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1巻 鈴の恋する女将修業

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 目の前の美しく気高き狼に言葉もなく見惚れながら、なんだか鈴は、ずっと憧れ続けていたアイドルに会えたような気分だった。ずっと空想の中だけの存在だったしろさまが目の前に現れたのだ。
 白狼は飛び上がり、再び人間の姿になる。そして鈴を見つめて意味深な笑みを浮かべた。

「それにしても、鈴に〝しろさま〟と呼ばれるのはいいものだね。もう一度呼んでおくれ」

 その言葉にぎょっとして、鈴は慌てて口を押さえた。〝しろさま〟というのは、鈴の心の中だけの呼び方だからだ。
 この村の人たちは皆〝白妙さま〟と敬意を込めて呼んでいる。鈴だって誰かの前で口にするときはそうしている。

「も、申し訳ありません!」

 真っ青になって鈴は深々と頭を下げる。神さまをあだ名で呼んでしまうなんて、絶対にやってはいけないことだった。
 白妙が一瞬驚いたように瞬きをして、すぐにふわりと尻尾を揺らして微笑んだ。

「謝らなくていい。いいものだなと言ったじゃないか」
「でも……」
「もう一度聞きたい。ほら、呼んでおくれ、しろさまと」
「え⁉ えーと……」

 叱るどころか、嬉々としてもう一度呼べと言う白妙に、鈴は面食らって言葉に窮する。なんだか変な気分だった。にこにことして、「ほらほら」と鈴を促す白妙は、町で知られている天河村の山神さまというイメージとは随分と違っている。

「ほら、早く」
「で、でも、白妙さまをそんなふうに呼ぶわけには……」

 躊躇して鈴は戸惑う。白妙が口を尖らせた。

「なんだ、いつもは呼んでくれるじゃないか。しろさま、しろさまって。あれを声に出してくれるだけでいいのに」
「いつもって……え⁉ ええ! もももしかして……!」

 言いながら鈴は真っ赤になってしまう。そのいつもというのは、もしかして風呂の相談タイムのことだろうか。
 白妙がうれしそうに頷いた。

「毎日の私の楽しみだ。この二年間、鈴が来なくて寂しかったんだよ」
「あ、あ、あれを聞かれていたんですか……?」
「もちろんだ。鈴は私に話していたんだろう?」

 にっこり笑う彼を見つめて、鈴はこれまで自分がタイル画に向かって話をした内容を一生懸命思い出そうとする。でも頭が混乱していて無理だった。
 ……とにかく、誰にも言えないような恥ずかしいことばかりだったのは間違いない。
 冷や汗をかく鈴をよそに、白妙がうっとりとした。

「鈴に『しろさま』と呼ばれると、何もかも鈴の思い通りにしてあげたくなるんだよ。もちろん、そんなことはしていない。なんといっても私は神さまなのだから。村の者には公平であらねばならないと、佳代に口を酸っぱくして言われているし……いやそもそもこの取り決めには、私は不満なのだけれど」

 何やらぶつぶつと言っている。その言葉に鈴はハッとした。

「そうだ、おばあちゃん……」

 あまりの出来事にスコンと頭から抜けていた祖母のことを思い出して、また暗い気持ちになる。
 白妙が鈴のそばでしゃがみ、大きくて温かい手で鈴の頭を撫でた。

「大丈夫だ」
「……しろさま」
「大丈夫」

 満月色の瞳と、頭から感じる温もりに、鈴の中に渦巻いている真っ黒な不安が少しずつ薄まっていく。おばあちゃんは必ずここへ帰ってくると自分に言い聞かせた。

「そうですね」

 少し心が落ち着いて頷くと、どっと疲れを感じて急に眠くなる。半分になった目を擦った。

「今日はもうおやすみ。疲れただろう」

 優しい声音とともに、鈴はふわりと抱き上げられた。

「あ」
「部屋まで運んでやろう」

 敬い大切にするべき神さまに、部屋に連れて行ってもらうなどあってはならないと思うのに、もう身体に力が入らない。
 頬に感じるしじら織の浴衣からは、替えたての畳のようないい香りがする。ゆらゆらと心地のいい振動に逆らうことはできなかった。目を閉じると夢の世界はすぐそこだ。

