないためにも。
「……」
考え事がとりあえず一段落し、しばしボーッとする。
ああ、ダメだ…。これじゃ、寝てしまう。
むくっと起き上がり、勉強机へ向かった。かばんから教科書などを取り出す。
実は、家に帰ってからも勉強をする事にしたのだ。小坂のペースに合わせていたら、赤点を脱した程度の点数しか取れない。自分の成績を下げる訳にはいかなかった。
碧乃は眠気を抑えて、目の前のノートを開いた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
76
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる