世界でたったふたりきり

森 千織

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1、Phantom Limb

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 ぼくたちは双子で、身体がくっついている。いわゆる、結合双生児ってやつだ。一卵性双生児が、お母さんのお腹の中でうまく二つに分かれなくて、身体がくっついたまま産まれてくる。ぼくが弟の翔太で、兄ちゃんが幸太。双子の兄弟ってのは先に空気に触れた方が兄だとか、逆に、あとから出てきた方が兄だとか、いろんな決め方があるらしい。だけど、ぼくたちはほとんど同時に、お母さんのお腹から出された。だから、先に産声を上げた方が兄。今日、ぼくたちは十二歳になった。

「なあ、翔太ァ」

 かりかりと、鉛筆で紙を擦る固い音の間に、兄ちゃんの声が響いた。お父さんは仕事、お母さんは買い物、ぼくたちは家で勉強。水曜日の午後、真昼間のリビングは、白く明るい。

「なぁに、兄ちゃん」

 広いリビングテーブルの上で、教科書をぐいと押し広げる。兄ちゃんは、ぼんやりと窓の外を見たまま続けた。

「テレビ」

「は、ダメだよ。今、勉強の時間」

 兄ちゃんは「あァ?」と声を上げて、わざとらしく長いため息を吐いた。

「勉強やんのは、お前だけだろ」

「え~……、ダメだよォ……」

「翔太ァ」

 言い出すと、兄ちゃんは聞かない。そもそも、兄が、弟の言うことを聞くわけがない。双子だけど、ほとんど同時に産まれたけれど、兄ちゃんは兄ちゃんってだけでぼくより偉い。ため息をついて、ぼくは鉛筆を置いてリモコンを握った。広い大きな画面がぱっと明るくなる。真昼のテレビなんか、なにも面白くないのに。それに、昼間にテレビを見たことがばれたら、お母さんに叱られる。普通に学校に行ってる子供は、こんな時間にテレビを見ないから。

「んん~、つまんね、いいや」

 そりゃあねと、テレビを消してリモコンを置く。チャンネルをどこに替えても、ニュースか、よく知らないスポーツか、料理番組しかない。ため息をついて、鉛筆を握りなおした。

「兄ちゃん」

 返事はなかった。兄ちゃんに目を向けると、頭がこくりこくりと揺れていた。兄ちゃんは、すぐ寝る。ぼくの顎のすぐ下で、つむじからぴんと髪が一本立っているのが見えた。すっごく、邪魔。だけど、触って起こしたりしたら面倒だから、ぼくは首を曲げて兄ちゃんの頭をできるだけ視界に入れないようにして、勉強に戻った。

 ぼくたちは結合双生児で、だけど、普通の結合双生児とは違う。まあ、結合双生児ってだけで、全然普通じゃないんだけど。普通の結合双生児は、同じ形の双子が対称にくっついているものだ。背中合わせとか、向かい合わせとか、そんなのが多い。だけど、ぼくたちは違う。兄ちゃんには、手も、足も、胴体もない。頭と首だけがあって、他は、ぐにゃぐにゃとした肉のかたまりだ。両手両足揃ったぼくに、抱っこ紐で前向きに抱かれた赤ちゃんみたいにくっついている。兄ちゃんのくっついた胸は重くて、胸から腹にかけて伸びたぶよぶよとした皮の中に、兄ちゃんの出来損ないの内臓が詰まっている。だから、ぼくたちは厳密に言えば結合双生児じゃなくて、なんだっけ、なんちゃら寄生体、とか言ったような気がする。まあ、そんな区別、なんの意味もないんだけど。

「ただいま、幸太、翔太」

 リビングのドアが開いた。紺色の買い物袋を提げて、お母さんが帰ってきた。お母さんは、いつもにこにこと笑っている。笑っていない顔のお母さんを、見たことがないような気がする。怒っているときすらも。

「おかえり」

「あれ、幸太は寝てるの」

 ぼくが頷くと、お母さんはぐいと口角を持ち上げた。リビングの中をぐるりと眺めて、テーブルに目を止める。リモコンの位置が動いていることに気づかれた気がして、ぼくは、ごくりと息を飲んだ。お母さんは笑顔のままぐいと近づいていて、ぼくのノートを覗き込んだ。

