影武者の天下盗り

井上シオ

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第6章:偽帝国の胎動

第36話:消された名

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 夜明け前の安土城。

 その大書院の奥、厳重に封じられた記録蔵で、ひとりの男が巻物を手にしていた。

 羽柴秀吉――かつての“猿”は、もはや天下人の風格すら纏い始めている。
 その手にあるのは、信長の出生から軍歴、そして内々の命令書までが記された真書の複写。

 「……殿の“痕跡”が、消されていくのか」

 彼はそう呟いた。

 今、天下にあるのは“信長”という名の男。
 だが、その実像が“本物”かどうかなど、すでに問題ではない。
 家臣たちは信じる者につき、民は“勝ち続ける者”を主とする。

 ――ならば、あの“十兵衛”こそが本物なのか?

 答えは出ない。

 一方、安土へ入城した十兵衛は、まず手始めに記録係を呼びつけた。

 「書き換えろ。儂の出自、誕生の地、すべて――尾張のうまれとせよ」

 「……は、はっ」

 怯える記録官に、十兵衛は続けた。

 「“十兵衛”という名の男は、もういない。記録の上でも、死んだことにせよ」

 「は、ははは、承知いたしました……!」

 記録が変わるとは、歴史が変わるということだ。
 “信長”という名の中に、十兵衛という影の者が、肉体だけでなく“史実”としても入り込んでいく。

 ――まるで影が主を食らうように。

 その晩、十兵衛はひとり書院にこもり、燈台の光で何かを書き続けていた。

 古びた紙に、震える筆跡で綴られるは、

 「十兵衛、ここに死す」

 彼はそれを書き終えると、火鉢の中に放り込む。

 ぱち、ぱちと音を立てて、十兵衛という名は煙になった。

 ――だが、その名を、ただひとり覚えていた女がいた。

 おみよ。

 彼女は今、安土の町の外れ、小さな草庵で暮らしている。
 その胸には、あのとき拾った古い護符がある。

 「おみよ じゅうべえ ずっといっしょ」

 彼女だけが、あの“影”の名を知っていた。
 そしてその名を、誰にも語らぬことを誓っていた。
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