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帰国、そして逃走
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国境の街から少しはなれた丘の上に湖がある。その畔に避暑地として建てられた王族の別荘があった。
普段は整備をする者が管理人を兼ねて数人常駐するだけだが、ここにアディエイルの姿があった。
いきなりの王太子の来館にも拘らず、素早く部屋が整えられた。
人払いをして、外套に包んだクリスを運び入れる。
寝台に横たえると、クリスの身体を検分する。
まずは忌々しい首輪を外す。白い首筋に首輪と鎖による擦り傷があった。
同じような擦り傷は、腕や手首、足首にもある。特に手首の傷は深く、血が滲んでいる。
何をされたのか、この傷を見ればよくわかる。
あちこちに、鬱血の跡はあるものの、他に大きな傷などはなく安心する。
温かいお湯で湿らせた布で身体を清めてやる。
涙の跡を拭おうとして、頬が赤くなっているのに気がつく。どうやら叩かれたらしい。
怒りと後悔とが、アディエイルを押し包む。
このままアーサーのところへ舞い戻り、息の根を止めたくなったがぐっと堪えた。
星降祭の夜、予め用意しておいた屋敷にアディエイルを誘ったアリシアは、持参した香を焚いた。実はその香は兄であるアーサーが調香したもので、デリの花から作られた物で催淫効果があり、これを使ってアディエイルを落とせると唆されたようだ。さらに相乗効果を狙って、同じような性質の茶を飲まされた。
結果として、アリシアの行動はアディエイルを手に入れることなく終わったが、クリスを傷つけてしまった。
女の手を取って行ったまま、一晩戻らなかったアディエイルをどう思ったろうか。
クリスが泣いていたとクロウドが言った。
そんなクリスが一人でいたのを、あの隣国の王子が見つけてしまった。
サリュー伯爵とも繋がりがあり、それどころか得意客でもあったらしいアーサーに、招待状が届いたのは間違いなかった。
実際、最初に予約していたと言っていた。それくらい興味があった相手が目の前にいるのだ。
おまけに、輪飾りの効果を封じる方法も知っていた。このせいで、あの屋敷を探し出すのに時間がかかってしまったのだ。
今回の来国の目的は妹のアリシアが、アディエイルを誘い出し誘惑することで、翌日兄が迎えに来たのは、その首尾を知るためであったようだ。
クリスが拐われたのは、皮肉な偶然が重なった結果だった。
あのアーサーの屋敷で、クリスがどんな目に合っていたか想像に難くない。
首輪を嵌められ、手足を拘束されあの男が良いようにしていたのかと思うと、腸が煮えくり返る。
傷の手当を終え、眠るクリスの瞼に唇で触れると部屋を出た。
今は傍にいることが苦しい。
目を覚ますと知らない天井が見えた。
はっとなり、慌てて起き上がろうとして、手首に包帯が巻かれているのに気がつく。
よく見れば、あちこちの傷が手当てを施されていた。
ここはどこだろう?アーサーはどこに行ったのか?
寝台から降りると窓に近づく。外には木立に囲まれた青い湖が見えた。全く知らない景色だった。
ふと、その畔に見覚えのある金の髪を見つけた。
咄嗟に背中を向けしゃがみ込む。
「な、なんでここに?」
これもアーサーの意地悪なのか。妹とアディエイルが一緒にいるところを見せようとしている?
もうたくさんだと思った。これ以上悲しい現実を見せつけないでほしい。
なぜ、こんなにも自分を苛め続けるのだろうか。
もう誰の鹿野も見たくないし、誰の声も聞きたくない。
今クリスにできることといえば、ここから逃げ出すことしかなかった。
ここがどこかはわからないけど、今のこの状況よりはましなはずだ。
そう決めると素早かった。
扉を開けて辺りを伺う。人気のないことを確かめると廊下に出た。
とにかく、湖とは逆方向へ出なければ。
奥に行けば使用人用の階段があるはずだ。そこをうまく使えれば行けるだろう。
反対側の突き当りに、それらしき扉を見つけ中に入ると階段がある。急いで下に降りると廊下に出る扉があった。内側に張り付くようにして、廊下の様子を伺うと急いで扉を開けた。人の声がしてギクリとするがすぐに違う部屋に入った。通用口と思しき方向へ行くとうまい具合に扉が見えた。
飛びつくようにして扉を開け外に出る。
建物の裏は森になっているようだ。
クリスは迷わず森に逃げ込んだ。
湖の畔でしばらく頭を冷やした。
湖を渡る冷たい風がアディエイルの心を落ち着かせた。
クリスが私を許さないというなら、その時はその時だ。
ようやく覚悟を決めて、寝室に入った。
しかしそこには人気がなく、触れた寝具もすっかり冷えていた。
それほど、私の傍にいるのが嫌なのかーー。
怒りに支配されそうになったとき、アーサーの言葉を思い出した。
「クリスには私に捨てられたと教えた」
クリスの意識のないままここに連れてきて、クリスはここがどこかは知らないはずだ。
目が覚めても、ここがグラン国だとは思わないだろう。
さらに、私がいるとは思いもしていないだろう。
私から逃げたのではなく、アーサーから逃げているのかもしれない。
とにかく探さねばならない。体力もそう保たないだろう。
深呼吸して意識を集中させる。
