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五章 第四皇子、白百合のために抗す。
5-4 想いの自覚
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「瓔偲」
燎琉は再び相手の名を、どこかうっとりと呼んでいた。
薄いくちびるを親指の腹でなぞっても、瓔偲は嫌がらなかった。身を逃れさせようとするでもなく、しずかに目を閉じたままでいる。
くちびるが重なる寸前、ほう、と、ちいさな吐息がもれた。燎琉は自分も目を伏せ、そ、と、瓔偲のくちびるに己のそれを重ねる。 豊かに甘く、清らかに澄んだ、白百合の香りがした。
「殿下……」
くちびるが離れた刹那、瓔偲がちいさく燎琉を呼んだ。彼我の吐息が混ざる距離で見詰めあう。黒曜石の眸が潤んでいた。その熱っぽさに至近距離で出逢った刹那、堪らないきもちになって、燎琉は瓔偲を掻き抱いた。
貪るようにくちづけする。
細い肩を抱く腕に力が籠り、ぎゅう、と、いっそ撓めるほどに強く抱擁しながら、しばらく接吻を続けた。口中に舌を差し入れ、絡め、息を乱して夢中で味わう。
瓔偲はすこしも厭がらなかった。されるがままになりながら、けれども、再びふとくちびるが離れた瞬間、熱っぽく潤んだ黒眸を、間近からじっと燎琉に向けた。
「殿、下……どうし、て」
濡れたくちびるから漏れた小声に、燎琉ははっと我に返った。
「あ……わ、わるい」
瓔偲の身体を離し、気まずさから目を逸らしている。
「その……周じぃの、薬」
慌てたように相手から距離を取りつつ言った言葉は、別に、たしかな意味があったわけではない。単に自分の先程の行動を誤魔化すように、口にしただけのものだった。
けれども、言ってから、思う。周華柁から預かった薬は、そういえば、瓔偲の房間まで届けたものの、いろいろと慌ただしくするままに、結局は説明もなにもなしに置いてきた形になっていたのではなかったか。
「じぃからの薬、昨日、きちんとは手渡せなかったが……大丈夫だったか?」
たしかめると、こちらもどこか、ぼう、と、なっていた瓔偲も、それで我を取り戻したらしかった。はたはたと瞬いて、気を落ち着けるようにしたその後で、はい、と、短く返事をする。
「先程呑みました。だいじょうぶです」
「そうか」
燎琉は、ほう、と、息を吐いた。
「呑まなければ、殿下にだけは、ご迷惑をおかけすることになりますから……これからも気をつけます。殿下には、ご安心を」
続けてそう言われて、燎琉は思わず息を呑んだ。
そうだ。燎琉とつがいになった瓔偲は、癸性とはいえ、もはやつがいの甲性である燎琉のほかには、その発情時の芳香に反応する者はない。つがいとは、そういう特別な間柄なのだ。
ふいに堪らない感情に駆られて、燎琉は瓔偲のほうに手を伸ばした。その身を引き寄せ、再び抱き締める。
「殿下……?」
瓔偲は不思議そうにしたが、燎琉は腕をゆるめることが出来なかった。
彼は自分のつがいだ。唯一の絆を結んだもの――……いま堪らず抱き締めたいと思うのも、先にくちづけてしまったのも、自分たちがつがいだからだろうか。
そうなのかもしれない、と、おもう。
それでも、燎琉の中にはひとつだけ、確かなことがあった。
いま自分が瓔偲に対して抱く想いは、宋清歌に対して抱いていたものとは、確実に違っている。たとえば家柄や年齢が申し分ないだとか、おっとりとしていて好ましいだとか、そんな消極的なそれではなくて、肚の奥から滾々と湧くような切実な感情だ。
これがたとえつがいになったから生じた想いだとしても、燎琉はそれでも構わなかった。だって、それでも、燎琉の中にその感情が存在しているのは確かなのだ――……ほんとうは、手放したくない、と、思ってしまっている。
