余孽之剣 日緋色金─発動篇─

不来方久遠

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アザマロ譚

四 マヨイガ

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 勿来の関。
 東北と関東との境界である。
 〝蝦夷勿来(エミシよ、これより先に来るなかれ)〟という意味から、この名
が付いたとされている。
 上代においては、白河の関の異称とも云われた陸奥と東国の境界線であり、蝦
夷の侵入の防御線であるその関所を越えて、朝廷軍三千が多賀城に向かっていた。
 逆賊アザマロの人相書きが、お尋ね者として人の集まる場所に張り出された。
 かつては俘囚長をも務めたアザマロは、一転して追われる身となっていた。
 アザマロは、日中は人として鷹を肩に乗せて守り、夜中は狼として番犬のよう
にナギに付き従って外敵を遠ざけた。
 より安全な場所を求めて、鍾乳洞に潜り住んだ。
 迷路のように入り組んだ地下道が、地底深くどこまでも続いていた。
 そこは地元の民でも、滅多に足を踏み入れる事はなかった。
 入ったら、再び生きて外には出られないと云われていたからだ。
 二人は、翡翠のような鮮やかな濃緑色の地底湖近くに、人知れず越冬用の食糧
と薪を持ち込んで、そこで冬の終わりを凌いだ。
 洞窟の中は一定の温度に保たれ、冬でも地底湖の水は凍らなかったので、生命
の源である飲み水には事欠かなかった。

 ふきのとうが芽吹き、たくさんのものが生まれて花盛りになるという弥生の頃
だった。
 厳しい北の冬が過ぎ、春の雪融けの季節になっていた。
 朝廷軍の新しい征東大使が、陸奥に赴任してきた。
 大宝令で定められた国政を処理する太政官の次官である中納言で、従三位の肩
書きを持つ藤原継縄が将軍職に就いた。
「将軍! こやつがアザマロを見たと」
 新将軍が伊治城に着くと、側近が一人の夷俘を連れて来た。
 その夷俘は、新しく着任してきた将軍にいち早く取り入って、褒賞を得ようと
いう魂胆であった。
「奴の潜んでいる場所に案内せい。褒美はその後だ」
 ぴしゃりと継縄が、釘を差した。
「ヤマサヘッタベドモ。ユギッコクルガモスンネェ、アブネジャ」
 天を仰ぎながら夷俘は、地元の言葉で話した。
「山に逃げたと思う。だが、雪になりそうなので、今夜は危ないと言っておりま
す」
 気を利かせて、側近が通訳した。
 自然と共に生きる蝦夷には、微妙な天候を読む才が備わっていた。
「多少の雪など構わぬ。早々に決着を付けようぞ」
 継縄は、確たる戦略も無いまま安易に、副将軍の紀古佐美に命令した。
 前将軍を殺したアザマロの首さえあれば、昇進と共に帰京できる。
 帝の命により、やむなくはるばる陸奥まで来たものの、野蛮人が棲む辺境の地
からできるだけ早く引き上げたいと継縄は考えていた。