「おかえり、鈴。よく帰ってきたね」

 優しい言葉を聞きながら、鈴は眠りに落ちていった。



     第二章 鈴の決意


 清々しい朝の空気の中、小鳥のチュンチュンというさえずりを聴きながら、鈴はゆっくりと目を開く。古い木枠の傘の電気が吊り下がる見慣れた天井が目に入った。
 いぬがみ湯の祖母の部屋だ。時々泊まる鈴のために、専用の布団と枕、パジャマが置いてある。そのパジャマを着て、畳の上に敷かれた布団に寝ている。

「あれ……? 私……」

 首を傾げながら起き上がる。なぜここにいるのか、すぐには思い出せなかった。

「えっと……確か昨日はこの町に帰ってきて……」

 だんだんと昨日のことを思い出す。
 突然倒れた祖母のこと、両親との諍い、そしてそのあとの……

「あ……! しろさま……?」

 そうだ、タイル画の中だけの存在だと思っていた白妙が現れたのだ。そのあとで記憶が途切れているけれど、今ここにいるということは……

「あれは……夢?」

 そうなのだろう、と鈴は思う。でもだからといってただの夢だとは思わなかった。
 なんといっても神さまなのだ。夢の中に現れて落ち込んだ鈴を励ましてくれたのだろう。その証拠に、昨日はあんなにいろいろなことが起きたのに、まったく疲れが残っていないし、頭もすっきりとしている。そして、不安だらけだった気持ちも落ち着いていた。
 鈴は目を閉じて胸を押さえてつぶやく。

「しろさま、ありがとうございます」

 そしてまた目を開けたとき、玄関の扉をガラガラと開ける音がした。
 時計を確認すると八時を過ぎたところだった。
 こんな朝に誰だろう?
 鈴がガラス戸を開けて確認すると、玄関で靴を脱いでいたのは、父の宗一郎だった。

「ああ、鈴おはよう」

 父は鈴の顔を見ても驚きもせずに、番台を回り込み部屋の中へ入ってくる。
 両親、特に母と揉めたときに、鈴が祖母のところに泊まるのは昔からよくあることで、昨夜鈴が家を飛び出したあとも特に捜しにこなかったのはここにいるという確信があったからだろう。

「おばあちゃんの保険証を取りに来たんだよ。鈴、どこにあるかわかるか?」
「……おばあちゃんはそこの引き出しに大事な物を入れてたような気がする」

 もはやアンティークといえるような古い古い茶箪笥を指差すと、父は頷いて引き出しをひとつひとつ確認し始める。その背中に、鈴は問いかけた。

「お父さん、ここを……いぬがみ湯を閉めるって、本気なの?」

 母がそう言うのはある意味仕方がないと鈴は思う。彼女にとってこの場所は、特に思い入れはなく、父の実家あるいは町の銭湯という認識でしかない。
 しかし、父はそうではないはずだ。白妙を祀りあやかしたちが集う場所だと知っている。それなのに、閉めることに同意したのが鈴には理解できなかった。

「……おばあちゃんがあの状態じゃどうしようもないだろう」

 保険証を探し当てて振り返った父が情けないことを言う。
 それに言い返そうとして、鈴がまた口を開きかけたとき、玄関扉の向こうから人の話し声がすることに気がついた。

「あれ? ……誰か来た?」

 首を傾げて父を見る。

「……みたいだな。入浴客じゃないだろうが」

 父とふたり、玄関へ行き外へ出る。前庭にいたのは母と見慣れない若い男性だった。

「それにしても立派な庭ですね。川もいい眺めだ」

 男性が大袈裟に感心している。

「古いだけですよ。こちらが玄関です、中へどうぞ」

 母がそう言って振り返り、父と鈴に気がついた。
 見ず知らずの人物を勝手にいぬがみ湯に招き入れようとする母を、鈴は不快に思う。そもそも母がここへ来るのは、何年振りかわからないくらいなのだ。それなのに勝手に人を連れてきて、あろうことか中に入れようとするなんて。

