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ニギホシ編
堕ちた海祇の夢
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赤みの濃い夕陽は西の岬の向こうに隠れ、浅い入江の砂浜を青黒い影が覆いはじめていた。
宵闇の迫るの海水浴場に人気はなく、打ち寄せ砕ける波音だけが響いている。満ち潮のせいもあり、狭くなった砂浜に降りてくるものはいない。
海岸にぽつんと建てられたプレハブの前に、一八〇センチを超える背丈を小さく折りたたんで座り込む若い男の姿があった。
日に焼けた褐色の肌にはうっすらと筋肉の影が落ちる。短めに整えられた黒髪は精悍な顔立ちに凛とした雰囲気を足していた。ラッシュガードにハーフパンツ姿で、ビーチサンダルは傍らに揃えて置いてある。
男の名は荒瀬透真。ライフセーバーだ。昼間は海水浴場で監視員をしている。
遊泳時間の終わった砂浜には昼間のような賑わいはなく、荒瀬の姿があるだけだ。
絶え間ない波音を聞く荒瀬は、ぼんやりとその深い鳶色の瞳に宵闇に染まり始めた海を映していた。
なんとなく、まだ帰りたくなかった。人気のなくなった海岸に流れるもの寂しさは、荒瀬の胸を柔らかく引っ掻いてちりちりとした痛みを残していく。
夏の終わり、クラゲが流れつく時期になると、海に飛び込んで命を絶った親友の命日がやってくる。
いつまで経っても、どうにかできたのではないかと思ってしまう。もっと別の言葉をかけてやれば。もっとそばにいてやれば。もっと話をしていれば。想いは尽きることはない。
賑わいの消えた海は、荒瀬にそんなことばかり思い出させる。
それでも荒瀬が夏の海から離れられないのは、海で命を落とす者を減らしたいからだ。罪滅ぼしのような意味もあった。あいつを助けられなかった分、誰かを助けたい。
夏のたびに思い出すこの苦い思いが少しでも軽くなればと思いながら、荒瀬は海に通った。
ぼんやりと投げられた荒瀬の視線の先、夜の闇が迫る海に、何かが跳ねたのが見えた。
それは随分と大きな魚のようで、荒瀬は思わず立ち上がった。なぜかはわからないが胸がざわつく。荒瀬は誘われるようにその姿を追って膝まで海に入った。
気のせいではない。確かに大きな影が跳ねた。水音もした。
荒瀬は水面に目を凝らすが、緩やかに波立つ水面が見えるばかりで、何も見えない。
釈然としない荒瀬は、ふと、足元に強い水流を感じた。足元の砂ごと攫っていくような、引いていく波よりも随分と強い流れだった。
途端に明らかに水流ではない何かに足を引っ張られて、荒瀬の身体は抵抗する間も無く海の中に引き摺り込まれた。
夕暮れの海岸。人気のない砂浜に、助けはない。
視界はたちまち薄暗い海の中になった。
透き通った青黒い闇に、無数の気泡が踊る。
このまま死ぬのか。
あいつも、最後に見たのはこんな景色だったのだろうかと荒瀬は思う。荒瀬の手を振り切って海へと飛び込んだ、今野和磨。荒瀬の一番の親友だった。
そんなことを思ったところで意識は闇に飲まれた。口に入ってきたのは塩辛い海水だけではなかった気がした。
高校三年の夏の終わりに自ら命を絶った今野のことは、いまだに荒瀬の胸に影を落としていた。
思い出すたびに、今野との思い出は苦いものとともに胸に蘇る。
白い肌、ひょろりとした細身の身体。尖った鼻先に、少し垂れた目尻。まだその姿は鮮明に荒瀬の意識に焼き付いていた。
生きづらそうにしていた今野に寄り添おうとしたのに、叶わなかった。荒瀬は何度も無力感に苛まれ、それでも諦めきれずに生きてきた。
そんな自分も、今となっては死ぬのか生きるのかわからない。それでも、まだ死にたくないと荒瀬は思う。
死ぬわけにはいかない。今野を助けることができなかった無念は、まだ晴れていないのだから。
荒瀬が目を覚ましたのは、薄暗い、見知らぬ場所だった。そこらじゅうに黒い岩場が見え、背中にも冷たく硬い岩の感触がある。よくよく見れば洞窟のような場所だ。
海岸から流されてきたのだろうか。
薄暗いそこは、昼か夜かも曖昧で時間の経過もわからない。
身体に痛む場所はない。おそるおそる身体を起こした荒瀬の耳に、どこか楽しげな、低くざらついた男の声が届いた。
「あは、おきた」
「っ!」
目の前に現れた何かに荒瀬は息を詰め、思わず後退る。
自分を覗き込むのは、深い海の色をした、影のような何かだ。
目を凝らせば、紺色の肌に赤黒い紋様が浮かぶ、人のようなものだとわかる。荒瀬よりも大きい体格をしている。垂れ落ちる黒く長い髪の隙間からは、赤い目がのぞいている。
