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祝福

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 金曜午前にある授業は二限のゼミだけだった。
 教室には真山が一番乗りで、まだ誰の姿も見えない。真山は照明のスイッチを入れてから席に向かった。

 桐野に送り迎えしてもらうようになってから、遅刻や時間ギリギリになるようなことはまだない。
 羽織ってきたジャケットを脱いで席に着く。今日は天気も良く、カットソーとチノパンだけでも十分な気温だった。ジャケットは要らなかったかなと思っていると背後から声が掛かった。

「おはよ、真山。久しぶり」
「北野、おはよ」

 振り返ると、見慣れた姿があった。真山に声をかけたのは、同じゼミの北野だった。
 ツーブロックの黒髪は緩いパーマがかかり、厚めの前髪は眉下の長さで整えられている。奥二重の瞼に焦茶の瞳。ベータながら、男前という表現が似合う整った顔立ちをしている。
 背丈は真山ほどではないが一八〇はある。細身の体躯で、今日はプルオーバーパーカーにハーフパンツとレギンス、スニーカーという軽やかな出立ちだった。
 北野は真山の隣に座ると人好きのする笑みを浮かべた。

「聞いたぜ。お前、最近高級車の送迎付きなんだって?」

 北野の口から出た言葉に、真山は目を見開いた。飲み物でも口に含んでいたら吹き出していただろう。
 大学の前では目立つからと駅で乗り降りしているのに、まさか北野にも知られているとは思わなかった。

「は、誰情報だよ」
「内緒」

 北野は真山を揶揄うように悪戯ぽく笑う。言わないでいた自分も悪いとは思うが、真山はなんとなくばつが悪くて北野を睨む。

「お前……」
「そんな顔すんなって。とうとういい感じのアルファ様でも捕まえたのか?」

 北野はにやりと笑う。何もかも見透かされたみたいでなんだか居心地が悪かった。

「まあ、そんなとこ」

 さすがに同居までしていることを話すのは少し気が引けて、真山は言葉を濁す。こんなに早く同居することになるなんて真山も想定外だった。

「なんだよ、早く言えよそういう大事なことは。まあなんにせよ、よかったな」

 北野は優しく笑う。やっとアルファを捕まえた真山の幸せを純粋に喜んでいるようだった。
 北野はベータだ。大学に入ってからの付き合いではあるが、周りにいる中では一番付き合いが長い。
 北野は真山の性癖も知っているし、ベータと偽ってアルファの相手探しをしていたことも知っている。
 春休みの間はなんとなく連絡をする用もなくて何も知らせていなかったのだが、北野はそれを怒っているふうでもなかった。

「写真は?」
「ない」

 北野に言われて、そういえば撮っていないのを思い出す。桐野は撮らせてくれるだろうか。ああ、でも撮ったら緊張しそうだなと思って頬が緩む。
 真山の緩んだ顔を見て何か勘違いしたのか、北野は悪戯な笑みを浮かべた。

「で、爛れた生活してんの?」

 北野も健全な年頃の男子だ。そういうことは当然気になるのだろう。
 しかし、残念ながら北野の期待しているようなことは何もない。キスはするが、一日セックス漬けになるようなことは一度もなかった。毎日日付けが変わる頃にベッドに入り、朝は決まった時間に桐野が起こしてくれる。

「いや、めちゃくちゃ規則正しい」

 真山が答えると北野は笑った。そんなことはそうそうないとわかっているようだった。

「まあ、単位落とすよりは良いよな」
「まあな」
「お前、そのうちオメガになったりすんのか?」

 北野に言われて、真山は考え込む。時々考えはするが、あまりに現実的だとは思えなかった。アルファがオメガになるなんてインターネット上で聞き齧った話しか知らないが、そんなことが可能なのか、真山はまだ信じられなかった。都市伝説の類いだと思いながらも、いつかオメガになれたらと期待している自分もいる。

「どうだろうな」

 曖昧に答えて、真山はふと思い出す。
 爛れた生活はしていないが、セックスに関しては真山から誘ったことしかない。回数だって、同居が始まって二週間ほど経つが、今のところ一度だけだ。

 出会い方が身体先行だったのは仕方ないとはいえ、本当は桐野はセックスなんてしたくないのかもと思ってしまった。
 途端に胸の辺りを冷たいものが吹き抜け、心臓がざわつく。
 専属契約をしてくれたから、嫌いなわけじゃないはずだと慌てて自分に言い聞かせる。
 不意にやってきた寂しさに、真山の表情は少しだけ曇った。

 北野はそれには気がついていないようで、薄く笑った横顔が目に入った。

「なんか、お前が幸せそうでよかった」

 その横顔と言葉に少し救われた。ささやかな祝福の言葉は優しく胸に染み込んで、吹き込んだ隙間風を払ってくれた。

「ありがと」
「今度紹介しろよ」
「そのうちな」

 桐野を紹介したらどうなるだろう。北野を前にして桐野の緊張する顔が目に浮かぶようだった。
 そんな会話をしているうちに他の学生が入ってきてその話はそこでおしまいになった。
 程なくして教授がやってきて、授業が始まった。
 授業が始まってからも、真山の心の隅にはいつまでも桐野のことが残っていた。

 一度生まれた疑念は簡単には消えない。
 桐野は本当は自分とセックスなんてしたくないんじゃないか。本当は、やっぱりオメガの方がいいんじゃないか。
 授業の間ずっと、そんな考えが頭の中をぐるぐると巡っていた。
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