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第1章 【初咲きの夜明け】
【6話】 闇の中の音色たち
しおりを挟む木の間を擦り抜け、川を飛び越え、丘を駆け上がり。
エスカを抱えた状態で走り続けるアギョウの顔色には、疲労というものが全く感じられなかった。
それどころか、息の一つも切らさない底無しの体力。
(この人…… 呼吸とかしてないのかしら?)
エスカの疑問を他所に、アギョウは続々と立ちはだかる障害を涼しげな顔で躱していく。
「あ、アギョウ! 右前方からおかしな風切音が聴こえてくるのだけれど!」
「む!? またか……おそらくバグだな。そこのルートは避けて通ることにしよう!」
アギョウは身体を傾け、大きく左に舵を切った。
多少遠回りしてでもバグとの遭遇は避けるべきだという考えのもとの行動。
しかしこれも、類稀なる耳を持っているエスカがいればこそのものである。
「……エスカくん。どうやらキミは相当に鋭い聴覚を持っているようだね!」
「んもぅ! またお世辞かしら! この……おじょーずさん!」
エスカはまたしても顔をニヤつかせ、照れ隠しにアギョウの肩をバシバシ叩く。
「いや、私は純粋に感動している。ここまでバグに遭遇しないとは……視覚に頼らず多くの情報が得られる特技は、夜の中では大変重宝する!」
実際、夜の中には多種多様なバグたちが所狭しと徘徊している。本来であれば遭遇しない、などという事象はほとんど起きない。
エスカの聴覚によるサポートが確実に効いている証である。
「ふむ……あとはこの夜さえ抜けることができれば」
――――そしてその瞬間は、二人が予想していたよりも早く訪れた。
「むむ! 見たまえエスカトーネくん!」
「え? なにかしら?」
突如大きな声で名を呼ぶアギョウ。
その声に釣られるまま前方を覗き見たエスカの瞳に、奇妙なものが映り込んだ。
「んん? 黒い……壁?」
アギョウの星が照らし出す視界の奥、進行方向の先に大きな黒い壁がそびえ立っていた。
当然、森の中にそんなものが自生しているわけがない。長年森を出入りしていたエスカも初めて見る光景だった。
よく見るとその壁は上下、左右どこまでも広がっており、アギョウの持つ巨大な星の光でも全容を照らし出すことができていなかった。
「あれが『夜』と外の境界だ!」
「あれが!?」
アギョウの言葉に、目を大きく見開いて反応するエスカ。
「あの黒い膜一枚……その向こう側はもう夜の外だ!」
(まだ屋敷までは距離がある……なのにここで夜が終わってるってことは……っ!)
「やったぁ! やったわアギョウ! きっとみんな無事よ!」
エスカの大きく開かれた口から、喜びに満ちた声が溢れる。
「ひとまずはめでたし、だな!」
アギョウはエスカにも負けないくらいの大きな返事を返すと、突き出す足にさらに力を入れ加速した。
そして――――
「――ぷはぁっ!!」
夜の境界を超えた瞬間、視界いっぱいに広がる青々とした草木、茶色の地面、そして真っ青な空。
木々の間から覗く太陽が、夜の闇に慣れきった瞳に突き刺さる。
閉塞感と恐怖による緊張から一気に解き放たれ、心が澄んでいく。
「も、もうバグは出てこないのよね? あの熊みたいなのも追ってこないのよね!?」
「もちろん! バグは夜の外に出ると蒸発して消える。追ってはこれないだろう」
それを聞いたエスカはホッと胸を撫で下ろし、徐々にスピードが落ちていくアギョウの背中から体を離す。
それと同時に、これまでアギョウに着いて回っていた透明な星も霧散し、跡形もなく消えてなくなった。
「さて、後は自分で歩くわ。屋敷に戻って手当てをしましょう」
「うむ」
背中から降りたエスカはアギョウの右横に寄り添うように立ち、自身のウエストほどはありそうな大きな腕を持ち上げた。
「肩、貸すわよ。余計疲れるっていうならやめるけど」
それだけ言うと、持ち上げた腕と体の間に自身の頭を滑り込ませ、宣言通り肩を貸す体勢を整える。
……しかし二人にはかなりの体格差がある上に、エスカは特別腕力に優れているわけではない。
断られるかもしれないと思ったが、意外にもアギョウはエスカの肩に遠慮なく体重を掛けてきた。
「すまないね。少し……甘えさせてもらおうか」
そう言いながら寄り掛かってくるアギョウの体からは、不思議と見た目ほどの重量を感じなかった。
「あら? アギョウ、貴方意外と軽いのね」
「ああ、やはり少女に体を預ける以上、こちらも軽くなるのがマナーというものだろう」
「……? 貴方の体重は可変式なのかしら?」
アギョウの発言の意味はよく分からなかったが、今に始まったことではないので軽く受け流すエスカ。
「……む! エスカくん。怪我をしているじゃないか! 大丈夫かい!?」
その時アギョウは、肩を貸すエスカの右手首に傷痕があることを発見した。
今まで薄暗い夜の中で活動していたので気づかなかったが、獣に噛まれたような傷が残っている。
「だーいじょうぶよよく見て、これは古傷。子供の頃犬に噛まれたときのモノよ。ほら、血なんて出てないでしょ?」
言いながらすぐに右手を捻り傷を隠そうとするその態度からは、あまりこの傷のことに触れないで欲しい……そんなデリケートな感情が見えた気がした。
「おっとすまない。レディに傷の話をするのは、英国紳士の所業ではないな!」
「……アナタさっきナパージュ国出身って言ってなかったかしら?」
話題を逸らすために放ったアギョウのジョークに、流れるように乗っかったエスカ。
「……まあ、そんなことより。クリングゾル邸はもうすぐそこよ。あと少し、頑張りましょ」
直前の会話を切るように話し始めると、心配になるほど重みのないアギョウを引っ張りながら足を前に動かす。
「そうだな、もう少し……て、もしやあの茶色い屋根の建物がそうなのかな?」
アギョウが指差した先、木々の間から僅かに覗く草原の向こう側に、建物らしきものがポツンと建っているのが見えた。
「ええ、そうよ。みんなアタシが居なくなって心配してると思うから、急いで帰らくっちゃね」
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