世界でたったふたりきり

森 千織

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2、ラストメロディー

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 二つで一つの僕たちは、背中合わせで産まれてきた。二つで一つの俺たちは、お互いの顔を見たことがない。二つで一つの僕たちは、背中合わせで生きてきた。二つで一つの俺たちは、お互いの声を聞いたことがない。

 僕たちは双子で、身体がくっついている。後頭部の下のところ、うなじから頸椎の上までがくっついて、一つになっている。僕たちの脳は共有している部分が多すぎて、二人ともを生かしたまま、切り離すことはできないそうだ。産まれてから今の今まで、僕たちは、二人で一つだ。食事も、睡眠も、排泄も入浴も、二人で一緒に済ましている。決して他人でないはずの両親から見ても、その光景はひどく異様らしい。僕たちがなにかしていると、彼らはいつも目をそらす。その目がひどく悲し気で、思わず謝ってしまったことが、何度かある。この身体で産まれたのは、僕たちのせいじゃないのに。母親のせいでも父親のせいでもない。運が悪かったとかしか言いようがないし、僕たちは、そう悪いとも思っていない。

 俺たちの脳はくっついている。そのせいか、いくつも不自由を抱えている。背中合わせにくっついた俺たちは、自由に歩き回ることができない。一日のほとんどを、ベッドの上で過ごしている。頸動脈がくっついて奇形になっているせいで、血のめぐりが悪くて貧血がひどい。もちろん脳だって奇形で、そこかしこに支障がある。足がうまく動かなくて、自在に歩けない。杖を使えばいいとも思うけれど、指が上手に曲がらない。そして、俺は目が見えない。

 僕たちは、一日のほとんどをベッドの上で過ごしている。ベッドの真ん中に座り込んで、僕は一日絵を描いている。大きな写真集を広げて、景色の写真をまねて描くのが、最近のお気に入りだ。五十六色入りの色鉛筆を、目が覚めたときに全部削って、一日の終わりにどれだけ丸くなったのかを見る。風景の写真ばかりだから、青と緑が一番早く減っていく。それを見るのが、楽しい。

 俺は一日中ヘッドフォンをつけて、音楽を聞いている。クラシックでも、ロックでも、ポップスでも、聞こえてくるならなんでもいい。本当はヘッドフォンをつけないで聞きたいけれど、一日中音楽が聞こえてくるせいでノイローゼになりそうだからと母親が言ったから、ヘッドフォンをつけるようにした。本当はヘッドフォンなんかしないで、全ての音を耳に入れていたい。そう広くない部屋の中で、自然にきしむ壁や床の音とか、風で揺れる窓の音とか、背中の弟の息遣いとか、鉛筆の先が紙を擦る音とかを聞いていたい。母親がそれを許さないなら、仕方ないけれど。

「光」

 僕は兄の名前を呼んだ。自分の声は聞こえないし、出ているかどうか分からない。喉が小さく震えるから、なにかの音は出ているみたいと思うだけだ。ヘッドフォンから伝わる振動に合わせて小さく震えていた光が、ぴたりと動きを止めた。頭がぐいと持ち上がるのは、「なに?」の返事だ。

 響に名前を呼ばれた気がして、俺はヘッドフォンを外した。漏れるベースの音より小さな声が、俺の名前を呼ぶ。響の声は、俺以外には、言葉に聞こえない。布同士が擦れるみたいな、微かな音だ。俺は「なに?」の意味で、肘で響の背中をつついた。響がほっと息を吐いて、ことりと、色鉛筆をスケッチブックに置く。この音は、たぶん、青色の鉛筆。また空か海でも描いていたんだろう。俺は目が見えないけれど、響が見ているものなら、なんとなく分かる。青は、鼻の奥に冷たい空気が通るみたいな色だ。

 置かれたヘッドフォンで、ベッドが小さくへこむ。重く、どん、どどんと振動が伝わる。光が最近お気に入りの、十年くらい前に流行ったっていう海外のロックバンドの曲だ。黒字に赤、それか金色、そんな感じの音楽。鉛筆を置いた右手で、背中合わせの光に手を伸ばした。ベッドにぽとりと置かれた手は、同じ体温をしていた。

