10 / 10
10.このフェロモン爆弾、なんて名前ですか。
しおりを挟む
机に向かっても、文字が頭に入ってこなかった。
“結婚する気はない”
その言葉だけが、ひどく鮮明に、耳の奥で反すうする。
(駄目だ……まったく集中できない……)
ペンを持つ手に力がこもり、ペン先が紙を引き裂いた。
同じ書類を二度開き、同じ封を三度確かめた。
分別済みの束に、誤って別の案件を混ぜてしまった。
「ここ、数字が違っているようだ……」
シルヴァンが静かに指先で書類を指す。
「あ……ごめんなさい」
謝る声が、薄い。
自分の声なのに、温度がない。
シルヴァンは一瞬、視線を止めた。
けれど追究はせず、淡々と次の紙をたぐる。
「……」
「……」
沈黙。
紙の擦れる音だけが、やけに耳に刺さる。
しばらくして――シルヴァンがペンを置いた。
「……少し、休むか」
顔は、いつもと同じ無表情。
だけど目の奥が、ほんの僅かに迷ったように揺れた。
「あなたも、一緒に……」
「……え?」
思わずまばたきした。意外すぎる誘いに、返事が一瞬遅れる。
「ご……ごめんなさい。ミスばかりしてるからですよね」
「いや、」
シルヴァンは言いかけて、そこで言葉を切った。
代わりに、小さく首を横に振る。
シルヴァンは、こういう“寸前で止まる”話し方をよくする。
ツンが出る前に飲み込んでいるのか、デレが漏れそうになって引っ込めているのか。
理由は不明。
でも、ひとつだけ気付いた法則があった。
この止め方をする時はいつも、私を気遣おうとしている時なのだ。
「庭に……紅茶を持ってこさせよう。後から向かう。先に出ていてくれ」
短い指示。
けれど、優しさがにじむ声だった。
「は、はい」
頭を下げて、私は部屋を出た。
◇ ◇ ◇
庭に出て、テラスの椅子に腰を下ろす。
ひんやりした風が頬を撫で、胸の奥のざわつきがすっと和らいだ。
(ミスばっかりで仕事増やしちゃったのに……怒らないんだな……)
むしろ、気遣ってくれた。
その気遣いが嬉しくて、でもなんだか申し訳なくて、胸がきゅっとなる。
シルヴァンは、言葉こそ刺々しいが、行動はいつも優しい。
そう――彼は、本質的に優しい人なのだ。
言葉選びの問題はあるものの、人格の問題はない。
それがわかるから、どんなに辛辣な言葉も「可愛いな」と思って受け流せている。
(だから、なんかびっくりしちゃったんだよな……)
執務室で偶然聞いてしまった言葉。
それは、今まで見てきたシルヴァンの性格を思うと、どうも違和感があった。
「……きっと、あの言葉も本心じゃないんだ。うん。
結婚する気はないなんて……シルヴァンがそんな不誠実なこと、するはずない」
「それはどうかな。男なんてのは、まったく信用ならない生き物だぜ」
「まあ、大半はね。でもシルヴァンは、そういうクズ野郎たちとは別」
「へえ。よく言い切るじゃない。どうしてそう思うんだ?」
「いやだって、すごく誠実だもん。めちゃくちゃわかりやすい」
「わかりやすい? あいつが? 凄いね君」
「フッ、私、厄介男子の扱いには慣れてるんで」
胸を張って言い切った、その時――背後で、ふっと笑い声がした。
……笑い声?
「え!? 誰!?」
反射的に振り返る。
振り返ったその先──
テラスの手すりに肘を掛け、前傾のままこちらを覗き込むようにして、ひとりの男が立っていた。
「気付くのが、ちょーっと遅いんじゃない? お嬢さん」
夕陽を溶かし込んだような橙色の髪。
褐色の肌。
澄んだミントグリーンの瞳。
胸がどくんと跳ねる。
(……だ、誰、この男!!)
