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エリシエル×ユリウス外伝

当て馬令嬢は幼馴染に愛される。5

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「―――エリィ」

 北の最果てにあるという、深い海が凍りついたような薄氷色の瞳が私を見下ろす。
 幼い頃に母より聞かされた北国の景色が、彼の目の中に垣間見える気がした。

 けれど冷たさの中にどこか、切なげな光が見える気がしたのは私の思い違いだろうか。

 ……瞳の色は変わらず綺麗なままなのに。
 人は時を経るとこんなにも変わってしまうものなのね。

 今は遥か懐かしい過去の残像を思考の隅に追いやりながら、私は自分を寝台に押しつけるユリウスをきっと睨み上げた。目尻に浮かんでいた滴は今は無く、いくらか平静を取り戻している。何より、ユリウスに従いたく無いという反発心が今の原動力になっていた。

 視線が合えば、ユリウスが瞳を細め嗤う。
 彼の白金の髪が、さらりと頬に流れていた。

 状況と、この剣呑な空気さえなければ天使の微笑にすら見えるだろう。
 片腹痛いにも程があるが。

 出会ってから十年の月日が経ち、若き伯爵令息は青年らしい引き締まった体躯と、二十四という年齢にしてはやや老成した空気を纏うようになった。強かさを身につけた、と言った方が正しいかも知れない。

 父の命により護身の術を身につけている私は、そこらの令嬢より断然腕力がある。なのに、押さえられた手はびくともしない。見かけは細身の癖に触れればしなやかな筋肉の感触に気づく。無駄な部分が一切削ぎ落とされたような体つきは、数日やそこらで手に入れられるものではない。
 羊の皮を被った狼とは、こういう男の事を言うのだろう。

 ……ほんとに、腹立たしいったらないわ。
 逃れることすら出来ないなんて。

 内心の焦りに、口内でぎりりと奥歯を噛み締めながら、無理矢理くっと口端を上げてみせる。
 たとえ虚勢でも、ユリウスに弱いところを見せたくなかった。

 それに、私がやったのはたかだか幼馴染みの家を訪問しただけ。しかも、彼の知るところでは無いにしろ、当て馬役をしに行っただけの事をこうまでユリウスに責められる理由は無い筈だ。たとえ彼が仮の婚約者であろうとも、私の行動に難癖をつけられるいわれはない。

 だからこれは、ただ自分の所有権を主張したいだけの行為なのだろう。
 全く、ご苦労な事だ。

「レグナガルドの屋敷に行ったのがそんなにご不満?『大切な』幼馴染みが結婚後上手くいっているか、様子伺いに行っただけよ。それに、アタシが何をしようがユリウスには関係ない事でしょう」

 言葉にありったけの皮肉を込めて、嘲笑うように答えてやれば、ユリウスの顔から一瞬で表情が消えた。眉を顰めることすらせず、じっと責めるような視線だけが私を貫く。
 瞳の色と同じ冷たさが、背筋をぞくりと冷やしていった。

 何で……
 こんな、こんな顔をされないといけないのよ……!
 まるで私が、不貞を働いた悪妻みたいに……!

 私を見下ろすユリウスの顔はまるで感情の無い仮面のようで、綺麗な造形も相まって無機質な印象を抱かせる。
 なのに、唯一の生を感じられる瞳の中に仄暗い静かな怒りが見えた気がして身が竦んだ。
 
 心臓が耳元に移動したのかと思う程、大きな心音が頭に響く。

 ……怖い。

 あの十三の時にも見た、ユリウスのこの仄暗さを宿した瞳が。
 逃れられない重い鎖のようでいて、なのにどこか―――甘ささえ感じさせる彼の視線が。

 押さえつけられている掌に、じっとりとした汗を掻くのを感じながら、私はユリウスの整った顔が近づいてくるのを見ていた。
 鼻先が触れそうな距離に自分の目が見開いていくのがわかる。

 あの十三の時から一切触れてこなかった仮の婚約者の接近に、混乱と緊張で半ば呆然としていた。
 視界いっぱいに、ユリウスの青年天使がごとき面相が広がっていく。

「―――嘘だ。僕は君に付かせている者から報告を受けている。君はアイツの屋敷に行って、奥方に離縁を迫ったんだろう?しかも、あのヴォルクと以前から愛し合っていたのだと涙ながらに訴えて」

「……つ、かせて……?」

 表情を無くしたユリウスが淡々と告げた。
 それを聞きながら、私は彼の言葉の意味するところが束の間理解出来なくて、同じ事を繰り返してしまう。

 付かせて。
 付かせて、いる者。

 それは監視者がいたということだろうか。
 私の行動を、把握するために?

