余孽之剣 日緋色金─発動篇─

不来方久遠

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アザマロ譚

三 呪

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 平城京。
 碁盤の目のように区画された鳥瞰図が、大和の国に広がっていた。
 天皇が居住する内裏の中心部に、紫宸殿が存在する。
 〝紫〟は紫微星で天帝の居所、〝宸〟は天子の居所を顕わして、この世を統べ
る者が存在する場所という意味である。
 元日の朝、天皇が親しく天地四方・山陵を遥拝し、五穀豊穣を祈る四方拝や大
臣以外の諸官職を任命する儀式の除目といった公事の行なわれた九間四面、内裏
の中央に南面して設けられた正殿である。
 四方拝は旧暦一月一日の寅の刻に、黄櫨染御袍という黄色の朝服を着用した天
皇が、清涼殿の東庭で北に向かって祈る。
 その際、陰陽道による誕生年によって定める北斗七星の中の一つで、その人の
運命を司る命運星である属性を拝する。
 次に、天を拝し、西北に向かって地を拝し、それから四方を拝して、山陵を拝
する。
 千年を隔てた現代においても、この儀式だけは天皇自らが、宮中で厳格に執り
行っている。
 四方に庇があり、北庇から通じた廓を渡って、光仁帝が西にある清涼殿に歩い
て来た。
 九間四方東向きの清涼殿の中にある、石灰の壇・昼の御座・夜の御殿・弘徽殿
の上の御局・萩の戸・藤壺の上の御局・朝餉の間・台盤所等を通過して、殿上人
の詰所である殿上の間に向かった。
 殿上の間では雲客とも呼ばれ、殿上人である参議達が朝議を待っていた。
 降ろされた御簾越しに帝が座すと、檜扇を手にして衣冠束帯に正装した参議達
が拝礼した。
 帝が、調査官である軍監の報告した巻物を、冠を動かさずに読み終えた。
「裏切ったアザマロの処罰のほどは?」
 指導的な立場にある、老獪な古老の参議の藤原小黒麻呂が物申した。
「朕が差し向けた将軍を殺め、国府を焼き払うは言語道断。エミシなど根絶やし
にして、陸奥に眠る全ての金を獲って参れ」
 帝は、開いた扇子で口元を隠しながら居並ぶ参議達を前にしてのたまった。
「獣の如く神出鬼没で、その所在は、まるで
雲をつかむが如く……」
 若い参議は、困惑げに返答した。
「なれば、獣に戻してしまえばよかろう」
 そう言って小黒麻呂は、若輩の参議をたしなめた。
 他の参議達は、大過なく朝議を終わらせたいので沈黙を保っていた。
「一つ、考えがござりまする」
 清涼殿の邸の外に控えて白装束に身を包んだ陰陽博士に、小黒麻呂が目配せし
た。
「この者に、逆賊エミシの居場所を探らせて、術をかけまする」
 陰陽博士の手には、陸奥に派遣させた陰陽師から入手した、アザマロの血が溶
けたナギの黒髪が握られていた。
「解った。新たに将軍を立てて、三千の兵を付ける故、良きに計らえ」
 パチンと扇子を閉じると、帝が清涼殿を退出した。
「はは─」
 参議達が、平身低頭した。

