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ひととき、あか。
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目の前、無慈悲な赤が迫っている、夜の闇に。
この窮屈な世界で、
いちばん嫌な時間が訪れるのだ。
やめろ、とめるな、そんな言葉が脳を走る、
思考の隘路を走る。
しかしゆっくりと、ぎこちなく、
この箱は減速する。
何を隠そう、止めたのはこの右足だ。
ちくしょう。
今日もあの、残酷な静寂が訪れるのだ。
君との時間を思い返す。
あてつけな赤が、
僕の心臓に悔恨と自戒の棘を突き立てるからだ。
こうなったら、
君と僕の全てを追求してやるという気さえした。
全てというのは、
記憶の中で反芻可能な何もかもだ。
ふたりにまつわるあらゆる思念だ。
僕は丁寧に思い出し、噛み締める。
話の途中で鏡を見る君の、
隔絶されたような無表情な横顔を。
嫌な話はスマホの画面に相槌打つクセを。
不機嫌なとき、
鞄から取り出すキーケースの五月蠅さを。
それと反比例する口数を。
…………。
君が初めて、僕に笑いかけた理由も。
その場所が、
最高に汚いゲーセンのベンチだったことも。
全く会話が盛り上がらない居酒屋も。
何でもないチロルチョコを、
二人で分け合う時の幸せそうな顔も。
そしていつも僕には、
「きなこもち」が来ることも。
…………。
揃いかけのパズルを途中で放棄して、
シャワーを浴びに行った君の仏頂面。
そのときにしてた、
全くつまらない僕の身の上話。
その次の日に作ってくれたナポリタンが、
最高に美味かったこと。
それさえしばらく無言で食べていたこと。
いつのまにか元通り笑ってる君。
君が髪を切ったこと、
初めて折りよく気づいて褒めたこと。
それによって喜ぶ君、
そしてなぜかその君に褒められる僕、
あのくすぐったさ。
まだだ。こんなもんじゃないんだ。
取り繕われた表情、
一転して、
君が泣くときの困惑。
理屈を超えた先に流れる君の涙、
それを知ろうとする痛み、
いつまでも交わらない情と理。
お気に入りのデニムがほつれたとき、
新しいものをプレゼントしたこと、
それがしばらく履かれなかったこと、
君の嗜好を計りかねたこと。
あんなにも柔らかな肌、しなやかな肢体、
しかしどこまでも拒絶を貫く強さ、
それを持たなければならなかったこと、
それによって、僕は君と出会えたこと。
ほつれひとつない髪、
それを器用にまとめる君。
多少の寝癖を恥ずかしそうに隠す君。
そしていつの間にか当たり前になる、
二人で迎える朝。
就寝前、長髪を結わう君の後ろ姿、
纏われた淡いパープルのキャミソール、
歳に似合わぬフリル、その皺の翳り。
疲れ果てた君、早くに寝てしまった夜、
床に置き去りのスエードのジャケット、
その襟に残るファンデーション、
じっと見る、
何故か痺れた心臓、
そしてそのまま、
眠る君にキス、したこと。
ああ、もう堪らないのだ。
君はいつも僕のなにかに怒っていて、
僕も君のどこかに不満を感じていて、
でもどうしようもなくて、
二人で生きるしかないこと、
この窮屈な箱の中で。
どんなに絶望しても、
君はあの箱を捨てないこと。
僕が今まで君に書いた手紙、
その全て、
一切を宝物にしてくれたこと。
『あなたの言葉が好き』
その言葉が何より嬉しかったこと。
その言葉を生んだ自分の心を、
初めて抱きしめてやりたいと思えたこと。
『顔よりも言葉が綺麗ね。
……ごめんなさい、照れ隠しなの』
やはり君はその言葉を言ってくれること。
『大好き。んーん、愛してる』
こんなにだ。
こんなにあるのに……この静寂の理由を、
僕は決して見つけられないのだ。
ちくしょう。
揺れる、心が、世界が。
静かに、小刻みに、揺れ続ける。
痛いのだ、静寂が……。
「ねえ、信号。青になったよ」
あ。
助手席の君、その声は、冷めてない。
「ごめん、少しぼうっとしてた」
引き戻された車内は、あまりにも普通で。
「大丈夫? 疲れてるのに、ごめんね」
なんで君がそんなことを言うんだよ。
「いいや、大丈夫だよ」
そして緑の光を通り越す、『もう、大丈夫』。
「ねえ。さっき、私への不満を数えてたでしょ」
「なんのことかな」
僕は案外、愉快になって応えた。
君もやっぱり、笑ってた。
「無言になってごめんなさい。
どうしたらいいか、分からなくなるのよ、私。
せっかく連れ出してくれたのにね」
僕らの車は海沿いへといざなわれる。
助手席側の月明かり、照らされる君、
その髪にはターコイズのバレッタ、
背中には無限の星……調和している。
「海に行くの、嫌だったんだろ。
潮風に煽られるから……せっかく纏めた髪が」
「ふふ、ねえ、今さら分かっても褒めないわ」
もう褒めなくたっていいさ。
僕らはただ笑う。
「もう行けるとこ無いしな」
だからもう、どこまでも行こうか。
「どこまでも行っていいわ」
今夜限りなら、あの永遠にも似たひとときを、