 見張らせていた?そして報告させていた?
 私が何処に行ったか、そして何をしていたのかを?

 言葉が脳内に浸透した瞬間、ぐらぐらと煮えたぎる煮沸された熱が、腹の底から駆け上がる。

「そんな真似っ……!アンタにする権利は無いわっ!!婚約者だって仮のものよ!ふざけないで……!!」

 あまりの腹立たしさに頭突きでも喰らわせてやろうかと、噛み付く勢いで怒鳴りつけた。しかし、軽く躱され余計に苛立ちが募る。

 私の行動を見張らせていた。ユリウスが。
 まるで、私が自分の所有物でもあるかのように。

「ふざけてなんていないよ。僕の大事な婚約者に何かあれば大変だからね……エリィ、君はアイツの屋敷で奥方に詰め寄ったんだろう。アイツは結婚したのに、なのにまだ諦めきれないの。そんなに、アイツの事が好きなのか」

 深く凍てついた薄氷の瞳が、貫くように私を見据えた。
 まるで嫉妬しているかのような言い草に、苛立ちを通り越して呆れさえ感じる。

 ユリウスが私にここまで執着するのには理由がある。
 彼は、私を手に入れなければ称号も地位も掴めない。だから例えどんな『道具』であれ、手放すわけにはいかないのだ。

 例え嫌っていようとも。例え好いていなくとも。

 目にすることさえ厭う、そんな女が相手でも。
 生まれ持った肩書きだけが、彼にとっては意味を持つ。

 私の生家はこの西王国イゼルマール全ての貴族を束ねる筆頭貴族、プロシュベール公爵家。
 その一人娘で公爵令嬢である私と結ばれれば、それ即ち貴族の頂点に立てる事を意味する。

 だから彼は私を手放したくないのだ。
 決して、心があるからではない。

 年頃となった社交界デビューの日、事もあろうにお父様はユリウスを私のパートナーとして選んでしまった。

 己の結婚相手を探す為に参加する淑女も多い中、私は既に売約済の様に扱われたのだ。
 その時になって、ユリウスが我が家へ伴われていた意味に気づいた私は、どうしようもない愚か者だった。

 貴族の令嬢として生まれたからには政略婚も仕方ないと諦めもついていた。けれど、それがよりに寄って幼き頃から冷たい態度を取られ続けたユリウスだとは。

 彼は私を嫌っている。
 そんな事は、これまで彼にされてきた仕打ちで重々理解していた。

 なのになぜ、ユリウスが大人しく婚約者として収まったか。
 そんなのは考えずとも判っていた。我がプロシュベール公爵家の地位と、名誉と、財力と。
 そして私への嫌がらせ。
 かつて天使の様だった彼からは想像できないが、今のユリウスならば話は別だ。
 貴族社会において、プロシュベール家が数少ない公爵家の中で最も大きな権力を誇っているのは、一族の中に少なからずも王家の血が含まれているからだ。
 何世代も前に嫁いできた王妹の血によって、今日まで最上位の貴族称号と権力を保持している。

 プロシュベール公爵家の娘である私は、成り上がるには一番の『道具』なのだ。
 貴族の子息から商家の跡取りまで、私という道具を見る彼らの瞳の中に見えているのは、私への興味では無く、野心と欲望というキーワード。

 階級社会であれば、誰しもが上にのし上がる事を夢見る。それ故婚姻とは、一種の政治的手段や、成り上がる為の一番手っ取り早い手法となるのだ。
 嫌っている相手の婚約者を買って出るなど、それ以外に理由は無いだろう。

 だから私は、画策した。

 ユリウスから逃れるために。自分の為に。
 誰かを、蹴落とそうとした。

 その為に、私は『彼女』の依頼に応じたのだ。
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