 陰陽寮。
 壬申の乱で皇位を奪取した天武帝が、崇りを怖れて設けたと云われている。
 天意を伺う役目を負った機関が陰陽寮であり、天皇に天意を伝える役職である
天文博士が伺い、天文密奏によって直接、天皇に報告奏上する。
 北極星を意味する天の支配者である天皇大帝は、天の命を受けた者であり、天
命を受けたればこそ帝位を保証されているのだ。
 それゆえ、常に天意を伺う必要があった。
 八省の一つである中務省は、中宮職と三司の他に六寮を支配しており、その一
つに属する陰陽寮とは、陰陽頭を長とする事務官と技術官を置いた役所である。
 事務官には、助・允・大属・少属の各一人。
 技術官には、陰陽博士を長として、陰陽師六人・陰陽生十人・暦博士一人・暦
生十人・天文博士一人・天文生十人・漏刻博士一人・辰丁十人・使部二十人・直
丁三人の総勢八十名近い所帯であった。
 風一つ無い、満月の晩だった。
 草木も眠る丑三つ時に、縦横いずれの行の数字も、それぞれの和が等しくなる
ように並べられた魔方陣を使って、その儀式が行なわれていた。
 数人の陰陽師達を従えた陰陽博士が、式占いを行なうための専用具である式盤
の前に鎮座していた。
 “天円地方”を具現化した式盤とは、方形の台の上に回転する球面を重ねて、
その整合を観る事で運勢を試すものであり、呪術に用いられた。
 下部の方形の地盤には、方位や太陽の軌道を表わす黄道に沿って、月が地球を
一周する28数に星を区分した二十八宿・八卦・十干十二支等が、上部の球面の
天盤には、薬師如来の眷属で仏法を守護する十二神将・十干十二支等が、それぞ
れに刻まれている。
 クルクルと、回転する天盤の球面に、地盤上の方位や描かれた星・時・干支等
の図柄が妖しげに投影されている。
 東の空高く浮かぶ満月が、欠け出した。
 陰陽博士は、邪気を払い除くため、足で地を踏みしめる反閇をしながらまじな
った。
 反閇は、敵から憎まれるほど強い者である醜を踏むという意味がある。
 力士が片方ずつ脚を高く上げては強く踏み、立ち合いの準備運動をする大相撲
の四股踏みの動作に、その名残を見る事ができる。
 全ての事物は陰陽二つの消長に基づくという考え方による易経は、積み木風の
小さな角棒を用いた算木と五十本の竹製の細くて平たい棒の筮竹とを使って、物
事の吉凶を判断した。
 その原理を応用した八卦は、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の八つが自然界、
人間界のあらゆる現象を示した。
 八卦良いという掛け声や四股踏み等、随所に国家神道に通じる陰陽道の所作を
盛り込んだ大相撲が、数多ある格闘武術の中でも信認され、国技の如く人口に膾
炙する所以である。
 地盤の方位が北を向いて、戌の干支を指した。
 天盤の球の回転が止まり、東位置の酉の干支部分と交錯した。釈迦入滅の際、
十二種類(鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鶏・犬・猪)の動物が、危篤
を案じて参集したと謂われる。
 その方位・時刻・年月日を表わした十二支と、木・火・土・金・水の五元素か
ら成る五行を、兄(エ)と弟(ト)に分けた十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚
・辛・壬・葵)との最小公倍数六十を一巡すると元に戻る。
 六十歳を還暦とする理由もここにあり、これらの組み合わせを駆使して運勢が
計られる。
 ユラユラと、天文と数学を巧みに駆使した魔方陣に、狼と鷹の幻影が映し出さ
れる。
 陰陽道において、命令を受けて妖術のために働くという式神の憑代に、生き霊
が宿った。
「ケダモノが憑きし血。それと交わる黒髪の女ともども、闇夜に帰るがいい」
 陰陽博士は、残されたアザマロの血に塗れたナギの黒髪を用いた憑代に語りか
けた。
「賊寇之中過度我身」
「毒魔之中過度我身」
「毒気之中過度我身」
「毀厄之中過度我身」
「五鬼六害之中過度我身」
「五兵口舌之中過度我身」
「厭魅咒詛之中過度我身」
「百病除癒」
「所欲随心」
「急々如律令」
 相手に禍を与え、自身が呪い返されないための陰陽道独特の呪文を唱えて、急
ぎ律令の如く厳しくせよという意味の結びの語で締めた。
 古代インドの梵語から成る中国の呪禁道から派生した陰陽道は、梵字を漢字の
音に借りて表わした。
 この時、羅刹が現れた。
 仏教には、最悪で恐ろしいという意味を指す羅刹という梵語の音訳がある。
 体は黒く、赤い髪に青い目で、獣のような牙と雁のような爪を持ち、空中を飛
び回りながら素早い動作の大力で人を食うという魔物である。
 呪術を使う時、魔界への扉が開くのである。
「双方とも死ぬまで、また、日輪がこの世から無くならぬ限り、この術は未来永
劫解けぬ」
 冷静を装った陰陽博士は、空中に指を縦に四線、横に五線を引いた九字を切っ
て印を結んだ。
「獣になりて、共に喰らい合うがよい」
 陰陽博士が魔境を閉じて後、呟いた。
 月が完全に消え失せて、漆黒の闇夜になっていた。

