【完結】愛されているのに気づかない魔術師と、ずっと隣にいたい番犬剣士の話

物村

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第一話

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濡れたような深い緑に包まれた、黒嶺の森。
その奥を、セフィナ・カディルはひとりの青年と並んで進んでいた。

双剣使い、カイル・サナーク。
長年、数多の戦場で背中を預け合ってきた、信頼できる相方だ。

今回も、冒険者ギルド経由の魔物討伐。近隣の村を荒らす大型個体の排除が目的だが、二人にとっては慣れた難度だった。慎重に進みさえすればいい。

セフィナは首の後ろでゆるく束ねた濡羽色の髪を払うと、装飾のない杖を握り直す。
動きやすいパンツに薄手のローブ。揺れる布越しに冷気が肌を撫で、淡い月光を思わせる銀灰の瞳が、静かに前方を射抜いていた。

隣を歩くカイルは軽装の鎧に身を包み、オレンジがかった茶髪を後ろでハーフアップに結っている。
自然と腰の双剣の柄へ手が伸び、伏し目がちの切れ長の琥珀色の瞳が、周囲をくまなく測っていた。

「もう少し先っぽいな。足跡が残ってる」

カイルが低く呟き、前へ進もうとした、その瞬間。

風の音が、ふっと消えた。
気圧が変わったような耳鳴り。空気がぴんと張り詰める。

セフィナの足が止まり、視線を鋭く向けた直後、樹々の隙間を割って魔物が姿を現した。

異様に肥大した肩と、甲殻を思わせる硬質な皮膚。全身を覆う不規則な膨らみと、鈍く濁った瞳。
地を這うように重い咆哮が、森の空気を震わせる。

セフィナが無意識に杖を構えたとき、カイルはわずかに一歩前へ出た。
まるで昔からそうしてきたのが当然であるかのように。ほんの一歩なのに、その肩が自然とセフィナの前に立つ。

「はは、こりゃあ歓迎されてるな。張り合いが出るってもんだ!」

軽口を叩きながらも、目は真っ直ぐに敵を捉えていた。

「カイル。冗談言ってる場合じゃないよ」

セフィナが静かにたしなめると、彼はほんのわずかに笑う。

「そう言うなって。緊張しすぎると術式もぶれる。肩の力、今のうちにいったん抜いときな」
「そういうの、直前に言う?」
「直前だから言うんだろ。あんたが後ろで踏ん張れるようにな」

軽さを装った声。その芯は、真剣だ。

セフィナがごく短く息を吸った瞬間、タンッ、と軽い音を立てて、カイルはもう前へ踏み出していた。

彼はいつも迷いなく先に出る。ただの突撃ではない。森の起伏、木々の配置、風向き──すべてを読んだ上での判断だ。
双剣が陽光の残滓をわずかに返しながら、宙を裂く。

「《身体強化》。対象……カイル」

セフィナは指先に魔力を滑らせ、カイルの動きに合わせて術式を展開する。
魔力がぴたりと噛み合い、彼の動きはさらに鋭くなった。

踏み込みが伸び、速度が一段と跳ね上がる。魔物の視線が追いつくより先に、刃が右前肢を斬り裂いた。まだ浅い。
咆哮とともに、尾が唸りを上げて横薙ぎに迫る。

「《認識阻害》。対象……目の前、大型個体」

セフィナは空気に微細な魔力の歪みを編み込み、敵の視覚と聴覚に乱れを起こす。
魔物の眼差しが一瞬、ぐらりと虚空を泳いだ。その隙を縫い、カイルが左脇腹へ刃を滑り込ませる。切断音、鋼の軋み、叫びが重なった。

空気がびりびりと揺れた。
衝撃でバランスを崩し、杖がカツンと鳴る。次の詠唱がわずかに引っかかり、その一瞬で魔物がこちらを向いた。

「!」

察知された。セフィナの心拍が跳ねる。
四肢を這わせるような勢いで突進してくる。展開済みの結界では、間に合わない──

斬撃が割り込んだ。

疾風のようにカイルが飛び込み、双剣が空気を裂く。右腕を砕き、爪を弾き、身を沈めて斬り上げた。
魔物が仰け反り、膝を折る。

そのとき、カイルの頬に紅い線が走った。最後の一撃を決めるため、わずかに間合いを詰めすぎたのだろう。
それでも彼は一瞬も迷わず、両の刃を交差させ、魔物の喉元へ深く突き立てた。