「終わった?」

「あ、ううん、まだ……」

「ダメだよ、ちゃんと時間で終わらせなさい。学校に行ったら、誰も待ってくれないんだから」

 だって兄ちゃんが、とは言わない。ぼくは、ただ頷いた。お母さんは「がんばれ」と言って、リビングを出て行った。お母さんに声をかけられたせいで、途中までやった少数の割り算のひっ算がぐちゃぐちゃになっている。ああ、もうと、消しゴムで全部消して、また最初から解きなおす。兄ちゃんは、すやすやと寝息を立てている。小さな心臓と肺が一つしかない兄ちゃんは、一日のほとんどを眠って過ごしている。起きているときは、いつもぼくの邪魔をする。 

「4.56、割る、えっと、0.6……」

 ぽつりと問題を読み上げる声に、答える人は誰もいない。一つの身体に、頭が二つ。お父さんもお母さんも、他の誰とも、ぼくたちは似ていない。最近、お母さんはぼくに、「中学生になったら、学校に通うんだよ」って言うけれど、本気かな。ぼくがもし普通の形の人間で、ぼくたちみたいなやつが目の前に現れたら、なにより先に悲鳴を上げて逃げる。だって、気持ち悪いもん。普通の顔した子供の腹が奇妙に膨れていて、胸元に同じような顔がもう一個くっついているなんて、ちょっとした妖怪だ。ぼくたちは病院に行くとき以外は外に出ないし、学校にも行っていない。週に二回、学校の先生だって人が来て、勉強を教えてくれている。

「ええっと……、7.6、っと」

 がりがりと鉛筆を動かして、ようやく、ようやく答えが出る。耳の奥で、びりっと声がする。

「翔太ァ」

 寝息の隙間に挟まるから、思わず「えっ?」と声を上げる。兄ちゃんはすうすう寝ていて、声を上げたわけがない。またか、と頭を掻いた。兄ちゃんがずっとぼくの胸にくっついているせいで、四六時中、この声が聞こえてくる。そのたび、ぼくは手を止めて「兄ちゃん?」と声を上げる。そして、それまでなにをしていたのか、すっかり分からなくなってしまう。

「翔太ァ」

「翔太ァ」

「翔太ァ」

 聞こえないはずの声が響いて、頭ががんがんする。ぼくたちは外に出ないから、一日の流れが、お母さんの作った時間割で決まっている。三時までに終わらせなくちゃいけない算数の問題が、あと五問もある。三時になったらお母さんがリビングに来て、問題の丸つけをする。半分くらいは正解しないと、お母さんは笑顔のままでぼくを叱る。そういうときに限って、兄ちゃんは寝てる。せめて、一通り解いておかないとと、ぼくは鉛筆を握りなおした。

「翔太ァ」

 かちゃりと、ぼくは一度持ったフォークを置いた。白い皿の上に、それより白いケーキが乗っている。

「なぁに、兄ちゃん」

 リビングのテーブルを囲む椅子に座っているのはぼくだけで、リビングにいるのは、ぼくと兄ちゃんだけ。朝も昼も夜も、ぼくたちは、いつも二人で食事をする。お父さんとお母さんは、別の部屋で食べている。いつからそうかは、覚えていない。テレビで見る食卓は、たいてい家族みんな一緒なのになと、思うけれど言わない。だって、テレビに出てくる食卓には、胸から二つ目の頭が生えている子供なんかいないから。

「翔太ァ、オレにもケーキ」

「え、なに?」

「ケーキ、食わせろ」

 テーブルの上には、空になった皿が二つと、ケーキの皿が一つ。それから、長いストローのささったコップが一つ。左手で兄ちゃんの口に添えたストローを離して、「ダメだよ」と答える。兄ちゃんは、「ハァ?」と、不服そうな声を上げた。

「いいだろ、誕生日くらい」

 今日は、ぼくたちの十二歳の誕生日。誕生日の夕食は、毎年恒例、ちらしずしとフライドチキン、それからいちごのショートケーキだ。その全部をぼくだけが食べて、兄ちゃんは、いつもと同じ栄養補助のスムージー。胃も腸もなくて、細い食堂がぼくの胃にちょっとつながっているだけの兄ちゃんは、液体しか口にできない。ケーキとか、アイスとか、肉とか。だけど、その分兄ちゃんはわがまま放題で、好きな味のスムージーばっかり飲む。「いただきます」の前に、「野菜も全部食べなさい」と釘を刺されるぼくとは大違い。ぼくが口をひん曲げてブロッコリーを食べているとき、兄ちゃんは、ゆうゆうと甘いスムージーを飲んでいる。

