影武者の天下盗り

井上シオ

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第6章:偽帝国の胎動

第35話:偽帝の行軍

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 ――その日、京の町に異様な空気が流れていた。

 各地の寺社では、奇妙な噂が広まりつつあった。

 「信長公が二人いる」「その片方は“影”だ」
 そして、もっとも恐ろしい囁き――「影のほうが、本物より恐ろしい」。

 朝議を終えた十兵衛は、安土へと向かう軍勢を整えていた。
 目的はひとつ、天下布武を掲げた再出発――自らの“正統性”を国中に知らしめるための行幸だった。

 その身には、かつて信長が愛した金糸の陣羽織。
 だが、そこに宿る気配はまるで異なるものだった。

 「殿、お供いたします」

 膝をついたのは、黒田官兵衛。
 その眼には忠誠というよりも、“観察”の色があった。

 「儂は誰だと思う、官兵衛」

 「……信長公でございます。誰よりも、民がそう信じております」

 十兵衛は目を細めた。

 「民が信じる姿こそ、“帝”の姿か。滑稽よな」

 だが、彼の言葉に諧謔はなかった。
 むしろ、自らを納得させるための呟きに近い。

 軍勢は千を超え、京都を発った。

 町民たちは道の両端に並び、その姿を拝もうと頭を垂れた。
 馬上の十兵衛が振り返ると、誰もがこう口にした。

 「これぞ信長様じゃ」
 「信長公、万歳!」

 影が光を食らい、本物をかき消していく光景。
 十兵衛はその光を、全身で受け止めながらも、心の奥に沈むものを噛みしめていた。

 “おれは、ただの百姓だった”

 その記憶は、もう誰の口からも語られない。
 だが、心の底にだけ、痛みとして残っている。

 その夜、陣中でひとり篝火を見つめる十兵衛のもとに、使いの者が駆け寄った。

 「報告! 本物の信長様が、伊賀の地で行方知れずとのこと!」

 その報は、まるで神が“影”に道を与えたかのようだった。

 十兵衛はしばらく黙した後、静かに立ち上がり、こう言った。

 「ならば……この俺が、唯一の信長だ」

 焔のなかで、かつての名“十兵衛”が、静かに燃え尽きていった。
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