 

重たい音が、森の静寂に吸い込まれていく。
戦いの幕が、ようやく下りた。

駆け寄る途中で、セフィナはカイルの頬に細い傷を見つけた。
剣を引き抜いて振り向くより早く、指先を伸ばす。

「カイル。頬、血が出ている。動かないで」

触れた瞬間、彼の呼吸がわずかに止まった。
指先から魔力を染み込ませると、赤い筋がゆっくりと薄れていく。距離は、息が触れそうなほど近い。

カイルは視線を逸らさず、ただじっとその様子を見つめていた。

「……うん、綺麗になった」

痕をなぞるように指で撫で、セフィナは小さく息を吐く。
そのとき、カイルの喉がかすかに鳴った気がした。

「おつかれさま、カイル。今日も大活躍だったね」

カイルはわずかに視線を逸らし、短く返す。

「……ああ。セフィナも、ありがとな」
「さっきはごめん。術式を中断してしまって……魔物にも気付かれた」
「平気だよ。あれくらいなら問題ない。俺もちゃんと見てたしさ」

ぽん、と軽く背中を叩き、カイルが笑う。

「ほら、野営の準備だ」

剣を拭い終えた彼は、すぐに周囲の見張りと焚き火の準備に移った。
セフィナは焚き火の周囲に体力回復増加と敵性認識回避の結界を張り、さらに気配探査を重ねていく。

その合間、二人は身分証でもある冒険者タグを取り出し、任務報告の認証処理を行った。
タグの石がひときわ瞬き、任務完了の報せがギルドへと送られていく。

セフィナはチェーン付きのタグを胸元にしまい、薬草茶の準備をしながら魔力で湯を温めた。ほのかな甘みを添えるため、干し果実を二片。この味付けは、カイルも自分も好んでいる。

カイルはカップを受け取り、焚き火のそばに腰を下ろしてから、ゆっくりとひと口含んだ。
唇がわずかに緩み、肩から力が抜けていく。

「……はあ、あったけえ。身体に沁みるなあ」

焚き火の揺らぎが彼の横顔を照らし、穏やかな影を映す。戦場で見せる鋭さとはまるで違う顔だった。
セフィナは黙って、その横顔を見つめる。

簡素な食事をとりながら、ふたりは今日の戦いを振り返った。ときどき冗談を挟みながら、無理のあった連携や、次はこうしてみようという提案を交わす。
冒険者ランクを上げるために残された依頼数や、どの順番でこなしていくかも話し合った。

こうして肩を並べ、言葉を交わす時間が、セフィナにはとても心地よい。
焚き火の熱がじんわりと頬をなでる。湯気の立つ茶を両手で包み込みながら、ふと、遠い記憶に思いを巡らせた。

 

カイルと初めて組んだのは、六年前。
十六で家を出て、冒険者になったばかりの頃。大規模な討伐依頼で、偶然同じ小隊に入ったのが始まりだった。

討伐前の簡単な顔合わせのとき、彼は人懐こい笑みを浮かべて声をかけてきた。

『おっ、あんたが今回の魔術師さん? 綺麗な髪だね。魔力も強そうだし、俺、いつもより活躍できちゃうかも』

初対面の相手に距離が近く、よく喋る男。どこか軽薄にも見えて、最初は正直、警戒していた。

けれど、戦場に出た彼はまるで別人だった。
同い年の、細身で無駄のない動きをする新米双剣使いと、補助魔法の重ねがけを得意とする新米魔術師。
予想外の好連携で、隊の中でも二人はすぐに目立つ存在になった。

『あんたすげえな! あんな動き、出来たの俺……初めてだ! あんたの魔法があると、俺はもっと強くなれる。また一緒に組もう!』

依頼が終わった直後、興奮した様子でそう告げた彼のまっすぐな声を、セフィナは今でも覚えている。

戦えず、補助しか出来ない自分を「必要だ」と言ってくれた。
そのひと言が、どれほど嬉しかったか。

「……セフィナ? 大丈夫か?」

カイルの声で、はっと我に返る。

「ごめん、少しだけ、ぼーっとしてたかも」
「具合悪いのか? 魔力、足りてない?」
「だ、大丈夫。そういうのじゃないよ。……カイルと組み始めた頃のこと、思い出してたの。六年前。大型討伐で初めてペアになったとき。あの時は、まだお互い黒タグだったよね」

