明日の「具」足

社 光

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7話

7話「カレーとはなんだ?」【1/3】

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 目が覚めたのは夜明け前。冬の早い朝日が顔を出すよりも少し前だったけど私の脳は既に覚醒状態にあった。というよりは休まっていない。この8時間くらいの間、何度も目を閉じて夢の世界へ退避しようと試みたけど、瞼の向こう側から聞こえてくる窓を叩く風の音、そして慣れない1人の吐息の音によって私の意識は現実に貼り付けられたまま逃れることができないでいたのだ。

「フゥ……」

 顔を手で拭ってここがまだ現実の中であることを改めて受け入れた。身体を動かし初めて自分の寝汗の量が尋常ではない事に気づいて身震いする。でも震える理由はそれだけじゃない。第一に今の私のベッド、ロフトの上に敷かれていた敷き布団は今、掛け布団となって私の上に覆いかぶさり、敷き布団があった背中側には何も挟まずに硬いロフトの底面にそのまま寝そべっているせい。そしてもう1つは今まさにこの下で私の掛布団を使って眠りについている人物のせいだ!

「……いる」

 下にいるのはさかき 奈緒なお……、つい数時間前に私が自分の中の嫌悪と恐怖に打ち勝って本当の気持ちを打ち明けた憧れの女性、榊奈央だ!そんな彼女が今私の住むコミヤグランパレス206号室の室内で、床に敷いた自身のダウンコートと私が使っていた掛け布団い挟まれて眠りについている。昨日の私にこの内容を話したらたぶん気でも狂ったのだと思われるのだろう。それで合ってる、事実私は今気が狂いそうだ。半分は自分のやせ我慢のせい、そしてもう半分はこのよく分からない胸の高鳴り、寝息を立てている彼女の横顔を2.2メートル上から眺めることで激しくなっていくこの胸の高鳴りのせいだ。

「いかんいかん」

 人にやられて嫌なことを人にやってはいけない。母によく言われていた言葉が今自分の中で繰り返された。もし今彼女の意識が現実に戻りゆっくりと開けた薄目の隙間に真上から見下ろしてくる獣の様な眼光が映り込だりしたらと思うと、かつて自分が受けたショックをそのままお返しすることになりかねない。……本当のところは分からないにしても割と気持ち悪いことをしていることを自分で認めて私は露風呂側の奥に引っ込んだ。
 やがて窓の向こうから光が差し込み始める。外灯の漏れではない太陽の光、それがリビングの真ん中くらいにまで達した時、何やら軽快なメロディーが部屋の中で鳴り響き始めた。携帯の目覚ましの音かな?と思って目から上だけをロフトの縁からにゅっと伸ばして確認しようとした瞬間、彼女の両方の目がばっちりと開かれ私は慌ててまた奥の側に引っ込む。敷き布団を被って光を遮断し自分のスマホで確認したら時刻は6時30分。こんな朝早くに布団から出てくるなんて、社会人の実態をまざまざと見せつけられたような気がして少しばかり戦慄した。

「まだ……起きてないか……」

 息を潜める布団の外から彼女の呟く声がうっすらと聞こえる。ご安心ください、こちらは昨日の11時から今現在に至るまでばっちり覚醒しております!私の問題でしかないんですけど。

「勝手に使っちゃ……まずいよね」

 大丈夫です!めっちゃ大丈夫です!コンロも冷蔵庫もシャワーもどれでもご自由に使っていただいて大丈夫ですので御遠慮なさらずにィイ!……と、カチカチの布団の内側から念じている私だったけど、まぁ普通初めて泊まった彼女の部屋で彼氏が勝手にシャワールームに突入したっていう話を聞いたらドン引きするわけで……、我ながら冷静な判断力というものは一時の好意の高まりの前には無惨に消え失せるものなのだという事を改めて実感する。
 ミシ、ミシと足音を殺すようにゆっくりと踏みしめられていくフローリングの音。一瞬だけ聞こえた水の流れとレバーを下げたプラスチックの擦れ、限りなく遠慮がちに小さくまとまって進められていく榊さんの朝の支度の音を聞きながら私は未だに布団の中から這い出すことができないでいた。緊張している訳ではない。ただ、こんな綺麗で鋭く整えられていく彼女の朝の気配の中に、淀みきっただらしのない私の存在を垂らしたくなかった、たとえ一滴たりとも。それが出来るのはまだ先の話という事を胸に刻んで息を潜めているうちに、歩く音は布の擦れる音に変わり、更に擦れる音は布から髪の毛のような細い物に変わっているように聞える。彼女の力強くそれでいて艶やかな黒髪がまとめ上げられていく様子を想像し、思わず生唾を呑んで鳴ってしまった私の喉の音に重なるように髪留めのゴムがパチンと響いた。

「……何か、あった方が良いかな?」

 そんな呟きの後、ツーツーと硬い物の上を走る滑らかな響きがうっすらと流れてすぐに聞こえなくなり、その音のお尻に小さく「行ってきます」という声が重なると玄関のドアが閉まって音の流れが止まった。いい加減に迷いを振り切った私がロフトの縁から小さく顔を出すと当然もう榊さんの姿は無い。テーブルの上には差し込んだ朝日に照らされたメモ用紙と、その中に小さく書き記された「お昼頃に電話します」という丸目の文字だけが残されていた。時刻は6時53分。起床してからたった23分の間で彼女は支度を終えて家を出ていった。ようやく眠気眼を擦り始めた私を残して。





※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※





「何をそんなに迷ってんだよ?いつウチが同棲禁止の独身寮になった?」
「部屋じゃなくて私の問題でしょうがこれは!」

 私がそんな朝をやがて迎えようとしていた9時間前、206号室の硬く重い玄関の扉の前で私と大家の健史郎は2人きり、榊さんを部屋に残したまま寒空の下で言い合っていた。丁度2人の晩御飯、私にとっての夜食を平らげて「あの提案」を出された直後のことだ。

「問題も何も……好きなんだろ?」
「バッ!」
「デカい声出すな、ただでさえ2つ隣の部屋から白い目で見られてんだぞお前」
「ッ……、そういう問題じゃないし」

 彼女からの突然の同棲の申し出に驚いて言葉に詰まる私を健史郎が大家としての立場で相談に応じるという形で部屋から連れ出し、かれこれ10分ほどの間こうやって会話は平行線をたどっている。私としては現状関係の悪化しているであろう彼氏の元にこのまま榊さんを返すのははばかられるし、彼女をより深く知ることが出来そうなまたと無いチャンス、まさに渡りに船な申し出だった。だけど……

「じゃあどういう問題だよ」
「私が……ドキドキしちゃいそうで───」
「カァーーーーー!!!」

 自分で注意しておいて健史郎は私の意を決した告白に対し、まるで昭和のアニメのカラスの様な甲高い呆れ声を夜のアパートの通路でこだまさせた。

「なにさ!」
「ナニもブツもねