2人の秘密はにがくてあまい

羽衣野 由布

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彼の中に小さな気持ち

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 次の日。時はすでに放課後。碧乃は1人で喫茶小路きっさこみちに向かっていた。昨日同様、現地集合らしかった。

 今日一日、小坂が話しかけてくることは無かった。何度か視線を感じて目を合わせてしまったが、それだけだった。今まで通りの平和な日常だった。

 やっぱり、昨日思い切って言って良かった。

 碧乃は上機嫌でコンビニの角を曲がった。ここから大通りを外れて、住宅街へ入っていくのだ。

 曲がってすぐのことだった。

 「おはよっ!」

 「わっ!?」

 いきなり誰かが、ビタッと碧乃の斜め後ろにくっついてきた。

 小坂だった。

 「ちょっ、ち、近いよっ!」

 慌てて反対側へ逃げ、小坂を睨む。あまりに近い距離で彼の顔を見てしまったため、頭がパニックを起こしていた。顔も自覚できるほど熱いので、多分赤くなっている。

 何すんだ、バカ!

 対する小坂は、イタズラが成功して嬉しそうにニヤニヤしていた。

 もう、何がおはようだ!何が………………あれ?

 「え?おはよう?」

 「朝言わなかったから」

 「あ…そう…」

 そんな理由……。

 碧乃はまだ警戒態勢をとっている。

 「ちゃんと学校では話しかけないようにしてただろ?」

 「そう…だけど…。って、先に行ったんじゃなかったの?」

 「一緒に行こうと思って、そこで待ってた」

 小坂はさっき通り過ぎたコンビニを指さした。

 「……」

 だからって、何もおどかさなくても………。

 「ほら、行くぞ?」

 碧乃を促し、歩き出す。彼の顔はまだ若干ニヤけていた。

 うう…もう帰りたい…。

 しかしこちらから勉強を教えると約束したので、それはできなかった。それに、逃げてもどうせすぐに捕まる。

 仕方なく碧乃は小坂の横についていった。少し距離を置きながら。





 カランカラン、とベルを揺らして小坂が店に入っていった。

 碧乃も後ろについていく。

 「いらっしゃいませ」

 中野さんが笑顔で迎えてくれた。

 「こんにちは。今日もよろしくお願いします」

 小坂は、同じく笑顔で挨拶した。

 碧乃はそれに続いて、軽く会釈をした。

 「こんにちは光毅君…と碧乃ちゃんだったかな?」

 「あ、はい。よ、よろしくお願いします」

 家族以外に下の名前で呼ばれることがないので、少しどぎまぎしてしまった。

 店の奥へ促され、2人は昨日と同じテーブルに座った。店内は今日も、店主と同年代くらいの客が何人か来ているようだった。

 中野さんがお水を持って来た。

 「はい、どうぞ。ご注文は?」

 「いつものカフェオレお願いします」

 「はい。碧乃ちゃんは?」

 「あ、ブレンドコーヒーで…」

 「コーヒーね。かしこまりました」

 注文を聞き、中野さんはカウンターへ戻っていった。

 「今日は何やるんだ?」

 小坂が、スマホの電源を切りながら訊いてきた。

 「あ、昨日の続きと…じゃあ、地理かな」

 こういう暗記系は早くから始めないと、ちゃんと頭に入れることはできない。実は碧乃も苦手なのだが、小坂のように赤点を取る程ではないので、彼に教える分には問題ないだろう。

 「うへぇー。俺、地理嫌い」

 小坂はかなり嫌そうな顔をした。

 「ただ覚えるだけだもんね。私も苦手」

 「えっ!斉川にも苦手とかあるの?」

 共感したら、予想以上に驚かれた。

 「う、うん、あるよ。暗記するの得意じゃないから」

 「へぇー、勉強なら何でもできるのかと思ってた」

 「……ふふっ。そんな訳ないよ。いつも必死で頭に詰め込んでるだけ」

 予想通りの答えに、思わず笑ってしまった。クラスの人からそんなイメージを持たれている事は、何となく自覚していた。そのせいで近づき難い人間になっているのも分かっていた。だから小坂に話しかけられた時に、あんなに驚いたのだ。

 「……」

 小坂は何も発さず、ボーっとこちらを見つめていた。

 「え?何?」

 「え!あ、いや、何でもない」

 彼は慌てて目をそらし、水の入ったグラスに手を伸ばした。

 「?」

 どうしたんだろう?そんなに変なこと言ったかな?