 鷹が獲物を探して、上空に円を描きながら旋回している。
 そこは幅が狭くて、両岸が険しい崖になっている谷間の続く峡谷だった。
 人の視力では到底、確認できない遠距離に、朝廷軍の兵が行軍していた。
 アザマロは、知っていた。夷俘が朝廷軍に自分の居場所を密告した事を。
 どうせ追われる身ならば、逆に利用して待ち伏せしたのだった。
 先んじて叩いておかなければ、図に乗った朝廷軍は、陸奥奥地まで際限無く侵
攻してくる。
 適当な所で食い止めなくてはならない。
 かつての自分とは、全く正反対の立場で戦う事になった。
 〝ピー〟
 と、一声鳴いて鷹は急降下すると、筋骨隆々としたアザマロの左肩に止まった。
 アザマロは、まだ見えぬ敵の気配を鷹が感じ取ったのだと理解した。
 しばらくして、総勢三千名の軍勢が、整然と迫って来た。
 高い丘から息を殺しながらアザマロは、草木の汁を塗りたくった顔面から鋭い
眼光を覗かせて、朝廷軍が通り過ぎて行くのをジッと見下ろして待った。
 四半刻を過ぎた頃に、ようやく、その本隊が見えてきた。
 肩に鷹を載せたアザマロは、朝廷軍と対峙した。
 そして、牛車の周りを囲む兵に向けて、コロを使って岩の塊を落とし込んだ。
 戦闘が始まった。
 轟音を立てながら多量の落下してきた岩塊が、兵達を押し潰して狭い山間の道
を塞いだ。
 朝廷軍の兵達は、何が起きているのかをまだ、理解できていなかった。
 アザマロの肩から、鷹が飛び立った。
 同時に、ムササビのように林の中を、アザマロが木々を飛び越して行った。
 あっという間に、朝廷軍の先頭に追い着いたアザマロは、松脂の塗られた大量
の貯木が積まれた場所に移動していた。
 再び、鷹がアザマロの肩に止まった。
 テコの原理で、一斉に横積みの木々を解き放った。
「敵襲! エミシが襲って来たぞッ」
 ようやく、気付いた兵の一人が叫んだ。
「将軍を、御守りするのだ」
 副将軍の紀古佐美は、臨戦態勢を敷かせた。
 屈強な選りすぐりの兵達に囲まれながら将軍継縄は、驚愕していた。
 まさか、白昼堂々と討伐する側である帝の正規軍が襲われるとは、予想だにし
ていなかった。
「アザマロかッ! 敵の数は?」
 副将が、聞いた。
「不明です」
 側近は、自身なげに答えた。
 丘の上からアザマロが、力強い膂力で連続して火矢を放った。
 狭い山道に転がった大木群に、火が燃え移った。
 松脂の塗られた大木は、一瞬にして炎となり、朝廷軍の進路を塞いだ。
 退路は既に岩塊で閉ざされ、後続隊から分断されて袋小路になっているのを、
継縄は伝令でこの時知らされた。
 獣のように四つ足で駆け下りるアザマロの肩から、鷹が空に飛び去った。
 山道に下りると、無言で狼から贈られた不思議な形をした剣を、アザマロは初
めて鞘から抜いた。
 アザマロは、敵の将に向けて一直線に走った。
 邪魔する者には、その剣を振り回した。
 その切っ先が触れなくても、まるでカマイタチのように敵兵が斬られて倒れた。
 尋常ではないアザマロの駆ける速力は、つむじ風となって周囲は瞬間、真空と
なっていたのだ。
 兵達は、アザマロの迫力に気圧された。
「ええい。何をしておる。弓を射掛けよ」
 副将が、怒鳴った。その時だった。
 アザマロが、剣を空高く垂直に頭上に掲げた。
「■■■■■■」
 無意識に、意味不明な怪音が自然と口から吐き出された。
 それは、彼を育てた狼が死に際に伝授した韻律だった。
 剣の刃は、日の光を浴びて七色に輝いた。
 空の上から雷神が、太鼓を打ち鳴らした。
 光り出した剣に呼応するように風雲急を告げ、山間に雷鳴が轟いた。
 神より授かりし、この剣には鬼・物の怪・妖怪・精霊や様々な死者の霊魂等を
呼び込む力がある事を、アザマロはまだこの時知る由も無かった。
「あの光り物は……」
 副将が、目映いばかりの剣を見て呟いた。
 稲光が、朝廷軍の兵達に落雷した。
「お、鬼だッ!」
 稲光に映えるアザマロの姿は、鬼のように見えた。
 兵達は恐れおののいて、後方の積まれた岩と岩の隙間に体を捻じ込み、我先に
と這い出すように逃げ惑った。
 護衛兵の放った矢群が、アザマロに向かった。
 アザマロは、高く跳躍して弓矢をかわした。
 全身、緑色に塗られた悪鬼のようなアザマロの形相を間近で見た将軍継縄は、
恐怖の余り、小便を漏らしながら腰を抜かして地べたにへたり込んだ。
「日緋色金…」
 将軍は、その光り輝く剣を見て呟いた。
「おのれ、賊徒めッ」
 副将紀古佐美は、果敢に弓弦を構えた。
 矢は、アザマロの後頭部に飛来してくる。
 黒い影が、それを遮った。
 〝ギー〟
 鷹が矢を受けて、悲鳴を上げた。
 アザマロは、背負っている円形の楯を外して前に置き、身を隠しながら鷹を守
った。
 複数の矢が楯に命中している間、地面でグッタリとなっている鷹を気遣いなが
ら突き刺さった矢を途中で折った。
 大事そうに鷹を抱えて、アザマロは戦線を離脱した。
「将軍。大丈夫でござるか」
 敵を追い払ったのを確認してから、副将が言った。
「う、うむ…」
 将軍は、辛うじて体面を保ちながら冷静を装って答えた。
「ヒヒイロカネとは?」
 副将が、聞いた。
「エミシでは、そう呼んでおると…」
 将軍は、言い澱んだ。
「副将である私にも、言えぬ事にござりますか」
 紀古佐美は、詰め寄った。
「どのようなモノかは、わしも知らなんだが……内裏に伝わる噂によれば、永久
に錆びぬ特殊な鋼でできており、限られた蝦夷に一子相伝で伝授されるという幻
の秘剣という事だ」
 命を救われた恩義を感じて、将軍は重い口を開いた。
「秘剣?」
 副将が、怪訝な表情で言った。
「蝦夷征伐においては、金と同様に重要なモノらしい」
 将軍が、沈痛な面持ちで話した。
「分かり申した。帝がお望みとあらば」
 と言って副将が、立ち上がった。
「追えッ。敵は一人だ。あやつを捕え、その剣を奪うのだ!」
 副将は、護衛兵に言った。
「将軍の警護は?」
 側近が、聞いた。
「将軍には、三分の二の兵を率いて多賀城にお戻り頂く。残りは我と共に、あや
つを追うのだ」
 副将は、言った。
「オラノセェデネデバ(俺の仕業ではない)」
 自身の命がかかり、夷俘は褒美どころではなくなっていた。
「して、こやつの処分は?」
 連行されて来た夷俘を見て、側近が聞いた。
「我等を罠に嵌めるつもりならば、とっくに逃げておろう。逆に、奴に利用され
たのだ。奴の立ち寄りそうな場所ぐらいは、見当がつくはず。居場所を見付けな
ければ、命は無いものと思え」
 夷俘を副将が脅している間に、随行していた陰陽師は、鷹の残した羽毛を拾っ
ていた。

