海祇の岬

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ニギホシ編

堕ちた海祇の夢5

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 荒瀬の心には、まだ今野がいる。

「和磨」

 そうやって呼ぶと、いつだって今野は笑ってくれた。
 そんな今野に、荒瀬は向けてはいけない感情を抱いていた。

「和磨」

 知られてはいけない。知られたらきっと、今野はもう笑ってはくれない。こうしてそばにいることも許してはくれない。

 だから、今野を助けて、ずっと、こうやってそばに、いさせて欲しかった。
 結局、自分のためだ。自分のために、生きていて欲しかった。

「和磨、和磨」

 死なないで。
 好きなんだ。
 そばにいさせて。

 荒瀬の胸には、そんな思いばかりが絶えず生まれてはあぶくのように消えていく。

 今野が好きだった。
 いなくなっても、それは変わらなかった。

「カズマ……」



 胸の痛みとともに目を覚ますと、不思議そうな顔でニギホシが荒瀬を覗き込んでいた。

「トーマ、どうして俺の花嫁の名前を知ってるの?」

 夢を見ていた。今野の夢だ。荒瀬が呼んだのは、今野の名だ。

「はな、よめ?」
「カズマは、俺の、初めての花嫁。俺のところに落ちてきた、花嫁」

 ニギホシが花嫁は全て食べたと言ったのを思い出して、荒瀬の胸は急激に冷えていく。

「あいつを、和磨を、食ったのか」

 荒瀬の問いに、ニギホシは何の迷いもなく頷く。

「うん、食った」
「どうして」
「カズマは、白くて、きれぇで、かあいくて、それからやらかくて、おいしそうだったから」

 うっとりとしたニギホシの声は続いた。

「カズマはおいしかった。他の誰よりもおいしかった。甘くて、全部甘くて」

 赤い瞳が蕩けた。

「俺とカズマはそっくりだった。みんなと同じになれない、はみ出し者。カズマは金の卵を、産んでくれた。たくさん、俺の精を飲んで、花嫁になった。卵も産んだ。それで、俺とひとつになった」

 溶け出しそうな赤い瞳で、ニギホシは荒瀬を見た。
 荒瀬は呆然とニギホシを見つめた。

「どうして」

 呟きのような、独り言のような、力無い声が漏れた。

「カズマは、俺の大切な、特別な」
「あは、俺と一緒だ」

 ニギホシが笑う。

「俺も、カズマはたいせつで、とくべつだった。なのに、食べちゃった」

 ニギホシの笑みは、悲しげに歪んだ。

「カズマは、トーマの、シンユウで、大切なものだった?」

 ニギホシは首を傾げた。

「ごめんね、トーマ」

 この気持ちを、どうしたらいいのだろう。
 喉奥が引き攣る。視界がぼやけて、目が熱を持っている。涙が溢れていた。

「トーマ、泣いてるの」

 言われて、涙が零れたのがわかった。溢れた涙は、海の水に滲んで消えた。

「泣かないで。ごめんね、トーマ」

 あやすように、ニギホシの大きな手のひらが頬を撫でる。
 ニギホシの温もりの薄い手のひらは、無垢で優しかった。

 自分にできることはもう何もない。あいつにはもうどう足掻いても会えない。
 大切で特別な人間を食った人ならざるものへ、怒ればいいのか悲しめばいいのか、憎めばいいのか。何もわからなかった。

 ただ胸の奥がざわめいている。
 今野を食ったと聞いても、殺してやろうとか、傷つけてやろうとか、そんな気持ちはかけらも生まれない。
 ニギホシを責める気持ちも生まれなかった。

 本当に、今野とひとつになったのなら、ニギホシを助けたら、今野も助けられるのではないか。
 そう思った途端に荒瀬の心は凪いだ。

 甘やかな妄執が荒瀬を絡め取ったことを、荒瀬は知らない。

「いいよ、ニギホシ。あいつの分まで、お前を救ってやる」

 そうは言ったが、救える自信はない。だめでも、一緒に死んでやることはできる。
 泡になるのは、痛いだろうかと考える荒瀬の耳に、また、海鳴りが聞こえた。



 それから、荒瀬はニギホシに抱かれ続けた。

 時の流れのわからない薄暗い洞窟で、目覚めては抱かれ、意識を失うまで絶頂を繰り返した。
 もう陸に戻れなくていい。今野はもうニギホシとひとつになってしまった。

「ニギホシ」

 ニギホシを、今野を救いたい。その身が、その心が、妄執に雁字搦めになっていることに荒瀬は気がついていない。
 花嫁になって、卵を産んで、それで、ニギホシが、今野が救われるのなら、そうしたい。
 その想いだけが、荒瀬を突き動かしていた。

「あは、うれしい、とおま、おなか、あつくて、きもちいい。いっぱいでちゃう」

 深い海の色の身体の下に閉じ込められ、腹の奥までニギホシを受け入れて、揺すられる。
 排泄のための器官だと思っていた場所は、ニギホシを受け入れ、快感を生む器官へと変わり果てていた。

「んあ、にぎ、ぉし」

 どこまで入っているのかわからない。腹の中全体が気持ちいい。はらわたを掻き回されるみたいなのに、気持ちよくて仕方なかった。中にはもう何度も精を注がれて、腹はうっすらと膨らんでいた。

「ほら、トーマのお腹が、花嫁の胎になるよ」

 腹いっぱいに注がれた温もりの薄い精を掻き回されて、腹の熱が馴染んでいくのがわかる。

「あ、う」

 熱を帯びた腹の中は歓喜するように震えている。

「トーマも、カズマみたいにたくさん産んでね」
「ひ、あ、ア」

 長くて、大きな、人のそれとは違うニギホシの性器。それが、腹のずっと深い場所に届いている。
 それは脈打ち、また温もりの薄いものを吐いて、腹が満たされていく。
 熱く疼く胎。変わっていく、胎。

「あはは、トーマの温もりが馴染んできた」

 ニギホシが喜んでいる。その声に、荒瀬の胸には温かなものが生まれる。

「あったかい。もうすぐ、もうすぐだよ、トーマ」

 ニギホシに揺すられ、腹の中を掻き混ぜられている。目の前は何度も白く眩く弾けて、脚は勝手に跳ねて、身体には力が入らない。

「おれ、食べないようにがんばるから、トーマ、ずっと、俺の花嫁でいてね」

 荒瀬は笑った。
 荒瀬の肌に、紺色の紋様が浮かぶ。
 幾何学模様で構成された紋様は、荒瀬の身体全体に刺青のように浮かんで、すぐに消えた。

「あは、花嫁の証しだ」

 ニギホシの指先が、紋様の消えた肌を這う。

「うれしい。おれの花嫁だ。トーマ、おれの花嫁」

 ニギホシが喜んでいる。
 ひどく満たされた気持ちになって、荒瀬は意識を手放した。
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