手懐けられる気がするのだ。
その永遠を、僕はいつか、言葉にするだろう。
この窮屈な世界で、
いちばん嫌な時間が訪れるのだ。
やめろ、とめるな、そんな言葉が脳を走る、
思考の隘路を走る。
しかしゆっくりと、ぎこちなく、
この箱は減速する。
何を隠そう、止めたのはこの右足だ。
ちくしょう。
今日もあの、残酷な静寂が訪れるのだ。
君との時間を思い返す。
あてつけな赤が、
僕の心臓に悔恨と自戒の棘を突き立てるからだ。
こうなったら、
君と僕の全てを追求してやるという気さえした。
全てというのは、
記憶の中で反芻可能な何もかもだ。
ふたりにまつわるあらゆる思念だ。
僕は丁寧に思い出し、噛み締める。
話の途中で鏡を見る君の、
隔絶されたような無表情な横顔を。
嫌な話はスマホの画面に相槌打つクセを。
不機嫌なとき、
鞄から取り出すキーケースの五月蠅さを。
それと反比例する口数を。
…………。
君が初めて、僕に笑いかけた理由も。
その場所が、
最高に汚いゲーセンのベンチだったことも。
全く会話が盛り上がらない居酒屋も。
何でもないチロルチョコを、
二人で分け合う時の幸せそうな顔も。
そしていつも僕には、
「きなこもち」が来ることも。
…………。
揃いかけのパズルを途中で放棄して、
シャワーを浴びに行った君の仏頂面。
そのときにしてた、
全くつまらない僕の身の上話。
その次の日に作ってくれたナポリタンが、
最高に美味かったこと。
それさえしばらく無言で食べていたこと。
いつのまにか元通り笑ってる君。
君が髪を切ったこと、
初めて折りよく気づいて褒めたこと。
それによって喜ぶ君、
そしてなぜかその君に褒められる僕、
あのくすぐったさ。
まだだ。こんなもんじゃないんだ。
取り繕われた表情、
一転して、
君が泣くときの困惑。
理屈を超えた先に流れる君の涙、
それを知ろうとする痛み、
いつまでも交わらない情と理。
お気に入りのデニムがほつれたとき、
新しいものをプレゼントしたこと、
それがしばらく履かれなかったこと、
君の嗜好を計りかねたこと。
あんなにも柔らかな肌、しなやかな肢体、
しかしどこまでも拒絶を貫く強さ、
それを持たなければならなかったこと、
それによって、僕は君と出会えたこと。
ほつれひとつない髪、
それを器用にまとめる君。
多少の寝癖を恥ずかしそうに隠す君。
そしていつの間にか当たり前になる、
二人で迎える朝。
就寝前、長髪を結わう君の後ろ姿、
纏われた淡いパープルのキャミソール、
歳に似合わぬフリル、その皺の翳り。
疲れ果てた君、早くに寝てしまった夜、
床に置き去りのスエードのジャケット、
その襟に残るファンデーション、
じっと見る、
何故か痺れた心臓、
そしてそのまま、
眠る君にキス、したこと。
ああ、もう堪らないのだ。
君はいつも僕のなにかに怒っていて、
僕も君のどこかに不満を感じていて、
でもどうしようもなくて、
二人で生きるしかないこと、
この窮屈な箱の中で。
どんなに絶望しても、
君はあの箱を捨てないこと。
僕が今まで君に書いた手紙、
その全て、
一切を宝物にしてくれたこと。
『あなたの言葉が好き』
その言葉が何より嬉しかったこと。
その言葉を生んだ自分の心を、
初めて抱きしめてやりたいと思えたこと。
『顔よりも言葉が綺麗ね。
……ごめんなさい、照れ隠しなの』
やはり君はその言葉を言ってくれること。
『大好き。んーん、愛してる』
こんなにだ。
こんなにあるのに……この静寂の理由を、
僕は決して見つけられないのだ。
ちくしょう。
揺れる、心が、世界が。
静かに、小刻みに、揺れ続ける。
痛いのだ、静寂が……。
「ねえ、信号。青になったよ」
あ。
助手席の君、その声は、冷めてない。
「ごめん、少しぼうっとしてた」
引き戻された車内は、あまりにも普通で。
「大丈夫? 疲れてるのに、ごめんね」
なんで君がそんなことを言うんだよ。
「いいや、大丈夫だよ」
そして緑の光を通り越す、『もう、大丈夫』。
「ねえ。さっき、私への不満を数えてたでしょ」
「なんのことかな」
僕は案外、愉快になって応えた。
君もやっぱり、笑ってた。
「無言になってごめんなさい。
どうしたらいいか、分からなくなるのよ、私。
せっかく連れ出してくれたのにね」
僕らの車は海沿いへといざなわれる。
助手席側の月明かり、照らされる君、
その髪にはターコイズのバレッタ、
背中には無限の星……調和している。
「海に行くの、嫌だったんだろ。
潮風に煽られるから……せっかく纏めた髪が」
「ふふ、ねえ、今さら分かっても褒めないわ」
もう褒めなくたっていいさ。
僕らはただ笑う。
「もう行けるとこ無いしな」
だからもう、どこまでも行こうか。
「どこまでも行っていいわ」
今夜限りなら、あの永遠にも似たひとときを、
手懐けられる気がするのだ。
その永遠を、僕はいつか、言葉にするだろう。
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