セフィナは胸元のチェーンを手繰り、冒険者タグを取り出そうとする。
けれど冷たい金属がローブの内側に引っかかり、動かした拍子に胸の布地がずれた。

小さな息がこぼれる。あわてて襟元を整え、ようやく引き出したタグに視線を落とした。

今は中級を示す銅色。けれど、あの頃はまだ見習いの黒だった。
親指で表面をなぞりながら、自然と微笑がこぼれる。

「私、あの時嬉しくて。自分ひとりじゃ戦えなくて、まだ自信が無かった時に、カイルが必要だって言ってくれて。すごく救われた」
「……ああ。懐かしい。俺、あの時マジで感動したんだよな」
「それから六年だよ。もうすぐ上級に届きそうなんて、ちょっと感慨深いなあって」
「上級に行く時も、二人で一緒だ」

カイルがそっと手を差し出す。
セフィナは頷き、その手を両手で包んだ。

力強く、すらりとした長い指。
何度も自分を助けてくれた手だと思うと、もっと触れていたくなる。

「……セフィナ、それ以上は……だめだ」

不意に落ちた声に、セフィナの肩が跳ねる。いつもより低く、熱を含んだ声音。
その目には、一瞬だけ、何かを強く堪える色が宿っていた。端正な鼻筋と、きゅっと結ばれた唇が、それを覆い隠すように固く結ばれている。

「ごめんなさい。触りすぎてしまった?」
「……そういうことじゃない」

彼は目を伏せ、拳を膝に置いたまま、息を吐いた。

「昔みたいに軽く返せたら、よかったんだけどな。今の俺じゃ、たぶん、無理だ。……あまり、男にそういうことしない方がいい。俺に対しても……他のやつに対しても」

いつもの調子ではない、素の声。軽薄な演技の下に隠してきた、本来の誠実さが滲む。

「……うん。気をつける」

そこで、会話が途切れた。

「……明日も早い。セフィナは先に寝な。見張りは交代で。あとで声、かけるから」
「わかった。おやすみ、カイル」

焚き火から少し離れた場所に横たわりながら、セフィナは目を閉じた。
カイルの言葉が胸に引っかかる。怒られたことへの申し訳なさと、それ以上に、どこか名残惜しいような気持ちが残っていた。

眠りに落ちるその瞬間まで、それがなんなのか分からないまま、静かにまぶたを閉じていた。

 


 
焚き火のそばで、カイルは剣を脇に置いたまま、ひとり座っていた。
森のざわめきと、ぱちりと火のはぜる音だけが、静かに夜を満たしている。

すぐ隣では、セフィナが眠っていた。彼女の寝息は穏やかで、ときおり寝返りに合わせてブランケットの隙間から、白い首筋がちらりと覗く。
信頼しきった相方が、無防備に、自分の手の届く距離で眠っている。

艶のある黒髪はほどかれ、背中に流れていた。夜の闇と見紛うほど深く、触れれば指に絡みそうな柔らかさ。焚き火の明かりをわずかに映し、陰影のなかで静かに揺れている。

普段は凛としたつり目も、今は力が抜けて幼さを帯びていた。
その寝顔は、いつもの張りつめた表情とはまるで違って──ずるいほど、綺麗だ。

物静かで美しい魔法使い。誰もがセフィナをそう形容する。
本人にそのつもりは一切なくても、戦場で翻るローブと魔力の光を纏えば、否応なく視線を引きつける。

仲間内では《宵闇の魔女》などと、崇拝じみた異名まで囁かれていた。
そして、自分は《魔女の番犬》。気づけば、そう呼ばれるのが当たり前になっていた。

セフィナの傍らに付き従う様が、忠犬に見えたのだろう。実際、それらしく振る舞ってきたのも自分だ。
間違ってはいない。けれど、その呼び名に滲む滑稽さと、どこか他人事のような距離感が、どうしても好きになれない。