 中野さんが近づいてきたため、それ以上は訊けなかった。

 碧乃は気付かなかったが、小坂の顔が少しだけ赤くなっていた。

 飲み物が届いたので、2人は勉強を始めた。





 「あーー、もう無理。頭がパンクする」

 小坂が両手で頭を抱えてうめいた。

 「…まだちょっとしか進んでないんだけど」

 そのままテーブルに突っ伏してしまった小坂を、碧乃は半ば呆れ顔で見つめた。

 数学の残りを教えている時は調子が良かったのだが、地理を始めた途端にペースがガクンと落ちた。試験範囲は教科書の約30ページ分あるというのに、一時間近くかけてまだ5ページしか終わっていなかった。他の教科もあるのだ、こんな速度じゃ試験に間に合わない。

 碧乃はため息をついた。

 「…じゃあ、5分だけ休憩ね」

 「ううー………………………わかった」

 かなり悩んでの返事だった。やりたくない気持ちを何とか抑え込んだのだろう。禁止令の効果は絶大だった。

 自分の腕に顔をうずめた小坂を見ながら、碧乃は苦く微笑んだ。

 …まぁ、これでも結構頑張ってる方か。

 弱音は吐くが、決して放棄することはないので、そこは感心する。彼の本気が伝わってくるので、こちらも頑張って教えようという気になる。正直、彼に教える事が少しだけ楽しくなってきた。

 先程休憩は5分だけと言ったが、小坂が自分からやると言い出すまで待つ事にしよう。嫌々やるより、その方が理解力が高まる。

 碧乃は小坂のやる気が戻るのを待ちながら、自分の勉強をした。



  §



 「……」

 不意に顔だけを動かして、光毅は斉川を見つめた。彼女は勉強に集中しているので気付かない。光毅の中に、こっちを見てほしいような邪魔したくないような、不思議な気持ちが生じていた。

 しかし見てほしい気持ちが勝って、話しかけてしまった。

 「…なぁ」

 「ん?…何?」

 斉川が顔を上げた。2人の目が合う。

 真っ直ぐな視線を向けられ、光毅は少しドキドキした。邪な気持ちが全くない、とても純粋なそれは、他の人からは感じた事がないものだった。真剣に話を聴いてくれるのが分かる。

 あ…何話そう……

 「…俺が試験で良い点取れたら、嬉しい?」

 なぜか気になって、自然に口から出てしまった。

 「え?…う、うん、嬉しいよ。ちゃんと役に立てたんだって思えるし」

 それを聞いて、何だかやる気が湧いてきた。

 「…そっか」

 光毅はむくっと体を起こした。

 「じゃあ…頑張る」

 「…頑張って」

 微笑んで、そう言ってくれた。

 頑張る。斉川のために。

 そう思ったら、勉強が嫌じゃなくなった。



  §



 休憩が終わってからの小坂は、さっきとは別人のようだった。勉強のスピードが上がった訳ではないが、弱音を吐いたり、嫌そうな顔をする事がなくなった。

 先の小坂からの質問はいきなりで少し驚いたが、ちゃんと本音を伝えた。正確には嘘がつけない性格なので、そうするしかなかっただけだが。それに対して彼が何を思ったのかは分からないが、とりあえず『頑張る』と言ってくれた。せっかくのやる気を失わせないよう、こちらも頑張って協力しなくては。

 碧乃は、どうやったら覚えやすいかなどのアドバイスもしながら、勉強を教えていった。





 「お疲れ様。ずいぶん熱心だね。時間は大丈夫かい?」

 中野さんが話しかけてきてくれた。手にはマグカップの乗ったトレーを持っている。

 「え?…あ」

 碧乃は腕時計を確認した。午後8時を過ぎていた。小坂にも時計を見せると、驚いた顔をした。どうやら2人ともかなり集中していたらしい。

 「あまり遅いと家の人が心配しちゃうよ?」

 そう言いながら、テーブルにココアを置いてくれた。

 「すいません、ありがとうございます。じゃあこれ飲んだら帰ります」

 小坂が申し訳なさそうに返した。

 「ああ、分かったよ」

 優しい笑顔を見せて、中野さんはカウンターへ戻っていった。

 「ごめん、全然気付かなかった」

 「ううん、大丈夫。私も気付かなかった」

 言いながら2人はマグカップを手に取り、一息つく。

 「…残った所は、1人でできそう?」

 「うーん…、何とかやってみる。分かんなかったらまた訊く」

 「そっか、分かった」

 しばし沈黙。疲れを癒やしてくれるココアの香りが心地良かった。

 小坂が自分を見つめていることに、今日は気付かなかった。

 「…そういえば」

 不意に小坂が話しかけてきた。

 「甘いもの苦手って言ってたのに、それ飲んで大丈夫なのか?」

 「え?」

 …ああ、昨日そんなこと言ったな。

 「疲れてる時はおいしいって思えるよ。少しだけだけど」

 「へぇー、そうなんだ」

 昨日と同じ顔をされた。

 私ってそんなに珍しいかなぁ…?