 奥羽山脈に連なる獣道だった。
 周りは、鬱蒼としたブナの木に覆われていた。
 陽が陰り、小雪が散らついてきた。
 左腕に大事そうに傷付き弱った鷹を抱いたアザマロは、濃い霧の立ち込めた追
手の迫って来られないであろう道無き道を進んだ。
 死にかけた鷹の臭いに反応してマムシが現れるが、アザマロが睨むとすごすご
と湿地に隠れた。
 出羽の外れにある宝珠山に、誘われるように登って行った。
 当時、陸奥よりも早くに征討された出羽の国には国府が置かれて、朝廷による
支配が既に固まっていた。
 夕闇迫る遠くに、ぼんやりと山小屋の影が見えた。
 もっと先に進みたかったが、陽が沈む前に手当てしたかった。
 濛々と霧が一層濃くなり、視界は靄がかかったようだった。
 アザマロは、周囲を警戒しながら戸をそっと開けた。
 囲炉裏には薪がくべられて、鉄瓶から湯気が立っているが、人影は見られなか
った。
 部屋の片隅に、多量の炭と薪が山積みになって残っていた。
 炭焼き小屋として、一冬を越したのであろう。
「コエグレェ、カゲレ(声ぐらい、かけなさい)」
 白髪で髭をたくわえ、杖を突いた小柄な翁が、アザマロの背後から忍び寄るよ
うに声をかけた。
「ッ!」
 振り向きざま、アザマロが腰の剣の柄を握って構えた。
「ナニオッガナガッテラ。ソッダナモン、ヤグニタダネド(何を怖がっている。
そんな物は、役には立たないぞ)」
 そう言いながら翁は、アザマロの顔を覗き込むように見た。
 この間、アザマロの身体は金縛りにあったように硬直した。
 〝ぼおっ〟
 と、囲炉裏の薪が爆ぜた。
 翁は、アザマロの額に手を当てて頭の中を観てみた。
   ※   ※   ※
 月蝕によって月が消えた、不気味な漆黒の闇夜であった。
 方位や十二支の図柄が描かれた地盤が見える。
 クルクルと、方形の地盤上に載せた球面が回っている。
 魔方陣と言う、陰陽道の儀式が行なわれている様子が映し出された。
〝賊寇毒魔毒気毀厄五鬼六害五兵口舌厭魅咒詛之中過度我身百病所欲急々如律令〟
 陰陽博士が、アザマロの血に塗れたナギの頭髪を祭壇に奉じて呪詛している。
 空中に縦に四線、横に五線を引いた九字を切って結ばれる印の仕種が見えた。
〝双方とも死ぬまで、また、日輪がこの世から無くならぬ限り、獣になりて共に
喰らい合うがよい〟
 闇夜に蠢く、鷹と狼の姿が映り込んだ。
   ※   ※   ※
「月が失われし宵にかけられた鬼道は、昼に夜が訪れる時、術師をそのヒヒイロ
カネで殺めねば、そなた等は永遠に元に戻らぬ………いにしえより選ばれし者の
み授かりし、そのツルギ………人の寿命を吸い取りし剣なり。心して用いよ」
 そう翁が言った後、アザマロは金縛りから解放されて、身動きができるように
なった。
 獣身になった経緯を知ったアザマロは、翁がヒヒイロカネと呼ぶ剣を見詰めた。
「タカッコ、アンベワリノガ(その鷹は、具合が悪いのか)?」
 翁は、杖で鷹を指しながら聞いた。
 無言のままアザマロは剣を置き、小刀を囲炉裏の火にかざした。そして、鷹の
嘴と脚と羽を動かないように縄できつく縛って固定した。
 燃える薪の炎で炙られて赤くなった刃で、鷹の傷口から矢じりをえぐり出した。
 〝グエェ〟
 鷹が押し殺したような呻き声を上げた。
 殺菌消毒のため熱した刃を押し付けると、あまりの激痛に気絶してグッタリと
なった。
 アザマロは、傍らで見ていた翁の前に剣を置いて山小屋を出て行った。