禍々しさしか感じない、何かが荒瀬を見ていた。
宵闇の迫るの海水浴場に人気はなく、打ち寄せ砕ける波音だけが響いている。満ち潮のせいもあり、狭くなった砂浜に降りてくるものはいない。
海岸にぽつんと建てられたプレハブの前に、一八〇センチを超える背丈を小さく折りたたんで座り込む若い男の姿があった。
日に焼けた褐色の肌にはうっすらと筋肉の影が落ちる。短めに整えられた黒髪は精悍な顔立ちに凛とした雰囲気を足していた。ラッシュガードにハーフパンツ姿で、ビーチサンダルは傍らに揃えて置いてある。
男の名は荒瀬透真。ライフセーバーだ。昼間は海水浴場で監視員をしている。
遊泳時間の終わった砂浜には昼間のような賑わいはなく、荒瀬の姿があるだけだ。
絶え間ない波音を聞く荒瀬は、ぼんやりとその深い鳶色の瞳に宵闇に染まり始めた海を映していた。
なんとなく、まだ帰りたくなかった。人気のなくなった海岸に流れるもの寂しさは、荒瀬の胸を柔らかく引っ掻いてちりちりとした痛みを残していく。
夏の終わり、クラゲが流れつく時期になると、海に飛び込んで命を絶った親友の命日がやってくる。
いつまで経っても、どうにかできたのではないかと思ってしまう。もっと別の言葉をかけてやれば。もっとそばにいてやれば。もっと話をしていれば。想いは尽きることはない。
賑わいの消えた海は、荒瀬にそんなことばかり思い出させる。
それでも荒瀬が夏の海から離れられないのは、海で命を落とす者を減らしたいからだ。罪滅ぼしのような意味もあった。あいつを助けられなかった分、誰かを助けたい。
夏のたびに思い出すこの苦い思いが少しでも軽くなればと思いながら、荒瀬は海に通った。
ぼんやりと投げられた荒瀬の視線の先、夜の闇が迫る海に、何かが跳ねたのが見えた。
それは随分と大きな魚のようで、荒瀬は思わず立ち上がった。なぜかはわからないが胸がざわつく。荒瀬は誘われるようにその姿を追って膝まで海に入った。
気のせいではない。確かに大きな影が跳ねた。水音もした。
荒瀬は水面に目を凝らすが、緩やかに波立つ水面が見えるばかりで、何も見えない。
釈然としない荒瀬は、ふと、足元に強い水流を感じた。足元の砂ごと攫っていくような、引いていく波よりも随分と強い流れだった。
途端に明らかに水流ではない何かに足を引っ張られて、荒瀬の身体は抵抗する間も無く海の中に引き摺り込まれた。
夕暮れの海岸。人気のない砂浜に、助けはない。
視界はたちまち薄暗い海の中になった。
透き通った青黒い闇に、無数の気泡が踊る。
このまま死ぬのか。
あいつも、最後に見たのはこんな景色だったのだろうかと荒瀬は思う。荒瀬の手を振り切って海へと飛び込んだ、今野和磨。荒瀬の一番の親友だった。
そんなことを思ったところで意識は闇に飲まれた。口に入ってきたのは塩辛い海水だけではなかった気がした。
高校三年の夏の終わりに自ら命を絶った今野のことは、いまだに荒瀬の胸に影を落としていた。
思い出すたびに、今野との思い出は苦いものとともに胸に蘇る。
白い肌、ひょろりとした細身の身体。尖った鼻先に、少し垂れた目尻。まだその姿は鮮明に荒瀬の意識に焼き付いていた。
生きづらそうにしていた今野に寄り添おうとしたのに、叶わなかった。荒瀬は何度も無力感に苛まれ、それでも諦めきれずに生きてきた。
そんな自分も、今となっては死ぬのか生きるのかわからない。それでも、まだ死にたくないと荒瀬は思う。
死ぬわけにはいかない。今野を助けることができなかった無念は、まだ晴れていないのだから。
荒瀬が目を覚ましたのは、薄暗い、見知らぬ場所だった。そこらじゅうに黒い岩場が見え、背中にも冷たく硬い岩の感触がある。よくよく見れば洞窟のような場所だ。
海岸から流されてきたのだろうか。
薄暗いそこは、昼か夜かも曖昧で時間の経過もわからない。
身体に痛む場所はない。おそるおそる身体を起こした荒瀬の耳に、どこか楽しげな、低くざらついた男の声が届いた。
「あは、おきた」
「っ!」
目の前に現れた何かに荒瀬は息を詰め、思わず後退る。
自分を覗き込むのは、深い海の色をした、影のような何かだ。
目を凝らせば、紺色の肌に赤黒い紋様が浮かぶ、人のようなものだとわかる。荒瀬よりも大きい体格をしている。垂れ落ちる黒く長い髪の隙間からは、赤い目がのぞいている。
禍々しさしか感じない、何かが荒瀬を見ていた。
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