彼女を守るためだけの番犬じゃなく、誰より近くにいるひとりの男でありたい――ずっと、そう願ってきた。

初めて会ったとき、彼女に一目で惹かれた。
一緒に戦って、背中を預け合って、魔法に守られて。いつしか、誰にも渡したくないと願うようになっていた。

その願いを叶えるためなら、なんだってやった。鍛錬はもちろん、依頼選びも歩調を合わせ、彼女の隣を死守した。

セフィナに気づかれないよう、近づこうとする男たちにはさりげなく牽制をかけた。必要なときはギルドにも根回しをして、彼女の近くに不純な目的を抱えた男が寄りつかないようにした。
すべては、彼女の隣に居続けるためだけに。

彼女は自分を「信頼できる仲間」として見てくれている。それだけで、十分なはずだった。
……けれど、足りない。どうしても、満たされない。

思い返すのは、さっきの出来事。

タグを引き出す途中でチェーンがローブに引っかかり──胸元の布がわずかにずれ、豊かな肌が露わになった。
そのとき、驚いたように「んっ」と漏れた声。すぐに整えられたが、その一瞬が網膜に焼きついて離れない。

彼女は、まったくの無自覚だ。
自分がその一瞬だけで目を逸らせなくなったことも、その光景を頭の中で反芻して、いまなお火照りが引かないことも。セフィナは気づいていない。

……他の男たちも、彼女をああやって見ているのか?

その想像が、喉の奥に黒い熱を滲ませる。
醜い嫉妬と、焼けつくような独占欲。

誰にも触れさせたくない。
彼女の温度も、視線も、声も──全部、俺だけのものにしたい。

下腹に沈む熱は、すでに疼きへと変わっていた。
理性の殻の奥で、静かにひび割れる音がする。

焚き火の赤に照らされたカイルの目は、もはや見張りのものではなかった。

彼はゆっくりと立ち上がる。
火の外縁をかすめるように進み、眠るセフィナから距離を取るように、夜の深さへ紛れ込んでいく──

……限界は、とっくに超えていた。

 

人気のない木立の影へ歩を進めるたび、胸の奥で滞っていた熱が、じわじわと輪郭を持ち始める。

誰にも気づかれぬよう、焚き火の明かりの届かない暗がりへ。
背後の気配を確かめてから、カイルはひとつ息を吐き、手袋を外して膝をついた。

腰の装備を外し、衣服の隙間へ指を差し入れる。
熱く滾った欲望が、すでに限界を訴えていた。

陰茎に触れた瞬間、喉奥に熱がこもる。
脈打つ硬さを確かめながら指を巻きつけ、根元から亀頭まで包むように握る。
何度か上下に擦ると、指先に粘りを帯びた湿りが伝わった。

「……はぁ、っ……」

セフィナのことしか、考えられない。
普段なら絶対にしないはずのことを、今夜だけは抑えきれなかった。

頬に触れた指先。懐かしそうに微笑んで、自分との過去を語る唇。ローブの奥で揺れた豊かな胸。
そして「ありがとう」と笑いながら、そっと重ねてきた両手の温もり――それら全部が、手の中の熱と結びついていく。

「……ほんと、無防備だよ。あんたは……」

ぽつりと零れた言葉に、自分でも苦笑がにじむ。

手の中の肉はさらに熱を帯び、先端からとろりと透明な雫が溢れた。
手のひらにぬめりを感じながら、緩急をつけて擦り上げる。下腹から突き上げるような疼きに合わせ、腰がじわりと動き出した。

「セフィナ……」

呼んではいけないと分かっているのに、名前がこぼれる。
──もし、あの指が頬ではなく、自分のここを撫でてくれたら。そんな想像が、現実よりも鮮やかに脳裏に浮かんでしまう。

「……っく……、っ、ああ……」

もう片方の手で衣服をたくし上げると、火照った皮膚が夜気に晒されて、甘く痺れた。
羞恥と快楽が背筋を這い、視界がじわりと滲む。

セフィナは眠っている。この距離なら声も気配も届かない。

──知らないままでいてくれ。
自分が、どれほど汚い欲望を抱えているかなんて。

「セフィナ……セフィナ……」

名前を噛み締めるように、口の中で繰り返す。

この想いは、きっと彼女には届かない。
それでも、触れたくてたまらない。愛しさと熱がないまぜになって、頭の奥を焼き尽くしていく。

腰が跳ねる。
耐えきれないほどの圧力が下腹に押し寄せて──

 



 