「明日、何時、なんだっけ」

「八時出発、だから、少し早く起きないとな」

「脳腫瘍二つと、動脈瘤?」

「入院、ちょっと、長くなるみたい」

 脳がくっついて産まれてきた俺たちは、今までに、何度も入院している。脳と首の血管がひどい奇形だから、生きているだけで腫瘍ができる。放っておくと命に関わるというので、俺たちは、年に一度は入院して、手術を受けている。成長するごとに、できる腫瘍は大きく、多くなって、入院期間は長くなり、手術の回数も増えていく。最近は、病院のベッドに慣れすぎて、どっちが家だか分からないくらいだ。俺が音楽を聞けて、響が絵を描ける場所なら、どこだっていいけれど。

「ねえ、光」

「なに、響」

 言葉がなくても、声が聞こえなくても、僕たちは通じている。頭の中で言葉を並べるだけで、僕たちは会話ができる。僕がどんな絵を描いているのが光には分かるし、光の聞いている音楽が、僕には分かる。確かめる術はないし、そんなの、気のせいかもしれない。僕が、都合がいいように思い込んでいるだけで、本当は何一つ通じていないのかもしれない。だけど、今まで不自由を感じたことはない。少なくとも、行きたい方向が逆になったことはない。僕たちが歩いていく場所なんか、トイレか洗面所か、風呂場くらいしかないけれど。

「生まれ変わっても、双子になろうね」

「死ぬ前から、来世の話?」

 そう答えて、俺は笑ってやる。そうして、頷いた。「生まれ変わったら」っていうのは、響の口癖だ。多いときは、毎日「おやすみ」の前に言っていた。今日言い出したのは、明日が、入院の日だからだろう。今まで何度もやっている単純な手術とは言え、頭を開かれて、脳みそをいじくられる手術だ。麻酔で眠ってしまえば、次また無事に目覚める保証はない。そうでもなくても俺たちは、いつ死ぬか分からない。細くてぐにゃぐにゃと不安定な血管が、いつ破裂するか分からない。そういう不安のせいなのか、響はいつからか、そんなことを言うようになった。正直なところ、俺は生まれ変わりなんか信じていない。だけど、響が言うなら、頷くくらいのことはする。それで、響が喜ぶんなら。

「いいよ、次も、双子になろう」

 僕の言葉に、いつもと同じに、光が答える。この問答に飽き飽きしているのは知っているけれど、僕たちは、既に全てに飽きている。なにかを作り出すこともできない僕たちは、ただここに座って、二人の頭の中で世界を作るしかない。僕は、少し笑った。

「次も、くっついてたら、どうしようね」

「んー、俺は、いいけど」

「僕は、今度は他のところがいいな。胸とか、腰とか、せめて顔が見られるくらい」

「ああ、そっか。俺はどこがくっついてても、声は、聞こえるから」

「次は、僕も声が聞きたい」

 頭の後ろ側がくっついて産まれてきた俺たちは、お互いの顔を見たことがない。少し前に、せめて目の見える響だけでもと、合わせ鏡で見ようとしたことがあった。だけど、角度がどうにもうまくいかずに、よくは見えなかったらしい。少し離れたところで父親と母親が話しているのを、俺だけが聞いていた。父親が、写真を撮れば響に見えるんじゃないかと言うのを、母親が、理由も言わずに反対していた。レントゲンやCTの映像以外に、俺たちが写った写真はない。

「もう寝よう、響」

「そうだね、光」

 僕はスケッチブックを閉じて、色鉛筆を片付けた。光はヘッドホンをベッドから届く棚に置いて、CDを整理している。一日中ベッドにいる僕たちは、一歩も動かずに、全ての用が足せるようになっている。窓のカーテンは開けられないまま、僕たちは、病院に行く以外に家から外に出たことがない。僕たちが住んでいるこの家がどういう形の建物で、何階建てで、僕たちの部屋が何階にあるのかすら、僕たちは知らない。もし父親と母親以外の家族がこの家に住んでいると言われても、驚きはしないだろう。耳の聞こえない僕には、誰の声だって聞こえない。光には、聞こえているかもしれないけれど。