このオーラ、明らかに通りすがりのモブではない。
物語に席を持つ人間の気配。
脳内で、前世で読んだあの小説の人物リストをぱらぱらとめくる。
ヒロインの恋愛対象である男主人公は、基本あの阿呆皇太子ひとりのはず。
他にめぼしいメインキャラがいた覚えがない。
というか、この小説は名前のある登場人物が極端に少なかった。
名前ありのキャラといえば――癖つよ四天王くらいしか思い出せない。(インパクトが強すぎて他のキャラを忘れている可能性はある)
でも彼らは脇の脇。モブだ。
(……いや、待って。シルヴァンだってモブなのに、男主人公顔負けの美貌だ。
だったら、この男も――規格外モブという線はある……かもしれない?)
思考が空回りする。
(それにしても……誰……? ぜんっぜん該当人物が浮かばない!)
じっと見つめていると、彼は前髪をゆるく掬い上げ――そのまま、距離を詰めてきた。
動作に無駄がない。自然すぎて、息を呑む暇もない。
指先が触れたかと思えば、彼は私の手を取った。
そして――甲に唇が触れ、かすかな湿音が耳に届いた。
思考が一瞬、真っ白になる。
「………………………………えっ」
“キスされた”
と理解した瞬間、心臓が飛び出しそうなくらい跳ね上がった。
「くぁwせdrftgyふじこlp……!?」
「はは、それ何語? 君、面白いね」
慌てて手を引っ込めると、男は名残惜しそうに肩をすくめた。
「な、な、な、なんなんですか! 免疫ない女子に不意打ちするのやめてください! 殺す気ですか!!」
「えっ、美人なのにずいぶん初心だね。ギャップにきゅんと来ちゃうわ」
「び、びじん……? きゅん……?」
男は目を細めて、さらに楽しげに首をかしげる。
(ちょっと待って!! ほんとに誰この高濃度フェロモン男!!)
胸がドッドッドッと大きく鳴る。
慌てて距離を取り身構える私に、男は腰に片手を当てて軽くお辞儀をした。
「はじめまして、俺はソナヴィス。――ソナと呼んでほしい。
偶然お目にかかれて幸運だ、お嬢さん」
“結婚する気はない”
その言葉だけが、ひどく鮮明に、耳の奥で反すうする。
(駄目だ……まったく集中できない……)
ペンを持つ手に力がこもり、ペン先が紙を引き裂いた。
同じ書類を二度開き、同じ封を三度確かめた。
分別済みの束に、誤って別の案件を混ぜてしまった。
「ここ、数字が違っているようだ……」
シルヴァンが静かに指先で書類を指す。
「あ……ごめんなさい」
謝る声が、薄い。
自分の声なのに、温度がない。
シルヴァンは一瞬、視線を止めた。
けれど追究はせず、淡々と次の紙をたぐる。
「……」
「……」
沈黙。
紙の擦れる音だけが、やけに耳に刺さる。
しばらくして――シルヴァンがペンを置いた。
「……少し、休むか」
顔は、いつもと同じ無表情。
だけど目の奥が、ほんの僅かに迷ったように揺れた。
「あなたも、一緒に……」
「……え?」
思わずまばたきした。意外すぎる誘いに、返事が一瞬遅れる。
「ご……ごめんなさい。ミスばかりしてるからですよね」
「いや、」
シルヴァンは言いかけて、そこで言葉を切った。
代わりに、小さく首を横に振る。
シルヴァンは、こういう“寸前で止まる”話し方をよくする。
ツンが出る前に飲み込んでいるのか、デレが漏れそうになって引っ込めているのか。
理由は不明。
でも、ひとつだけ気付いた法則があった。
この止め方をする時はいつも、私を気遣おうとしている時なのだ。
「庭に……紅茶を持ってこさせよう。後から向かう。先に出ていてくれ」
短い指示。
けれど、優しさがにじむ声だった。
「は、はい」
頭を下げて、私は部屋を出た。
◇ ◇ ◇
庭に出て、テラスの椅子に腰を下ろす。
ひんやりした風が頬を撫で、胸の奥のざわつきがすっと和らいだ。
(ミスばっかりで仕事増やしちゃったのに……怒らないんだな……)
むしろ、気遣ってくれた。
その気遣いが嬉しくて、でもなんだか申し訳なくて、胸がきゅっとなる。
シルヴァンは、言葉こそ刺々しいが、行動はいつも優しい。
そう――彼は、本質的に優しい人なのだ。
言葉選びの問題はあるものの、人格の問題はない。
それがわかるから、どんなに辛辣な言葉も「可愛いな」と思って受け流せている。
(だから、なんかびっくりしちゃったんだよな……)
執務室で偶然聞いてしまった言葉。
それは、今まで見てきたシルヴァンの性格を思うと、どうも違和感があった。
「……きっと、あの言葉も本心じゃないんだ。うん。
結婚する気はないなんて……シルヴァンがそんな不誠実なこと、するはずない」
「それはどうかな。男なんてのは、まったく信用ならない生き物だぜ」
「まあ、大半はね。でもシルヴァンは、そういうクズ野郎たちとは別」
「へえ。よく言い切るじゃない。どうしてそう思うんだ?」
「いやだって、すごく誠実だもん。めちゃくちゃわかりやすい」
「わかりやすい? あいつが? 凄いね君」
「フッ、私、厄介男子の扱いには慣れてるんで」
胸を張って言い切った、その時――背後で、ふっと笑い声がした。
……笑い声?