 馬返し。
 勾配が急にきつくなり、溶岩でゴツゴツした狭い斜面では、これ以上馬に乗っ
ては進めなかった。
 馬も使えない遠く人跡未踏の山奥で、およそ千人余りの兵を率いた副将軍紀古
佐美は、馬を諦めた。
 夷俘の道案内を頼みに、蝦夷しか知らない獣道を日が落ちる寸前まで行軍した。
 深山に入山すると、行く手を阻むかのように大粒の雪が降ってきた。
「ユギデワガネデバ。オラ、エサケェル(雪では行く事はできない。俺は、家に
帰る)」
 降雪に、夷俘がこれ以上進む事を拒んだ。
「うぎゃ~」
 すかさず、副将が夷俘を斬り殺した。
 休み無しの強行軍による疲労困憊で、士気が下がっている兵達への見せしめで
もあった。
 四人の兵に担がせた輿に乗った副将は、山越えを敢行した。
 このまま、将軍を襲った賊を野放しにすれば、朝廷軍が侮られる。
 意地でも捕えて、その威光を示せば、今後の蝦夷平定がやり易くなると思って
いた。
 紀古佐美が執拗にアザマロを追跡するのには、それだけではなく、実は本当の
理由があった。
 彼は伊治城でアザマロに殺された、前将軍紀広純の息子だったのだ。
 親の仇を討つため、陸奥への赴任は、そんな彼のたっての願いだった。
 朝廷はその意志を汲み、彼を蝦夷討伐の副将軍として任官した。
 紀古佐美は、逆賊アザマロを倒し、噂の秘剣とやらを帝に献上すれば、その恩
に報いる事ができると思っていた。
 日は完全に落ち、野営せざるを得なかった。
 森の小川のせせらぎが、聞こえている。
 日没と共に、ヒトから四つ足の獣に変化したアザマロは、渇きを癒すかのよう
に川の水を呑んでいた。
 暗くなり、夜空に星が降るように耀き出した。
 〝デコスケデーホー、ホーホー〟
 星明りが洩れる木の枝に、フクロウが鳴いている。
 〝ワオォォォォン〟
 夜のしじまに、耳をピンとそばだてた狼の遠吠えする泣き声が響き、その眼光
に満月が反射していた。
 狼の姿になったアザマロは、敵の本陣に現れた。
 人としての意識は無かったが、ナギを外敵から守るという野性の勘が働いた。
 暗闇から、陣を構える副将軍に襲いかかり、そのみぞおちにぶつかった。
 副将は、気を失った。
 不意を突かれた陣所は、反撃する間もなかった。
 狼は気絶した副将を器用に牙で縄を巻き付け、背に乗せて森の奥に去って行っ
た。
「追えッ。副将軍を救出するのだ!」
 突然の事に唖然とする部下達を、側近が怒鳴った。