「何しにきたの? お母さん」

 扉を後ろ手に閉めて母を睨んだ。

「鈴、失礼じゃないの。お客さまがいらっしゃってるのに」

 母が渋い顔でそう話すと、隣の男性が口を開いた。

「娘さんですか? こちらこそ突然お邪魔してしまい大変失礼いたしました。私はこういう者でございます」

 彼は丁寧にお辞儀をして、鈴に名刺を差し出した。
 受け取ると『くちなわリゾート開発取締役副社長 蛇沢喜一へびさわきいち』と書いてある。その社名と肩書きに、鈴は驚いて目を見開いた。
 くちなわリゾート開発は、観光業で国内トップクラスのシェアを誇る大会社だ。 そんな会社のしかも副社長が、こんな田舎に一体何の用なのだろう。
 訝しみながら改めて目の前の男性を見る。ひょろりとした体型にかっちりとしたスーツを着て、髪をぴったりと七三分けにしている。糸のように細い目でジッと見られると、なぜか鈴の胸がざわざわとした。
 蛇沢が元々細い目をさらに細くして、貼りつけたような笑みを浮かべた。

「本日はいぬがみ湯の経営権をお譲りいただけないかと思いまして、お伺いした次第です」

 母がうれしそうに口を開いた。

「いぬがみ湯の経営を引き継ぎたいとおっしゃってくださっているのよ」
「ひどいよ、お母さん! おばあちゃんが倒れたばかりなのに!」

 しゃらりと言ったその言葉に、鈴はカッとなって声をあげた。
 すぐにこんな話を持ってくるなんて、いくらなんでもあんまりだ。非情とも思える彼女の行動が許せなかった。
 そこへ蛇沢が口を挟んだ。

「いやそれは、まったくの偶然でございます。お母さまからご連絡をいただいたわけではございません。こちらからアポイントなしに、突然お邪魔させていただきました。おばあさまの件はさきほどお伺いしまして、大変なときに来てしまったことを申し訳なく思っております」

 母がため息をついた。

「日を改めてとおっしゃられたのだけど、せっかくこんな田舎まで来てくださったんだもの。せめて現地を見ていただくだけでもと思ったのよ」

 そう言って、鈴に断りもなしに彼を建物の中へ促そうとする。

「さあ、蛇沢さん、どうぞ。昨日の今日ですから、中は散らかったままですが」
「ダメだってば!」

 ふたりの前に立ちはだかり両腕を広げて、鈴はそれを止めた。
 母が眉を寄せた。

「鈴……昨夜、ここを閉めてしまうことにあんなに反対したじゃない。くちなわリゾートさんはいぬがみ湯を買い取って、そのままお宿として営業したいとおっしゃってくださっているのよ。こんなにいい話はないと思うけど」
「もちろん多少のリノベーションはいたしますが、基本はこのまま営業させていただきたいと考えております。地元の人たちに親しまれている銭湯も残す計画ですよ。その上でこの情緒溢れる雰囲気はそのままに、我が社の集客ノウハウを駆使しまして、いぬがみ温泉郷を秘湯から名湯へと――」
「お断りします。いぬがみ湯は、売りません。お引き取りください」

 耳触りのいい言葉を次々に並べる蛇沢に、鈴はいいしれぬ不審感と不安感を覚え、その言葉を遮った。
 初対面の相手にこんなにはっきりとものを言うなんて普段ならありえない。そもそもよく知らない相手と話をすることすら苦手なのだ。自分が口にした言葉を相手がどう捉えるか、まったく予測がつかなくて怖い。
 ……今だって怖くないわけではない。
 でもどうしてもこれだけは言わなくてはならない。夢の中で白妙に頭を撫でてもらった際の手の温もりを思い出し、自分で自分を励ました。