「え!? 誰!?」
反射的に振り返る。
振り返ったその先──
テラスの手すりに肘を掛け、前傾のままこちらを覗き込むようにして、ひとりの男が立っていた。
「気付くのが、ちょーっと遅いんじゃない? お嬢さん」
夕陽を溶かし込んだような橙色の髪。
褐色の肌。
澄んだミントグリーンの瞳。
胸がどくんと跳ねる。
(……だ、誰、この男!!)
このオーラ、明らかに通りすがりのモブではない。
物語に席を持つ人間の気配。
脳内で、前世で読んだあの小説の人物リストをぱらぱらとめくる。
ヒロインの恋愛対象である男主人公は、基本あの阿呆皇太子ひとりのはず。
他にめぼしいメインキャラがいた覚えがない。
というか、この小説は名前のある登場人物が極端に少なかった。
名前ありのキャラといえば――癖つよ四天王くらいしか思い出せない。(インパクトが強すぎて他のキャラを忘れている可能性はある)
でも彼らは脇の脇。モブだ。
(……いや、待って。シルヴァンだってモブなのに、男主人公顔負けの美貌だ。
だったら、この男も――規格外モブという線はある……かもしれない?)
思考が空回りする。
(それにしても……誰……? ぜんっぜん該当人物が浮かばない!)
じっと見つめていると、彼は前髪をゆるく掬い上げ――そのまま、距離を詰めてきた。
動作に無駄がない。自然すぎて、息を呑む暇もない。
指先が触れたかと思えば、彼は私の手を取った。
そして――甲に唇が触れ、かすかな湿音が耳に届いた。
思考が一瞬、真っ白になる。
「………………………………えっ」
“キスされた”
と理解した瞬間、心臓が飛び出しそうなくらい跳ね上がった。
「くぁwせdrftgyふじこlp……!?」
「はは、それ何語? 君、面白いね」
慌てて手を引っ込めると、男は名残惜しそうに肩をすくめた。
「な、な、な、なんなんですか! 免疫ない女子に不意打ちするのやめてください! 殺す気ですか!!」
「えっ、美人なのにずいぶん初心だね。ギャップにきゅんと来ちゃうわ」
「び、びじん……? きゅん……?」
男は目を細めて、さらに楽しげに首をかしげる。
(ちょっと待って!! ほんとに誰この高濃度フェロモン男!!)
胸がドッドッドッと大きく鳴る。
慌てて距離を取り身構える私に、男は腰に片手を当てて軽くお辞儀をした。
「はじめまして、俺はソナヴィス。――ソナと呼んでほしい。
偶然お目にかかれて幸運だ、お嬢さん」
10
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
夫から「用済み」と言われ追い出されましたけれども
神々廻
恋愛
2人でいつも通り朝食をとっていたら、「お前はもう用済みだ。門の前に最低限の荷物をまとめさせた。朝食をとったら出ていけ」
と言われてしまいました。夫とは恋愛結婚だと思っていたのですが違ったようです。
大人しく出ていきますが、後悔しないで下さいね。
文字数が少ないのでサクッと読めます。お気に入り登録、コメントください!
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