 山小屋。
 腕に刺青をして、髪を結い上げた裸の年若い女が、静かに寝息を立てて熟睡し
ていた。
 白い裸身の胸に刻まれた、焼け爛れた傷痕が生々しい。
 翁は目を閉じると、傷のある胸にかざした手を移動させて腹を探った。
 児を宿しているのを感じた。翁が目を開けると、女の傷痕が綺麗に消えていっ
た。
 女にムシロをかけて、大雪の際に踏み込まれないようにする輪のような形をし
たカンジキを履き物に付けると、翁がスーッと消え失せた。
 入れ代わりに戸の外に狼が現れて、副将をぐるぐる巻きにして置き去った。
 山稜。
 稜線が光り、東の尾根から神々しい朝陽が昇ってきた。
 山小屋の周りだけはなぜか、手元も見えないほどの深い靄がかかっている。
 人に戻ったアザマロが、山小屋にやって来た。
「アザマロだな」
 床に転がっている副将が、聞いた。
 アザマロは、副将を見据えた。
「我を殺せッ。帝の兵として、エミシに捕えられるなど、生き恥ぞ」
 副将が、怒鳴り散らした。
「キサマが殺した、前将軍の紀広純は我が父だ」
「…………」
 アザマロは、副将の首に手刀を打って気絶させ、出入口の土間に放り込んで柱
に繋いだ。
 小屋の中に入ると、昼はいる筈の無いナギの姿があった。
 その山小屋の空間だけは、時が止まっているようだった。
 床の間に、昨晩翁に預けた剣が置かれている。
 アザマロは、胸の傷が完治しているナギを強く抱き締めた。
 ナギの首には、ヒスイの勾玉の首飾りが緑色に輝いていた。
 二人は、互いの瞳を見詰め合ったまま激しく交わった。
 チロチロと、薪の残り火が燻っていた。
〝時空の狭間にある秘境マヨイガでは、本来の姿でいられるが……鬼術を解くま
では、宿せし新しき命は封印されよう〟
 翁の声が木霊のように響いた後で、静寂と共に靄が急速に晴れてきた。
 ナギが、自分の腹をいとおしむように丁寧にさすっていた。
 アザマロは、声を追って外に出た。
 一面の銀世界が広がっていた。
 濃霧のため分からなかったが、炭焼き小屋は切り立った断崖上の端に位置して
いた。
 この山小屋だけが、ポツンと雪景色にあった。
「ッ?」
 アザマロは、周囲に殺気を感じ取った。
 天上では、、鬼のような風神が大きな袋を使って、大風を吹かせていた。
 連なった尾根から吹き荒ぶ雪降ろしで、猛吹雪になった。
「全然、見えない」
 小屋から外を望む、小窓を閉じながらナギが言った。
 アザマロは、即製の弓弦を作り、薪を縦に細く割って切って多くの矢を拵えて
いた。