「お引き取りください」

 そう繰り返すと、蛇沢は細い目で鈴をジッと見る。口元にうっすらと笑みを浮かべて。

「だったらどうするのよ! ここを閉めるのは嫌なんでしょう? なら営業はくちなわさんに引き継いで、続けてもらえばいいじゃい。あなたは今まで通り毎日入りに来られるし、地元の方も喜ぶわ。それともこのまま閉めてしまってもかまわないの?」

 母が顔色を変え、畳みかけるように正論を吐く。たしかに母から見れば一番いい方法だ。
 でも鈴はそうは思わない。
 ここは特別な宿なのだ。山神さまである白妙を祀り、湯に入りに来るあやかしたちと共存できなくては意味がない。

「ダメ。売るなんてダメだよ!」

 本当の理由を言えないことがもどかしくて鈴は首を横に振った。

「ご不安になられるのはごもっともです。ですがどうぞご安心くださいませ。この町で長く続いてきたいぬがみ湯を必ずや大切にいたしますよ」

 蛇沢がいかにも誠実そうな笑みを浮かべる。それを鈴は本能的に信用できないと感じていた。ねっとりとした蛇沢の視線から逃れるように頭を振って、母と彼を睨みつける。そして彼らに宣言した。

「私がやる! 私がいぬがみ湯の営業を続ける!」

 大きな声でそう言って、次の瞬間ハッとする。よく考えずに咄嗟に出た言葉だけれど、口に出してみれば、そうするのが必然だと感じるから不思議だった。
 そうだ、そうすればよかったんだ。
 いぬがみ湯の仕事は、小さいころから祖母を手伝っていたから自然と身についている。宿のほうはまったく関わらせてもらえなかったが、そもそも宿泊客は滅多に来ない。
 祖母が目を覚ますまで鈴が代わりとなって、今まで通りの営業を続けるくらいはできるだろう。今後のことは、祖母が目を覚ましてから相談して決めればいい。
 そうだ、そうしよう。

「おばあちゃんが目を覚ますまでは、私が代わりに営業する。小さいころから見てきたもん。だいたいのことはできるし」

 その鈴の決断に、母は険しい顔になった。

「何を甘いことを言ってるの! あなたにできるわけがないじゃない。就職活動でも接客業は避けたって言ってたくせに」
「それは……そうだけど。でもいぬがみ湯に来るのは町の人ばかりだし、知らない人じゃないからなんとかなるよ」

 これまでの鈴はいつもどこか諦めてやり過ごすことが多かった。やりたいと思うこと、こだわりたいところが周囲と違って、ダメだと言われた瞬間に諦める癖がついていた。
 けれど、これだけはどうしても諦めるわけにはいかなかった。これだけは譲れないという強い気持ちが湧いてくる。ここで譲ってしまったらきっと一生後悔するに違いない。
 母が目を釣り上げて鈴を問いつめる。

「就職活動はどうするの? どちらもやりながらは無理でしょう?」
「……そ、それは、おばあちゃんが目を覚ましてからにする。それまではいぬがみ湯の営業に専念するよ」

 今となっては、祖母が倒れた日に、就職が決まっていない自分が町に帰ってきたのはこのためだったとすら思う。もし自分がここにいなければ、いぬがみ湯は両親によって勝手に閉められていただろう。
 でももちろん、母の考えはそうではない。大きな声で鈴の意見を否定した。

「何言ってるの! あと回しだなんて絶対に許しません! おばあちゃんの件を口実にして嫌なことから逃げているだけでしょう!」

 頭ごなしにひどい言葉で鈴をなじる。そのあまりの言い草に鈴の頭に血が昇る。

「逃げてなんかないよ! そもそもお母さんなんて、ここに来るのも何年振りかわからないくらいじゃない! 部外者が口出ししないで!」

 負けじと鈴もひどい言葉で応戦すると、痛いところを突かれたように母は一旦口を閉じる。そしてさっきから扉のそばでおろおろしながら成り行きを見守っている父に助けを求めた。

