南部の通詞侍

不来方久遠

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ニ 過去

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〝ビュウビュウ〟
 荒涼とした最北の大地に、風が渡っていった。
 本州と津軽海峡を隔て、魚のエイが泳ぐような形の島は蝦夷地と呼ばれた。
 国書『日本書紀』には、阿倍比羅夫の遠征時に越渡島の名で記された。
 平安時代末期には蝦夷ヶ千島、または蝦夷ヶ島とも呼ばれた。
 降雪のように雪虫が風になびいた。
 エゾシカが狼に喉を食いちぎられていた。
 そんな人里離れた所にぽつんと、チセと呼ばれる一戸の小屋があった。
 つららが軒先に垂れ下がっていた。
 人が住んでいるかは、素通しの窓からゆらゆらと洩れている煙の様子で知れた。
 その小屋を、ぎらついた眼で見ている者どもがいた。
 腹をすかせた屈強な体躯の三人の男達であった。
 本州から流れて来た一旗組などと呼ばれた素行不良の和人だった。
 所々破れた簡素な鎧を身に着けたその不埒な奴等は、小屋にそっと近づき獲物
を狙う狼のような血走った眼光で手には刀を持っていた。
 入口に垂らされたすだれを、男の一人が刀で斬り捨てた。
 髪を結い、透き通るような白肌で腕に小さな刺青をした若く美しい女が、ルイ
ベと呼ばれる鮭料理をしていた。
 サクイベ又はシャケンベが語源のシャケ(鮭)は、カムイチェプ(神の魚)で
あった。
 炊事用のヘラのスケベラで、オハウと言われる汁の味見をしようとしている時
だった。
「っ」
 女が振り向いて、二人の男達を見て驚いた。
「さすがに、アイヌの女は肌が白いや」
 男の一人が、下卑た物言いをした。
 男達の身なりと言葉遣いから、土地の者ではない事は女にも分かった。
 女はとっさに裏口から逃げようとしたが、そこには別の男が待ち受けていた。
「お前達、何しに来たっ」
 女が、アイヌ語で叫んだ。
「うまい鮭だ」
 頭目が、女が今こしらえていた焼魚をまるかじりにして頬張りながら言った。
 他の二人も、鍋にある汁を飲み散らかした。
「出て行け」
 女は、そばにあったマキリ(山刀)を手に取った。
 男達は、簡単に女の細腕をつかんで山刀を取り上げた。
 執拗に抵抗する女を、男達が二人がかりで取り押さえた。
 女は両手を縄で万歳をするように縛られ、更に大の字に開脚させられた。
 伝承によれば、ハレニレは自身の皮で着物を作り、アイヌの祖アイヌラックル
に着せたと言う。
 ハレニレの樹皮から作った衣服でアイヌの代表的な織物のアツシ(厚司)は、
主に近縁のオヒョウから編んだ。
 鮭をかじっていた頭目が、女のアツシを引き千切った。
「何をする。やめろ」
 女が、叫んだ。
 ごくりと、頭目は鮭を飲み込むと女に近寄った。
「やめろっ」
 女は凌辱を受けた。
 最初の男が終わり、次の男が悪逆な暴行した。
 嬲りものにされ、三人目の性欲が満たされる頃には、女はぐったりしておとな
しくなっていた。
「ようし。それでは、仕上げといくか」
 三人の男達は、それぞれ放心したようになっている女に向って放尿した。
「おい、どうする。このあま」
 男の一人が、汁物をすすりながら聞いた。
「俺らの顔を、見られたぞ」
 もう一人が言った。
 頭目が、無言で刀を振りかざした。
 その時だった。
 シャケの皮で作られたケリと呼ぶ沓を履き、鹿の毛皮を着た一人の目元の凛々
しい十二歳位になるアイヌの少年が狩りから帰って来た。
 獲ったエゾクロテンを背負った少年の眼に、暴行された母親の惨めな姿が映っ
た。
「ハポっ」
 母さんという意味の言葉を、少年が叫んだ。
 狼藉を働いた男達が、一斉に少年を見た。