「兄ちゃんは、こっちでしょ。今日、なに味?」

「飽きた」

「飽きたって、兄ちゃん、固形物ダメだよ」

「ちょっとくらい平気だろ。この前も」

「あとで、ぼくが怒られるんだけど」

 兄ちゃんはろくに返事もせずに、「ははっ」と笑った。兄ちゃんは、禁止されていることをぼくにやらせる。固形物を食べたり、雨の日に外に出たり、階段を駆け上がったり、湯舟に肩までつからせたり。一度、親に内緒で家から出て、二人だけで外を歩いたことがあった。そのときは、人生で初めて、お父さんとお母さんに怒鳴られた。そのとき、兄ちゃんは寝てた。

「いいから、ほらァ」

 あ、と兄ちゃんが口を開けた。ぼくの胸にくっついている兄ちゃんの顔は見えないけど、分かる。ぼくより一回り小さい頭は、だけど、顔は同じだ。洗面所で顔を洗うたびに、まだ寝てる兄ちゃんの顔が、鏡の中にある。声を聞けば、どんな顔をしているか分かる。聞かなくても、分かる。

「翔太ァ」

 でもとか、ダメとか、声は出なかった。ぼくは兄ちゃんに逆らえない。ぼくが弟で、兄ちゃんが、兄ちゃんだから。ケーキなんか、ぼくだって一年に一度しか食べない。それなのに、どうしてろくに飲み込めもしない兄ちゃんにあげなきゃいけないんだ。フォークを取って、三角のケーキの先っぽをすくい取る。色んなことを考えて、できるだけ小さく取ると、兄ちゃんは「ケチ」と唇を尖らせた。どうしてぼくが小さく取ったのかなんて少しも考えていない口元に、フォークを運んだ。銀色の上の白色が、するりと消えた。

「ん、うまい」

 普段は液体しか口にしない兄ちゃんは、二口目はねだらない。だから、ぼくがどれだけ小さく取るかにかかっている。兄ちゃんは、満足そうに「うん」と言うと、ふっと静かになった。

「兄ちゃん?」

 返事はなかった。兄ちゃんは、自分が満足するとすぐに寝る。普段は飲み切っているスムージーが、コップに半分残っている。あ、まずいな。お母さんがこれを見たら、ぼくが兄ちゃんにケーキをあげたってばれる。それで、ぼくが叱られる。兄ちゃんは、自分でなにもできないから、悪いことをするのはいつもぼくだ。でも、ぼくはいつも、悪くない。

「兄ちゃん」

 もう一度呼んで、返事がないことを確かめて、残ったケーキを食べる。最初の一口を奪われてしまったショートケーキは、ひどく味気ない気がした。三口で食べきって、息を吐く。そうやって、ぼくの十二歳の誕生日が終わった。

 目を開けると、天井が見えた。カーテンの隙間から入り込む光が、ぼんやりと白い線を描いている。クリーム色の天井が、じんじんと明るい。

「えっ?」

 思わず、声を上げた。天井、天井って? 目を覚まして、最初に見るのが天井なんて、あり得ない。だって、ぼくはいつも横向きに寝ている。仰向けだと、兄ちゃんが重くて息ができない。だから、目を覚まして最初に見るのは、兄ちゃんの髪の毛だ。

「翔太、起きた? 学校、遅刻するよ」

 ドアが開いて、お母さんがぼくに声をかけた。お母さんは、いつもにこにこと笑っている。

「え、学校?」

「ほら、今日、中間テストでしょ?」

「あ、え、そうだっけ……」

「早くしなさいね、ご飯、できてるから」

 スリッパの軽い足音がぱたぱたと廊下を歩いて、リビングに向かっていく。部屋の壁にひっかけたハンガーで、黒い服が揺れている。ああ、そうだ、あれはぼくの服。四月から平日毎日着ている服は、だけど、まだまだ真新しい。そうだ、ぼく、中学生になったんだ。あの服を着て、学校に行かないと。詰襟の黒い服の金色のボタンが、きらきらと光っている。

 するりと胸を撫でおろす。ぼくの胸にくっついていた、兄ちゃんの頭はない。未発達な内臓と肉が詰まっていた皮も、ない。ぼくの胸も、腹も、まるで最初からそうだったみたいに、ぺたりと平らになっている。

 そうだ、そうだった。兄ちゃんは、ぼくと切り離された。ある日、喋らなくなって、動かなくなって、ひどく重くなった兄ちゃんは、十二年間同じ身体で生きていたとは思えないくらい、ひどくあっさり切り取られた。そうして、ぼくはまるで産まれたときからそうだったみたいに、普通の人間と同じ身体になった。目を覚まして、最初に見る天井だって、ひどく見慣れたはずだった。

「翔太ァ」

 聞こえないはずの、声が聞こえた。だけど、兄ちゃんはどこにもいなかった。
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