 暮れなずむ春の日に、移ろっていく季節だった。
 アザマロとナギは、多賀城から離れて追っ手を逃れるようにして、深山に入っ
ていた。
 海抜千メートルを越すひっそりとした場所に、湖があった。
 かつて火山の大爆発でできた、大きな円形の窪地に雨水等が貯まり、それが湖
になったカルデラ湖である。
 夏は満々と水をたたえる湖面は、春まだ浅い夜更けの凍てつく氷点下の山の気
温により氷結していた。
 氷に乱反射して映っていた、月の光が消えた。
 皆既月蝕によって、漆黒の闇夜になった。
 その時だった。
 身体に異変を感じたアザマロは、剣を持ち出すとナギを置き去りにして、野山
を走り出した。
 剣を持ってきたのは、説明の付かない何かに襲われるような感覚があったから
だった。
 手足に長い獣のような尨毛が生えてきて、全身毛むくじゃらになっていった。
 ピンと耳が尖り、その耳まで裂けた口からは牙が剥き出した。
 いつしかアザマロは、二足歩行から四つ足で駆け出していて、自分という意識
すら失っていた。
 狼と化したアザマロは、もはやただの獣でしかなかった。
 狼は、暗闇の深い森の中を当て所も無く走り回った。
 アザマロを追って、ナギは落ちていた剣を拾った。
 寒さに震える狼は、体を温めるために木にぶつかりながらもひたすらに走った。
 どれぐらい駈けずり回ったろうか……喉の渇きを覚えた。
 クンクンと、辺りを嗅いで水の匂いを探した。
 暗闇の中、慣れない不安定な足取りの狼が、氷で固まった湖を滑りながらも長
い舌で、氷を舐めて水分補給をした。
 急に、足下の氷が割れて、狼が厳寒の湖水に落ちてしまった。
 湖面の真ん中辺りは、氷が薄くなっているのが分からなかったのだ。
 ナギは、夜空を見上げた。
 月が再び、光を放ち出していた。
 パシャパシャと、水を叩く音が聞こえた。
 僅かに洩れる月明りに、溺れている狼が見える。
 その獣がアザマロであると思ったのは、連れ添った女の勘であった。
 ナギは、凍った湖面に注意をはらいながら狼に近付いて、剣を差し出した。
 爛々と両眼を光らせて、狼が剣にかぶり付いた。
 牙が、月に映えた。
 ナギは、腹這いになりながらゆっくりと、狼ごと剣を手繰り寄せた。
 狼は自分の身に何が起きているのかも分からずに、ただ闇雲に足をバタつかせ
てもがくだけで埒があかなかった。
 ナギは、夢中で狼に寒さでかじかんだ手を差し出した。
「コワガンナ。テッコタモヅケ(怖がらないで。手をつかみなさい)」
 土地の言葉が、自然にナギの口から発せられた。
 藁をもつかむ状態で慌てふためく狼の鋭い爪で傷だらけになりながらも、ナギ
が救いの手を懸命に差し伸べた。
 陸奥の蝦夷の中でも岩手地方の方言には、手っこ・酒っこ等のように名詞の語
尾に“こ”を付けて表現を柔らかくする傾向がある。
 これは、穏やかな物言いを好む人柄を表出した言葉遣いであり、優しい音で話
される言の葉の音域には動物がよく懐くものである。
 ナギの手を借りて、やっとの事で狼が何とか氷上に這い上がり、ブルブルッと
体を震わせて水気を掃った。
 〝ガルル〟
 狼が、人間であるナギを警戒して唸り声を発しながらナギの右腕に噛み付いた。
 ナギは、むしろ狼に身体を預けるようにして黙っていた。
 狼は噛むのを止めて、流れるナギの血を舐めた後、納得したかのように頭を垂
れた。
 ナギが、不思議な形をした剣を拾い上げて、大事そうに胸に抱いた。
 剣が二人を再び、引き合わせたのだから…
 満月に戻った月が、西の地平線に沈んでいった。

 半刻の間、消えていた月が再び、ゆっくりと現れてきた。
 憑代に使用した血染めの髪の式神が、業火のように燃やされた。
「依然、陸奥に獣となって潜伏しておると」
 呪術を終えた陰陽博士の説明に、松明をかざしながら小黒麻呂が聞き返した。
「かの地は鬼の巣窟。引き続き、この者を同行させて探させます」
 陰陽博士は、隣に控えた陰陽師を見ながら答えた。
 アザマロの血に塗れたナギの黒髪を、伊治城から持ち帰った陰陽師であった。
「うむ」
 小黒麻呂は、頷いた。
「ただ、呪詛返しが強く、完全な獣にはできず、半分は人、半分は獣の半獣半人
となっているかもしれませぬ」
 陰陽博士は、神妙な面持ちで言った。
 呪詛の術を用いる者は、同じだけ魔界からの力を受け止める技量を持たなくて
は務まらないのだ。
 術が不完全に終わったとしても、深入りは禁物であった。
 無闇に使えば、自身が鬼に捕り込まれて、ミイラ捕りがミイラになるだけであ
る。
「であれば、人からも獣からも受け入れられず、孤立無援という事であろう。逆
に、好都合というものだ」
 小黒麻呂は、一人ごちた。
 満月が清涼殿の建物に隠れて、辺りが白んできた。

 原野。
 山頂に雪を戴いた尾根伝いに、後光のように朝陽が洩れてくる。陽の光を浴び
て、一瞬にしてナギが鷹の姿に豹変した。
 〝ピー〟
 と、一声鳴いて大空から一連の鷹が、地上に急降下した。
 〝ワオォォォォン〟
 草むらから背を丸めて態勢を低くした狼が現れて、鷹に近付いた。
 日輪が、二つの獣を優しく包み込んだ。
 野獣どもの瞳が、男と女の眼差しに、一瞬間だけ交錯した。
 アザマロが、四つ足の動物から人間の姿に戻っていった。
 狼でいた時の記憶は無かった。
 鷹が舞い降りて、アザマロの右手の指を強く噛んだ。
 鷹の首には、緑色の勾玉が巻かれてあった。
 アザマロは、その鷹がナギであると確信した。
 鷹に噛まれて流血したが、アザマロは痛みに耐えながらジッとしていた。
 血を舐めて安心したのか、おとなしくなった鷹はアザマロの左肩に止まり、羽
づくろいを始めた。
 何故、ヒトがケダモノになるのかは分からない。
 狼に育てられた自分なら、或いは有り得るかもしれない。
 しかし、どうしてナギが猛禽類になったのか…狼の乳を呑んだ者とまぐわった
からなのか? 
 そんなナギに対して、アザマロは愛情と共に同情を感じていた。
 昼は鷹、夜は狼……一匹の獣と一人のヒトとに分かれた、流浪の旅が始まった
……
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