 拉致された副将を追って、山狩りが行なわれていた。
 追跡できたのは狼が副将を連れ去る途中に、その甲冑の飾りや小物類を点々と
落としていったからであった。
 雪はどんどん深くなり、兵達は膝まで積もった雪を漕ぐようにして鈍重に歩を
進めた。
 遺留品のある所を求めて、遮二無二進探索していた頃だった。
「あちらに、山小屋が見えます」
 斥候兵が、側近に報告した。
 断崖絶壁の突端にある、古びた小屋を発見した。
 小屋の煙突から、焚き火の煙が洩れている。
 そこだけは台風の目のように無風で、雪も無かった。
 まるで、目に見えない何かに護られているようでもあった。
 無謀にも満足な防寒具も持たずに、軽装で出兵した千人の兵達は、険しく慣れ
ぬ山中に途中で多くが脱落し、ここにいるのは三百名をきっていた。
 が、三方を囲んでしまえば、背後の崖からは逃れられない。
「これまでに潜む場所など無かった。奴は、あそこにいるはずだ」
 残存する兵の数からも、戦局は我が方が有利であると考えながら側近は言った。
 朝廷軍は火矢を準備しようとしたが、突風で点火しないばかりか、放った矢も
目先で落下して役に立たなかった。
 雪を掻いて進軍路を作るが、踏み固められたそばから道は降りしきる大雪によ
って、元の木阿弥になった。
「力攻めだ。一気に押し込めッ」
 側近の檄の下、百名程の兵が前進するが、深雪に嵌まり足を取られて蟻地獄の
ように沈んでいった。
 そこに、小屋から矢が飛来して、次々に兵士達を狙撃してきた。
 アザマロの強い膂力と、小屋側では風の抵抗が無かったため、まさに狙い撃ち
だった。
 吹雪きは激しさを増し、寒さで倒れる兵が続出した。
「全軍進めーッ。敵は、目の前のたった独りぞ!」
 動ける五十名の兵達が、まとめて小屋を目指した時だった。
 山小屋の戸が開けられて、捕縛された副将軍が見えた。
 剣の刃が、副将の首筋に当てられている。
「副将軍だ!」
 部下が、叫んだ。
「ええい。止まるのだ!」
 側近が、進軍を制止した。
「人質にしての立て篭りか……」
 側近は、敵の戦術を理解した。
 攻め上れば、副将軍が殺される。こちらを立ち往生させて、凍死させる作戦な
のだ。
 春とはいえ、夜の山頂付近の温度は氷点下になる。
「我に構うなッ。アザマロを討つのだ!」
 副将の声が、小屋から聞こえてきた。
 バタンと戸が閉じて、副将が小屋の中に引き戻された。
「このままでは凍え死にして、全滅してしまいます」
 悲痛な叫びで、部下が訴えた。