この先も、瓔偲にはずっと、燎琉の傍にいてほしかった。
けれども、と、燎琉は瓔偲を抱き締めながら眉を寄せる。己のその望みを叶えることは、瓔偲の国官への想いを、国への、民への、奉仕の想いを、踏みにじるのと等しいのだ。
瓔偲には望む道を歩んでほしいと思う。
けれども一方で、彼を傍に留めておきたいのも本当だ。
どうしたらいいのだろう。
わからない。
わからないけれども、自分の気持ちに嘘を吐きとおすことが出来るとは、思えなかった。いままでのように、聞き分けのいい己ではいられない。燎琉は瓔偲を抱く腕に力を籠めた。
いまの燎琉は、身勝手にも、瓔偲に訴えてしまいたいのだ――……皇帝の勅命は白紙にしなくてもいい、と。むしろ、このまま自分は瓔偲を娶りたいとおもっているのだ、と。
瓔偲を抱き締めたままの燎琉は、ほう、と、長く息をついた。
泣きそうだ。眉をひそめる。
頬が歪む。清歌の身勝手を責めておいて、それなのに、自分だってまた勝手を通したいと願っていることに反吐が出た。だから浮かぶ笑みは自嘲のそれだ。
それでもなお、燎琉は、この想いを瓔偲に真っ直ぐに伝えてみたいと思っていた。
清潔で、甘くやさしい、百合の香りが燎琉を包みこむ。
それと離れるのを名残惜しく想いながらも、燎琉はまた、ほう、と、ひとつ息をついて、瓔偲を抱く腕をゆっくりとほどいた。
「仕事、いってくる。帰ったら……お前と、話がしたいんだ。――聞いてくれるか?」
燎琉は眉根を寄せて冀うように言う。瓔偲は燎琉の表情に戸惑うふうを見せながらも、やがて、こく、と、ちいさく頷いてみせた。
それを確かめて燎琉は、ふ、と、口許をゆるめた。
「行ってくる」
「いっていらっしゃいませ、殿下。――あの、今日も、書房の整理をしていても、ご迷惑ではありませんか?」
おずおずと訊ねられ、燎琉は目を瞬いた。
そんなことにすら迷惑という言葉を持ち出す瓔偲の在り方が、すこしだけ、せつない。迷惑だなんて思うわけがないのに、と、泣きそうな笑みとともにそんな想いをこめて、瓔偲の白い手指の先をそっと握った。
「うん、たのむ……たすかるよ」
「ありがとうございます。殿下には、よいお仕事を」
瓔偲に見送られながら、燎琉は椒桂殿の門へと向かった。
帰ったら瓔偲に言おうと思う。彼は自分の唯一のつがいだからだ。彼をつがいにして、その人生を掻き回してしまった者としての責任も、燎琉にはあるからだ。
伝えてみようと思う。
たとえ国官への想いゆえに瓔偲がそれを受け入れてはくれなかったとしても、それでも、きちんと話をしておきたかった。伴侶になってほしい、と、この先も傍にいてほしいのだ、と、そう、自分の言葉で、自分の想いを、自分のつがいである彼に正直に伝えたかった。
*
「――……殿下っ! 燎琉殿下っ!!」
血相を変えた皓義が、燎琉のいる工部の官府へ飛び込んできたのは、その後、午をいくらか過ぎた頃だったろうか。
普段飄々としている侍者がめったと見せることのない慌て振りを目にした刹那には、もう、燎琉は肝の冷える思いを味わっていた。
「どうした、皓義!?」
「瓔偲さまが……瓔偲さまが」
「瓔偲がなんだ!? 何があった!?」
問う燎琉に、ここまで駆けて来たらしい皓義は息を乱したままで、近衛が、と、そう告げた。
「陛下の勅で、近衛の士卒が椒桂殿に……瓔偲さまが縄を受けて、内殿へ引き立てられていきました。第四皇子殿下に対する叛逆の罪で捕縛する、と」
皓義の口にした信じられない、また事実無根の罪状に、燎琉は息を呑む――……先手を、打たれた。
宋家が、もしかするとあるいは万貴妃の周辺も、燎琉たちに先んじて動いたのだ。彼らが皇帝に働きかけたこと以外に、いまのこの事態の原因としては、考えられなかった。