「部外者って……家族のことじゃない。ちょっと、お父さん。なんとか言ってよ」
「え? いや、あー、そ、そうだなぁ……」

 突然自分に矛先が向いてあたふたとしながら、父が口を開いた。

「うー、まぁ、そうだな……。お母さんの言う通り、いぬがみ湯を続けるのは鈴にはちょっと荷が重いんじゃないかな。その……もしかしたらいろいろおばあちゃんしか知らない事情なんかもあるかもしれないし。……うん、やっぱり鈴には、無理だ。お母さんの言う通りお前は就職活動に専念しなさい」

 どうも歯切れが悪いものの、全面的に妻の味方をする。わかってはいたけれど鈴は悲しい気持ちでいっぱいになった。
 早く就職をしろ、もう子どもじゃないんだからと言いながら、結局のところ両親は少しも鈴を信用していない。鈴の意見なんてどうでもよくて、ただ自分たちの思い通りにしたいだけなのだ。
 我慢できずに鈴は声をあげる。

「お父さんとお母さんの意見はどうだっていい。私は私の思う通りにするんだから! もう帰って!」

 そして父の背中をぐいっと押し、玄関扉をやや乱暴に開け中に入る。ピシャリと扉を閉めて滅多に使わない内鍵を後ろ手にかけた。

「あ……! こら鈴!」
「鈴⁉ 開けなさい!」

 外から憤る両親の声がするけれど、開ける気にはなれなかった。

「まぁまぁ落ち着いてください。おばあさまが倒れられたばかりでは、冷静でいられないのは当たり前です。また日を改めましょう。こちらとしては急ぐ話ではありませんから。いつでもお待ちしております」

 蛇沢が両親をなだめている。

「宿の営業はノウハウも経験もなしにやれるほど生やさしいものではございません。娘さんも一度やられたら、すぐに現実がわかるでしょう。いぬがみ湯に並々ならぬ思いがおありのようですから、私たちが引き継いだあと、従業員として採用して差し上げましょう」

 どこか胡散うさんくさい蛇沢の言葉に、母が「本当ですか?」と弾んだ声を出している。
 その言葉を聞きながら、鈴は決意を固めていた。
 そんなことになるものか! いぬがみ湯は絶対に私が守ってみせるんだ。


 両親と蛇沢喜一が帰ったあと、すぐさま鈴はいぬがみ湯の掃除を始める。
 いぬがみ湯の営業時間は午後の四時から十一時。今からやれば今日の営業に間に合うかもしれない。
 まず脱衣所、休憩処を回り、マットやタオルを集めてきて、それを裏の洗濯機に入れて回す。
 次にすべての場所を丁寧にほうきで掃く。黒光りする板の床はゴミが落ちていてもさほど目立たない。それほど汚れていないように見えたけれど、埃やら髪の毛がどっさりだった。
 それが終わると拭き掃除だ。
 初めに脱衣所の棚をひとつひとつ丁寧に拭く。すると雑巾はすぐに真っ黒になった。唇を噛んで鈴はそれをしばらく見つめる。そして裏からたくさんの雑巾を持ってきてまた黙々と拭く。休憩処にある椅子や机、ドリンクが入った冷蔵庫、番台までをすべて拭きあげたころには真っ黒な雑巾の山ができていた。
 それを抱えて洗濯機へ行くと、ちょうどさっき回した分が終わっている。洗濯機から終わった分を出し、代わりに雑巾を入れてまたスイッチを押した。それから庭に行き洗濯が終わった分を干した。天気がいいから今日中に乾くだろう。
 そのあとすぐ鈴は浴場へ向かう。
 祖母はたいていこのタイミングで一度休憩を入れていた。でも今はとてもそんな気分にはなれなかった。
 浴場で洗い場の鏡、台や椅子、桶などをゴシゴシと磨く。力を入れて擦るたびにそれらは綺麗になるけれど、鈴の心は晴れなかった。