今度は確かに反応がある。それに安堵した。
昨夜のうちに、新しく付け替えておいてよかった。
その存在感を頼りに森に向かった。
普段は整備をする者が管理人を兼ねて数人常駐するだけだが、ここにアディエイルの姿があった。
いきなりの王太子の来館にも拘らず、素早く部屋が整えられた。
人払いをして、外套に包んだクリスを運び入れる。
寝台に横たえると、クリスの身体を検分する。
まずは忌々しい首輪を外す。白い首筋に首輪と鎖による擦り傷があった。
同じような擦り傷は、腕や手首、足首にもある。特に手首の傷は深く、血が滲んでいる。
何をされたのか、この傷を見ればよくわかる。
あちこちに、鬱血の跡はあるものの、他に大きな傷などはなく安心する。
温かいお湯で湿らせた布で身体を清めてやる。
涙の跡を拭おうとして、頬が赤くなっているのに気がつく。どうやら叩かれたらしい。
怒りと後悔とが、アディエイルを押し包む。
このままアーサーのところへ舞い戻り、息の根を止めたくなったがぐっと堪えた。
星降祭の夜、予め用意しておいた屋敷にアディエイルを誘ったアリシアは、持参した香を焚いた。実はその香は兄であるアーサーが調香したもので、デリの花から作られた物で催淫効果があり、これを使ってアディエイルを落とせると唆されたようだ。さらに相乗効果を狙って、同じような性質の茶を飲まされた。
結果として、アリシアの行動はアディエイルを手に入れることなく終わったが、クリスを傷つけてしまった。
女の手を取って行ったまま、一晩戻らなかったアディエイルをどう思ったろうか。
クリスが泣いていたとクロウドが言った。
そんなクリスが一人でいたのを、あの隣国の王子が見つけてしまった。
サリュー伯爵とも繋がりがあり、それどころか得意客でもあったらしいアーサーに、招待状が届いたのは間違いなかった。
実際、最初に予約していたと言っていた。それくらい興味があった相手が目の前にいるのだ。
おまけに、輪飾りの効果を封じる方法も知っていた。このせいで、あの屋敷を探し出すのに時間がかかってしまったのだ。
今回の来国の目的は妹のアリシアが、アディエイルを誘い出し誘惑することで、翌日兄が迎えに来たのは、その首尾を知るためであったようだ。
クリスが拐われたのは、皮肉な偶然が重なった結果だった。
あのアーサーの屋敷で、クリスがどんな目に合っていたか想像に難くない。
首輪を嵌められ、手足を拘束されあの男が良いようにしていたのかと思うと、腸が煮えくり返る。
傷の手当を終え、眠るクリスの瞼に唇で触れると部屋を出た。
今は傍にいることが苦しい。
目を覚ますと知らない天井が見えた。
はっとなり、慌てて起き上がろうとして、手首に包帯が巻かれているのに気がつく。
よく見れば、あちこちの傷が手当てを施されていた。
ここはどこだろう?アーサーはどこに行ったのか?
寝台から降りると窓に近づく。外には木立に囲まれた青い湖が見えた。全く知らない景色だった。
ふと、その畔に見覚えのある金の髪を見つけた。
咄嗟に背中を向けしゃがみ込む。
「な、なんでここに?」
これもアーサーの意地悪なのか。妹とアディエイルが一緒にいるところを見せようとしている?
もうたくさんだと思った。これ以上悲しい現実を見せつけないでほしい。
なぜ、こんなにも自分を苛め続けるのだろうか。
もう誰の鹿野も見たくないし、誰の声も聞きたくない。
今クリスにできることといえば、ここから逃げ出すことしかなかった。
ここがどこかはわからないけど、今のこの状況よりはましなはずだ。
そう決めると素早かった。
扉を開けて辺りを伺う。人気のないことを確かめると廊下に出た。
とにかく、湖とは逆方向へ出なければ。
奥に行けば使用人用の階段があるはずだ。そこをうまく使えれば行けるだろう。
反対側の突き当りに、それらしき扉を見つけ中に入ると階段がある。急いで下に降りると廊下に出る扉があった。内側に張り付くようにして、廊下の様子を伺うと急いで扉を開けた。人の声がしてギクリとするがすぐに違う部屋に入った。通用口と思しき方向へ行くとうまい具合に扉が見えた。
飛びつくようにして扉を開け外に出る。
建物の裏は森になっているようだ。
クリスは迷わず森に逃げ込んだ。
湖の畔でしばらく頭を冷やした。
湖を渡る冷たい風がアディエイルの心を落ち着かせた。
クリスが私を許さないというなら、その時はその時だ。
ようやく覚悟を決めて、寝室に入った。
しかしそこには人気がなく、触れた寝具もすっかり冷えていた。
それほど、私の傍にいるのが嫌なのかーー。
怒りに支配されそうになったとき、アーサーの言葉を思い出した。
「クリスには私に捨てられたと教えた」
クリスの意識のないままここに連れてきて、クリスはここがどこかは知らないはずだ。
目が覚めても、ここがグラン国だとは思わないだろう。
さらに、私がいるとは思いもしていないだろう。
私から逃げたのではなく、アーサーから逃げているのかもしれない。
とにかく探さねばならない。体力もそう保たないだろう。
深呼吸して意識を集中させる。
今度は確かに反応がある。それに安堵した。
昨夜のうちに、新しく付け替えておいてよかった。
その存在感を頼りに森に向かった。
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