「皓義、叔父上にも連絡を……!」
燎琉は従者に短く言い置くと、弾かれたように走り出した。
燎琉は再び相手の名を、どこかうっとりと呼んでいた。
薄いくちびるを親指の腹でなぞっても、瓔偲は嫌がらなかった。身を逃れさせようとするでもなく、しずかに目を閉じたままでいる。
くちびるが重なる寸前、ほう、と、ちいさな吐息がもれた。燎琉は自分も目を伏せ、そ、と、瓔偲のくちびるに己のそれを重ねる。 豊かに甘く、清らかに澄んだ、白百合の香りがした。
「殿下……」
くちびるが離れた刹那、瓔偲がちいさく燎琉を呼んだ。彼我の吐息が混ざる距離で見詰めあう。黒曜石の眸が潤んでいた。その熱っぽさに至近距離で出逢った刹那、堪らないきもちになって、燎琉は瓔偲を掻き抱いた。
貪るようにくちづけする。
細い肩を抱く腕に力が籠り、ぎゅう、と、いっそ撓めるほどに強く抱擁しながら、しばらく接吻を続けた。口中に舌を差し入れ、絡め、息を乱して夢中で味わう。
瓔偲はすこしも厭がらなかった。されるがままになりながら、けれども、再びふとくちびるが離れた瞬間、熱っぽく潤んだ黒眸を、間近からじっと燎琉に向けた。
「殿、下……どうし、て」
濡れたくちびるから漏れた小声に、燎琉ははっと我に返った。
「あ……わ、わるい」
瓔偲の身体を離し、気まずさから目を逸らしている。
「その……周じぃの、薬」
慌てたように相手から距離を取りつつ言った言葉は、別に、たしかな意味があったわけではない。単に自分の先程の行動を誤魔化すように、口にしただけのものだった。
けれども、言ってから、思う。周華柁から預かった薬は、そういえば、瓔偲の房間まで届けたものの、いろいろと慌ただしくするままに、結局は説明もなにもなしに置いてきた形になっていたのではなかったか。
「じぃからの薬、昨日、きちんとは手渡せなかったが……大丈夫だったか?」
たしかめると、こちらもどこか、ぼう、と、なっていた瓔偲も、それで我を取り戻したらしかった。はたはたと瞬いて、気を落ち着けるようにしたその後で、はい、と、短く返事をする。
「先程呑みました。だいじょうぶです」
「そうか」
燎琉は、ほう、と、息を吐いた。
「呑まなければ、殿下にだけは、ご迷惑をおかけすることになりますから……これからも気をつけます。殿下には、ご安心を」
続けてそう言われて、燎琉は思わず息を呑んだ。
そうだ。燎琉とつがいになった瓔偲は、癸性とはいえ、もはやつがいの甲性である燎琉のほかには、その発情時の芳香に反応する者はない。つがいとは、そういう特別な間柄なのだ。
ふいに堪らない感情に駆られて、燎琉は瓔偲のほうに手を伸ばした。その身を引き寄せ、再び抱き締める。
「殿下……?」
瓔偲は不思議そうにしたが、燎琉は腕をゆるめることが出来なかった。
彼は自分のつがいだ。唯一の絆を結んだもの――……いま堪らず抱き締めたいと思うのも、先にくちづけてしまったのも、自分たちがつがいだからだろうか。
そうなのかもしれない、と、おもう。
それでも、燎琉の中にはひとつだけ、確かなことがあった。
いま自分が瓔偲に対して抱く想いは、宋清歌に対して抱いていたものとは、確実に違っている。たとえば家柄や年齢が申し分ないだとか、おっとりとしていて好ましいだとか、そんな消極的なそれではなくて、肚の奥から滾々と湧くような切実な感情だ。
これがたとえつがいになったから生じた想いだとしても、燎琉はそれでも構わなかった。だって、それでも、燎琉の中にその感情が存在しているのは確かなのだ――……ほんとうは、手放したくない、と、思ってしまっている。
この先も、瓔偲にはずっと、燎琉の傍にいてほしかった。
けれども、と、燎琉は瓔偲を抱き締めながら眉を寄せる。己のその望みを叶えることは、瓔偲の国官への想いを、国への、民への、奉仕の想いを、踏みにじるのと等しいのだ。