『いぬがみ湯は白妙さまの恵みの湯、いつも綺麗にしていなくてはいけないよ』

 幾度となく祖母から聞かされていた言葉だった。だからいぬがみ湯は古くともいつもピカピカだったはず。チリひとつ落ちていないのが自慢だったはずなのに。
 今のいぬがみ湯は、明らかに掃除が行き届いていなかった。祖母が掃除をサボるはずはないから、高齢でできなくなっていたのだろう。
 その事実を目の当たりにして、鈴は暗澹あんたんたる思いになる。

『もう限界だったのよ』

 母の言葉が頭に浮かぶ。
 強い反発を覚えたけれど、あの言葉は本当だったのだ。もしかしたら倒れた原因のひとつは、ひとりでここを切り盛りし続けてきた疲労もあったのかもしれない。
 ……だとしたら、おばあちゃんが目を覚ましたとして、今までみたいにここを続けることができる?
 また、大きくて真っ黒な不安が胸に広がっていくのを感じながら、鈴は歯を食いしばり力を込めて磨き続ける。じわりと涙が滲むのが情けなかった。
 まったく自分は考えなしの弱虫だ。
 こんなことだから誰にも信用されないのだ。
 銭湯をやることを反対されるのだ。
 しゃがみ込んでの作業はすぐに腰が痛くなる。痺れを感じるくらいだった。それでも鈴は黙々とタワシを動かし続けた。女湯男湯、両方の洗い場がピカピカになったころには、茶色いタワシはボロボロだった。しかし、それで終わりではない。
 今度はデッキブラシを出してきて床磨きだ。静かな大浴場に鈴がブラシで床を擦るシャッシャッという音だけが響いた。
 最後に桶を持ってきて、湯船から湯をすくいザバンザバンと床を流す。三時間あまり経って、ようやくひと通りの掃除が終わった。
 桶を手に突っ立ったまま鈴は思いを巡らせた。
 もし祖母がもういぬがみ湯を続けられないのなら、今自分がここで営業を続けることにいったいなんの意味があるのだろう。
 大江家は代々いぬがみ湯を営んできた。
 本来、祖母の後継は父になるが、町役場に勤める彼にその気はまったくない。それどころか閉めようと言う始末なのだ。もしかしたら父はいぬがみ湯を続ける責任が自分に降りかかるのを避けたいのかも……
 そこで鈴の頭にきらりと何かが閃いた。
 ……だったら自分が後継になるのはどうだろう? 祖母に代わりいぬがみ湯を存続させるのは?
 父を飛ばすことにはなるし、まだ二十歳になったばかりだけれど、いぬがみ湯を大切に思う気持ちは誰にも負けない。
 もちろん両親は反対するだろう。祖母が目を覚ますまでの間だけでもあれほどやいやい言われたのだ。絶対に許してはもらえない。
 それでも、もう鈴は大人なのだ。いちいち両親の許可はいらない。
 桶を持つ手に知らず知らずのうちに力がこもる。そのまま鈴は考え続けた。
 とりあえず自分なりにやってみる。祖母が目を覚ましたら無理のない範囲で正式に仕事を教わればいい、その上で両親に……
 ――ザバン。
 突然、水音が耳に飛び込んでくる。振り返ると、銀髪のイケメンが湯舟につかっていた。

「きゃあ!」

 飛び上がるほど驚いて鈴は桶を取り落としてしまう。カコーンという音を鳴らして桶はコロコロところがった。
 白妙が少し湿った銀髪を大きな手でかき上げて、満月色の目を気持ちよさそうに細めた。

「ん~! やっぱり鈴の掃除は格別だね。最高の一番風呂だ!」

 そして目を剥いたまま固まっている鈴を見て呆れたような声を出した。

「あれ? 鈴、まさかまた驚いてるの? こうして会うのは二回目なのに」


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