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番外編

永遠の幸福の終わり 1

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 スクルの過去。王様の息子である彼がどうして故郷を出て魔王城に来たのか、というお話です。


 ――


 俺が生まれ育った地は、魔王様が統べるこの地からとても遠く、海を越え山を越え、何ヶ月もかけてようやく辿り着く場所にある。

 季節が目まぐるしく変わるこことは違い、一年の大半が夏のような気候で、国民も陽気な性格の者が多い。雨が降る日数はそう多くないものの、一気にまとめて降るため、水不足になる事もあまりない。海に面しており、新鮮な魚介類も手に入る。そんな国が、俺は大好きだった。
 
 この国では唯一国王だけが、複数の妻を持つ事が許されている。そして、俺の母もその中のひとりだ。母が世界中を巡る旅の途中、まだ王子であった父と出会い、紆余曲折を経て結婚したのだと聞いている。

 魔族の、それも一国の王子。そんな父が、なぜ人間である母を選んだのか。ほとんど会わない母からは当然の事、毎日顔を合わせる父も、なぜふたりが結ばれたのかを知りたがる俺に対して、何も教えてはくれなかった。

 母は俺を産んで、乳離れしたと同時に再び旅に出てしまった。そのため俺には、母の温もりというものの記憶は全くない。
 だが俺は寂しいとか、母が恋しいと思った事は一度もない。父の妻達や腹違いの兄弟姉妹は俺に対して、まるで本当の息子、兄弟であるように接してくれていたからだ。
 ……いや、一度もないは嘘だ。幼い頃は、自分だけの母がいない事を寂しく思う事はあった。いくら本当の息子のように接してくれたとしても、違いが分からないほど鈍感ではない。

 ただ、多くの兄弟姉妹に囲まれる俺を見て、父は嬉しそうに目を細めていたのを覚えている。そして、俺もそれが嬉しくて、そんな幸せな日々が永遠に続くのだと、信じて疑わなかった。

 十二歳になってしばらく経った頃。俺は体調を崩す事が多くなった。人間の血が半分流れているからなのか、純血の兄弟姉妹より少し病弱ではあったが、そこまで酷く体調が悪くなる事はなかった。原因も分からないままで、一時は命も危うかったそうだ。その間、俺はほぼ意識を失っていて、その時の記憶はひどく曖昧だ。はっきり覚えているのは、意識が戻った事を泣いて喜ぶ兄弟姉妹の顔、それだけだった。

 でも、そこにあるはずの顔が、ひとつ欠けている。そして誰も、それを決して口に出す事はなかった。俺も、聞けなかった。
 それを口にした瞬間、この楽園は崩れて消えるのだから。

 十四歳の頃。父は俺にこう告げた。遠く離れた国……魔王様の元で学んでこい、と。行くかと問われたのではない、決定事項として。
 俺の成長の為なのだと父は言った。だが、本当の理由が他にあるとしか思えなかった。そしてそれは決して、俺にとっていい意味ではないのだろう。
 愛する兄弟姉妹との別れは寂しかったが、きっといつか戻れるようになるという父の言葉に、俺は首を縦に振るしかなかった。

 出発の日まで俺は、国のあちこちを飛び回った。鮮やかな景色、肌に触れる熱い日差し、雨上がりの湿った空気、新たな命を生み出す大地。それらを、いつでも思い出せるよう、頭に、心に、深く深く刻み込む。

 そして、出発の前日。俺は初めて父とふたりきりで酒を飲んだ。今まで、いくら飲んでも酔った姿を見せた事のなかった父が、その時だけは珍しく酔った様子を見せた。その時、父が俺に話した言葉を、俺は今でも忘れられない。

「私が恋をして結婚をしたのは、後にも先にも、お前の母親だけだ」

 俺はそれを聞いて正直、嬉しさなど感じなかった。それどころか、俺の母だけ特別扱いしているようではないかと、憤りさえ感じた。
 俺は、俺を置いて世界中を飛び回る母よりも、俺を本当の息子のように愛してくれる、他の母達の方に情愛を抱いていたからだ。
 だからといって、父を責める気持ちにもなれなかった。国のため、選ばれた女性と結婚する事を決められた父は、それでも全ての妻を平等に愛そうと心がけているのを、この目で見てきたからだ。
 平等であろうとする父。だから他の妻達は、俺の母のような、この地で生まれ育っていない異質な存在をも受け入れたのかもしれない。

 幸せな時間が永遠に続くと疑いもしなかった俺の耳に、父が必死で繕う綻びの、チリチリと小さく裂ける音が聞こえはじめた。その時、俺はもう何も知らない幼い子供ではなくなったのだ。

 ジリジリと間近に迫る。生まれ育ったその地から初めて足を踏み出すその時が。
 俺は逃げ出したい気持ちを必死で抑え、覚悟を決める。

 ここにはもう二度と戻ってこられないだろう、その覚悟を。
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