「サンクス、逃げなさい」
 母親が、振り絞るような声で我が子のあだ名を言った。
「うるさい」
 頭目は、母親を蹴飛ばした。
「うわああああ」
 我を忘れてわめきながらサンクスは、頭目に飛びかかった。
 刀を、頭目は振りかざした。
 獣のような敏捷な動きで、サンクスが刀をかわした。
「この餓鬼っ」
 残りの二人も、サンクスを追い回した。
 しかし、狭い小屋の中ではそう逃げられるはずもなく、サンクスは竃の端に追
い詰められた。
 人の血を吸った刃には、血糊が漆碗のように厚く上塗りされていた。
 そのアイヌの血錆が付いた刀が、サンクスの顔面に迫ってきた。
「イナウよ。サンクス」
 母親が名を呼び、目配せで神を祀る祭壇を見た。
 男が、サンクスの喉元に刀を突いた瞬間だった。
 サンクスは垂直に飛び上がり、鴨居を握ると軽やかに空中で体重移動をして、
北の方角の天井近くに祀ってある神棚をまさぐった。
 祭壇にニポポが鎮座していた。
 八角形の胴を持つ一刀彫の木人形で、願いを叶えるとされるアイヌの神様であ
った。
 これら一連の動作は、目にも止まらぬ速さだった。
 男の刀は、サンクスの動きを追うように空を斬った。
 ニポポの前に、イクパスイと称されるカムイ(神)や先祖に酒を捧げる際に用
いる酒べらが置かれていた。
 そして、緑色の翡翠から作られた勾玉の首飾りに護られるようにして、それが
あった。
 サンクスの手には、柄や鞘も山の木で作られ、丁寧なアイヌ模様が細かく彫刻
されている一振りの刀、エムシが握られていた。
「アイヌの子わっぱめ」
 他の男も抜刀し、サンクスに斬りかかった。
 サンクスが風のようにひらりとかわしたと同時に鞘が抜かれ、柄と刀身が一体
となったその剣は、すれ違いざまに白刃一閃して舞うように男の首を削いだ。
 生首が転がり、どっと血ふぶきが飛んだ。
 返り血を浴びて、サンクスの顔が鮮血に染まった。
 相手を殺した。
 初めて、サンクスが人を斬った瞬間であった。
 首を失った男の身体は筋肉の条件反射が残っていて、まだ起き上がろうとぴく
ぴくと動いた。
「もう、容赦しねえ」
 もう一人もサンクスに斬りかかったが、瞬時にして刀ごと右腕を切断された。
「うぎゃあ」
 悲鳴を上げる頃には腹もえぐられ、絶命していた。
 最後に残った頭目は、サンクスの母親に刀を突き付けて人質に捕った。
「それ以上近づくと、この女の喉をかっ斬るぞ」
 サンクスは、じりじりと間合いをはかった。
 頭目が、母親の喉元に刃をぐっと押し付けた。
 すうっと、一筋の血が流れた。
「うおぉぉぉぉっ」
 髪を逆立てて、サンクスが雄叫びを上げた。
 その声量の大きさに、窓外に見える原野では椋鳥の群れが羽ばたき、野生馬が
遠く逃げて行った。
 頭目も一瞬、気を取られた。
 その間隙をぬって、サンクスが握っていた剣ごと飛びかかった。
「ぐわあ」
 サンクスの剣が左胸を貫き、頭目が事切れた。
「サンクス」
 母親は、虫の息だった。
「ハポ」
 母さん。
 サンクスは、肩で息をする母の首筋から大量に流れ出る血を、止めようとする
かのように傷口を舐めながら手を握った。
「ごほっ」
 母が、血を吐いた。
「ハポっ」
 サンクスは、叫んだ。
「サン、クス」
 意識が遠のいて、声を出すのも苦しい母であった。
「ハポ」
 起こすようにサンクスは、呼んだ。
「サンクス、これからは一人よ。強く生きなさい」
 母は最後の力を振り絞りながら、そう言葉を残して息をひきとった。
「ハポォォォっ」
 幼名サンクス、今はシャクシャインと呼ばれる巨漢は首にかけた翡翠の飾りを
ぐっと握り締めながら自身の絶叫で目覚めた。
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