瓔偲には望む道を歩んでほしいと思う。
けれども一方で、彼を傍に留めておきたいのも本当だ。
どうしたらいいのだろう。
わからない。
わからないけれども、自分の気持ちに嘘を吐きとおすことが出来るとは、思えなかった。いままでのように、聞き分けのいい己ではいられない。燎琉は瓔偲を抱く腕に力を籠めた。
いまの燎琉は、身勝手にも、瓔偲に訴えてしまいたいのだ――……皇帝の勅命は白紙にしなくてもいい、と。むしろ、このまま自分は瓔偲を娶りたいとおもっているのだ、と。
瓔偲を抱き締めたままの燎琉は、ほう、と、長く息をついた。
泣きそうだ。眉をひそめる。
頬が歪む。清歌の身勝手を責めておいて、それなのに、自分だってまた勝手を通したいと願っていることに反吐が出た。だから浮かぶ笑みは自嘲のそれだ。
それでもなお、燎琉は、この想いを瓔偲に真っ直ぐに伝えてみたいと思っていた。
清潔で、甘くやさしい、百合の香りが燎琉を包みこむ。
それと離れるのを名残惜しく想いながらも、燎琉はまた、ほう、と、ひとつ息をついて、瓔偲を抱く腕をゆっくりとほどいた。
「仕事、いってくる。帰ったら……お前と、話がしたいんだ。――聞いてくれるか?」
燎琉は眉根を寄せて冀うように言う。瓔偲は燎琉の表情に戸惑うふうを見せながらも、やがて、こく、と、ちいさく頷いてみせた。
それを確かめて燎琉は、ふ、と、口許をゆるめた。
「行ってくる」
「いっていらっしゃいませ、殿下。――あの、今日も、書房の整理をしていても、ご迷惑ではありませんか?」
おずおずと訊ねられ、燎琉は目を瞬いた。
そんなことにすら迷惑という言葉を持ち出す瓔偲の在り方が、すこしだけ、せつない。迷惑だなんて思うわけがないのに、と、泣きそうな笑みとともにそんな想いをこめて、瓔偲の白い手指の先をそっと握った。
「うん、たのむ……たすかるよ」
「ありがとうございます。殿下には、よいお仕事を」
瓔偲に見送られながら、燎琉は椒桂殿の門へと向かった。
帰ったら瓔偲に言おうと思う。彼は自分の唯一のつがいだからだ。彼をつがいにして、その人生を掻き回してしまった者としての責任も、燎琉にはあるからだ。
伝えてみようと思う。
たとえ国官への想いゆえに瓔偲がそれを受け入れてはくれなかったとしても、それでも、きちんと話をしておきたかった。伴侶になってほしい、と、この先も傍にいてほしいのだ、と、そう、自分の言葉で、自分の想いを、自分のつがいである彼に正直に伝えたかった。
*
「――……殿下っ! 燎琉殿下っ!!」
血相を変えた皓義が、燎琉のいる工部の官府へ飛び込んできたのは、その後、午をいくらか過ぎた頃だったろうか。
普段飄々としている侍者がめったと見せることのない慌て振りを目にした刹那には、もう、燎琉は肝の冷える思いを味わっていた。
「どうした、皓義!?」
「瓔偲さまが……瓔偲さまが」
「瓔偲がなんだ!? 何があった!?」
問う燎琉に、ここまで駆けて来たらしい皓義は息を乱したままで、近衛が、と、そう告げた。
「陛下の勅で、近衛の士卒が椒桂殿に……瓔偲さまが縄を受けて、内殿へ引き立てられていきました。第四皇子殿下に対する叛逆の罪で捕縛する、と」
皓義の口にした信じられない、また事実無根の罪状に、燎琉は息を呑む――……先手を、打たれた。
宋家が、もしかするとあるいは万貴妃の周辺も、燎琉たちに先んじて動いたのだ。彼らが皇帝に働きかけたこと以外に、いまのこの事態の原因としては、考えられなかった。
「皓義、叔父上にも連絡を……!」
燎琉は従者に短く言い置くと、弾かれたように走り出した。
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