 2人は飲み終えてすぐに会計を済ませ、店を出た。

 小坂の他愛ない話を聞いているうちに、大通りの近くまで来た。

 そのままコンビニの角を曲がろうとした時だった。

 「あ!やばっ!」

 「え、わっ!?」

 小坂が碧乃の腕を引っ張って、一緒に建物の陰に隠れさせた。バランスを崩した碧乃の肩が、小坂の胸辺りにぶつかる。奇しくもそれは、行きに小坂がおどかした時と同じ位置関係だった。

 なっ…また!?今度は何っ!

 小坂は腕を掴んだまま、もう片方の手を碧乃の肩に置いて通りの向こうを伺った。碧乃に寄り掛かる形になり、密着度が大幅に増した。

 近い近い近い近い近いっ!くっついてるって!!

 「ちょっ…!?何して…」

 「あれあれ」

 小坂が示した先に、ファミレスから出てくる2人の女子高生が見えた。緑星高校の制服を着ていた。

 「あ…」

 2人は道路を挟んだ向こう側にいるので、声が聞こえることはない。しかしこの最悪な状況を見られたらと思うと、恐怖で声を出せなくなってしまった。しばしそのまま硬直する。密着しているせいで、互いの心臓の音がやけに大きく聞こえた。

 女子高生2人が完全にこちらに背を向けた所で、小坂が声を発した。

 「危なかった…。見つかったかと思った」

 「あの……離して」

 「あ、わりぃ」

 やっと声が出せるようになったので、小坂に解放してもらう。碧乃は彼から少し離れ、無意識に自分の腕を触った。

 全く、なぜ一日に2度も経験しないといけないのか。しかも同じ場所で。そもそも、彼はいつからそんなに危機感を感じるようになったんだ?見られても気にしない感じだったのに。

 心臓はバクバク鳴っているが、頭は意外にも冷静だった。そしてある考えに行き着く。

 「…思ったんだけど、一緒にいる所を見られなければ良いんだから、2人とも隠れる必要なかったよね?」

 小坂1人が隠れるだけで十分だったはずだ。自分はごくごく平凡な高校生でしかなく、見つけても誰も気にしないのだから。

 「え?…あ、そっか。そういえば」

 小坂の平然とした返事を聞いて、少々深めのため息が出た。

 …この人には距離感というものがないのか?

 「…じゃあ、先帰る」

 「え?先?」

 「また誰かいたら困るから、私が先に駅に入るまでここで待ってて」

 これで他の人に見つかったら、さっき隠れた意味がなくなる。無駄にくっついていただけなんて、死んでも御免だ。

 「えー?」

 小坂がわざとらしく嫌な顔をした。

 「待ってて」

 「…わかったよー」

 碧乃が念を押すと、今度は拗ねてみせた。

 「……」

 対応が面倒なので、放っておいて帰ることにする。

 「じゃあ、また明日」

 小坂にそう告げ、駅に向かって歩き出した。

 「また明日ー」

 小坂の声が聞こえたが、碧乃は振り返ることなくそのまま帰っていった。

 その後ろ姿を苦笑いで見つめているなんて、知る由もなかった。





 「はぁ…」

 碧乃は自分のベッドに倒れ込んでいた。もう風呂にも入り、髪も乾かしていた。

 今日はエネルギーの消耗が激しい一日だった。ただでさえ勉強で疲れるのに、本当勘弁してほしい。彼はいつもあんな感じなのだろうか。だとしたら、普通に対応している彼の友達はすごいと思う。

 ……あ、そうか。ああやって躊躇なく人の間合いに入れるから、たくさん友達ができるのか。

 そして学校で一番モテる理由も、きっとそこにある。しかし、自分には無理だ。期間限定じゃなかったら、すでに挫折している。悪い人でない事は分かるのだが、予測不能な行動が多すぎるのだ。

 こうなったら、あれはああいう生き物なんだと思うことにしよう。これ以上心臓に負担をかけて、寿命を縮めないためにも。

 「……」

 考え事がとりあえず一段落し、しばしボーッとする。

ああ、ダメだ…。これじゃ、寝てしまう。

 むくっと起き上がり、勉強机へ向かった。かばんから教科書などを取り出す。

 実は、家に帰ってからも勉強をする事にしたのだ。小坂のペースに合わせていたら、赤点を脱した程度の点数しか取れない。自分の成績を下げる訳にはいかなかった。

 碧乃は眠気を抑えて、目の前のノートを開いた。
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