強い風が木々を揺らす音に、セフィナは目を覚ました。
瞬きを繰り返しながら、むくりと上体を起こす。

あたりはすっかり闇に沈んでいた。焚き火の火は赤くくすぶり、今にも消えそうに揺れている。
夜気が肩を撫で、思わず身をすくめて小さく伸びをした。

背中まで伸びた髪が、ふわりと揺れる。寝癖を整えるように指先で梳かしながら、周囲に視線を巡らせた。
結界の中に、カイルの姿がない。

「……カイル?」

見張り当番の彼が持ち場を離れている。そのことに疑問を覚えつつ、セフィナは立ち上がる。

冷たい空気が、薄手のローブ越しに肌を撫でていく。足元にも、じわじわと夜気が染み込んでくる。
深夜の森は冷たく、息をするたびに肺まで凍えるようだ。視界は悪く、夜行性の魔物たちが活動を始める時間帯でもある。

ああ見えて、彼は責任感が強い。何かあったのかもしれない。そう思うと、純粋に心配だった。
用足しなら、とっくに戻ってきていてもおかしくない。目を覚ましてから、すでに五分以上が経っていた。

焚き火を中心とした簡易結界はそのままに、セフィナは自分の身体に認識阻害の術式を纏わせる。これで多少の接近なら、魔物に気づかれにくくなる。

杖を手に、森の奥へ踏み出した。

衣擦れを立てる防水ローブ。足元で湿った葉がかさりと鳴る。
森を抜けて吹く風が、頬をかすめていった。

少し進んだ先で、荒い息遣いが聞こえた。

「……はっ……、はぁ……」

断続的に漏れる吐息。魔物の唸りではない。男の声──

耳を澄ませ、足音を殺して近づく。木立の隙間に、見慣れた背中があった。カイルだ。

彼は背を丸め、肩を激しく上下させていた。まるで手負いの獣が身を隠すように、ひと気のない暗がりで息を詰めている。

「……フィナ……セフィナ……」

自分の名を、うわごとのように呼ぶ声。苦しそうな呼吸。怪我をしているのかもしれない。

セフィナは急ぎ足で彼に近づいた。

「カイル、大丈夫?」

声をかけた瞬間、カイルの背中がびくりと跳ねる。
勢いよく振り返った顔は赤く、額には汗が滲んでいた。肩で息をし、目は焦点を結ばず、唇が震えている。

「! っ、ぐっ……!」

短く呻いた声とともに、カイルが背を丸めた。痛みに耐えるような様子に、セフィナは迷わず横へしゃがみ込む。

「どこを怪我したの──」

言葉が途中で途切れる。
彼の手には、硬く張りつめた陰茎が握られていた。その先から、白濁がどぷどぷと地面へ垂れていく。

「……え」

思わず漏れた声に、カイルが顔を歪める。

「セ、フィナ……」

荒い吐息が混じった声は、普段よりわずかに湿って聞こえた。

「……っ、ごめんなさい。起きたらカイルがいなかったから、何かあったのかと思って」

その言葉を聞いた瞬間、カイルは一気に顔色を失う。
慌てて陰部を隠し、乱暴に布で手を拭いながら服を整えた。荒れた呼吸のまま、詰まった声を吐き出す。

「……っ、ごめん……心配してくれたのに……こんな……本当に……ごめん……」

声はどんどん小さくなっていく。大柄な身体を縮めた背中が、いつもよりずっと小さく見えた。

セフィナは、その様子をしばらく黙って見つめる。
そして、静かに口を開いた。

「……汚くなんて、ないよ。生理現象でしょう?」

それだけ告げて、ふう、と小さく息を吐く。

「カイルに怪我がなくて、安心した。外は危ないから──戻ろう」

立ち上がりながら、いつもと変わらない調子でそう言う。
カイルが驚いたように顔を上げた。その瞳には、強く押し殺した何かが滲んでいる。

けれど、何も言わずに彼は立ち上がった。
ただ黙って、焚き火の方へ歩き出す。セフィナも、そのあとに続いた。

結界の中へ戻ると、カイルは一言も発さず寝床に潜り込んだ。ブランケットにくるまる背中は、いつもより少し小さく見える。

セフィナは彼に背を向け、杖を抱えたまま見張りの位置についた。

パチ、パチ、と焚き火がはぜる音だけが、夜の静けさを照らしている。
明け方の気配が差し始めるまで、彼女はひとときも目を閉じなかった。
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