「おやすみ、光」

「おやすみ、響、また明日」

 俺がそう言うと、響は喜ぶ。だから俺は、今日と同じ明日が来ると、単純に信じているふりをする。俺たちの毎日に、確かなものはなにもない。瞬きをするほんの一瞬に死んでしまっても、なんの不思議もない。確かなものはない。ただ、俺たちが、俺たちだってだけで。

「光」

 背中の兄の、名前を呼んだ。僕の喉が、小さく震えた。産まれたときから、今の今までくっついていた僕たちは、それなのに何一つ約束することができない。僕たちは二人で一つなのに、一人になれない半人前だ。一つだけ確かなのは、僕たちが、くっついて産まれてきたということだけ。

「僕たち、ずっと、一緒にいようね」

 響の声を最後に、俺たちは眠った。





 目を開けたら、朝だった。光の手が枕元を探っているのが見えて、目覚ましが鳴っているんだなと分かった。いつものように、代わりに僕が目覚ましを止めた。朝起きて、朝食は抜いて、父親の車で病院に向かう。いつもと同じ短期間の入院で、いつもと同じ、脳腫瘍と動脈瘤の手術。場所が場所だけに大変だけど、そう難しい手術じゃない。だから、僕たちは、説明もろくに受けずに麻酔を受けて手術室に入る。

 麻酔ガスを吸入するためのマスクは、青色の透明なプラスチックらしい。空と海のどっちが近いかと聞いたら、響は海だと言っていた。遠く遠くどこまでも続く海と空の、境目の色なんだ、と。聞き慣れた麻酔科医の声が、深く吸って、と言う。俺は、ふと思い立って息を止めた。しゅうしゅうと、ガスが送り込まれる音がする。その隙間に、小さな声がした。

「どのくらい、かかるんですか」

「はっきりとは、開けてみないと分かりませんね」

 霞む視界の端っこで、父親と母親が、僕たちを見下ろしているのが見えた。光とのつなぎ目が、じくりと痛む。お父さんも、お母さんも、何をしているんだろう。いつもは僕たちの麻酔が始まれば、さっさと家族待合室に行ってしまうのに。普段となにかが違う気がして、だけどそれがなにか分からなくて、僕は目を細める。

「どっちの方が、可能性が高いんですか」

「左側の方が、脳の血管がしっかりしてますね」

 聞き慣れた先生の声が、ぺらりとなにかをめくって言う。なんの話だろう、左って、誰から見た、どっち側だろう。背中合わせの俺たちは、右も左も、裏も表もない。

 視界がゆらゆらと揺れて、目を開けていられなくなる。父親も、母親も、もう僕たちのことを見ていない。先生が指し示すレントゲン写真をじっと見る目元が、ぼんやりと赤くなっているような気がする。

「先生、お願いします」

 かさかさに掠れた声は、父親のものか、母親のものかも分からなかった。産まれて初めて、目が見えればよかったのにと思う。同時に、父親と母親がどんな顔をしているかなんて、死んでも知りたくないと思った。こめかみがどくどくして、周囲の音が聞こえない。頭がゆらゆらして、なにも分からなくなる。

 分かるのは、僕たちが、くっついて産まれてきたということだけだ。二人が一つになっているということだけ。きっと何者も、僕たちを分かつことはできない。だけど、確かなことは、何一つなかった。





 目が覚めると、うつぶせて寝ていた。頭の中が重く痛んで、手をやると、ごつりと固いものが触れた。それはプラスチックのかたまりのように軽くて、土くれのようにざらざらとして、頭から首にかけてをしっかりと覆っていた。その向こうにはなにもなくて、ただ、空間が広がっている。

 腕や腹に刺さった針や、鼻に通された管の感触は慣れたものだった。妙な寒々しさを感じて腕をさすると、着ていたのは、いつもの病院着だった。

「おやすみ、また明日」

 昨日、眠る前にそう言ったのが誰だったのか、もう思い出せなかった。

 目を開けると、まばゆいばかりの音の波が全身を包んだ。今まで聞いたことのないような音と、見たこともないような光が、じりじりと全てを焼いた。

 そうして、おれは自分が、たった一人の人間になったことに気づいた。
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