 ナギは、アザマロの指示通りに無心で、藁をよじって縄を紡いでいた。
 この吹雪の中である。副将を楯にして、前進さえ阻めば勝機はあった。
 急斜面のため野営して暖を取る事さえままならず、部隊が一旦後退して態勢の
立て直しを計った。
 果敢に前進して来る猛者も数十名いたが、アザマロの正確無比な弓の的になる
だけであった。
 野を駆ける鹿や猪といった獣を射て生きる糧を得ていたアザマロにとっては、
朝廷軍の兵など物の数では無い。
 武装した賊はたった一人と侮り、矢から身を守る楯も持たずに山に入った兵達
は無惨な醜態をさらした。
 夜目の利く野生児だったアザマロは、一晩中暗闇の中で弓矢を射た。

 厳寒の暗闇の極限状況に置かれて、恐怖に怯える者の脳裏には雪女が現れ、手
招きしながら死神のように疲弊した兵達を、死の淵へと追いやった。
 反撃する戦意の萎えた朝廷軍の兵達は、眼前にある暖かい山小屋を前にして、
バタバタと寒さと飛来する矢のために倒れていった。
 完全に、形勢は逆転していた。
 側近は、苦肉の策として戦死や凍死者の骸を積み重ねて陣を敷き、風雪が止む
のを手をこまねいて待つしかなかった。
 身を寄せ合いながら生き残った朝廷軍の兵達は、携行していた火打ち石を使っ
て、死んだ兵士から剥いだ鎧を燃やして暖を取った。
 それはさながら、三途の川岸の衣領樹の下にいて、死者が着ている衣を剥ぎ取
って樹上の懸衣翁に渡す老女の鬼である、奪衣婆が取り憑いているようであった。
 一進一退の膠着状態のまま、夜明けを待った。
 荒れた吹雪きが嘘のようにピタリと止んで、辺りが白んできた。
 空が明るくなると、息をしている者より、凍死した兵のほうが断然に多い事が
判明した。
 生きている兵の顔は皆、憔悴しきっていた。
 アザマロの影が拡大して向かい側の雲に、化け物のように映った。
「助けてくれッ」
 昼夜の強行軍による疲労から朦朧とした意識の兵達は、幻影を雪男と勘違いし
て驚愕した。
 暁に高山の頂上で東方の雲のたなびく中に、薄墨色に輪の形をしたものが上が
って、ぼんやりと巨大な人影のように映る日本に昔から伝えられる御来迎は、近
代科学においては反射する光の屈折によって起こるブロッケン現象と呼ばれた。

 アザマロは、山小屋にある全ての炭と薪を集めて火を点けた。
 そして、副将を解放した。
 小屋を出ると、外界の光によってナギが瞬時にして鷹に変身した。
 アザマロは、鷹になったナギを抱きながら縄を伝い、裏手の崖を一気に谷底深
く滑り降りた。
 轟々と燃え出す炭焼き小屋から、やっとの事で副将が脱出した。
 昨夜とは一変して、春の陽光に風花が舞っていた。
 しかし、陸奥の山は甘くない。
 人知を超えた自然界は、突然その牙を兇暴に剥き出した。
 ドドドドドォォォォ
 地鳴りのような響きが轟いて、燃える山小屋の火災で温められた高熱により表
層雪崩が誘発された。
 雪崩は朝廷軍をあっという間に呑み込み、駿馬よりも早い物凄い勢いで、津波
のように斜面を押し流していった。
 ナギを伴いながら自然を読んで味方に付けたアザマロの策に、千人の朝廷軍が
一昼夜で潰滅した。
 この山頂は約一世紀を隔てて、異界から死者の霊が還る霊山として慈覚大師に
より立石寺(山寺)が建立される場所となった。
 さて、昨晩の翁はいずこに去ったのであろうか…本当に、その資質があるのか
否かを見極めるためヒヒイロカネの剣の伝承者としてアザマロを試したのかもし
れない。
 時空に浮かぶ“マヨイガ”を経る事によって、ヒヒイロカネは神剣としての真
価を発揮していくのだった。
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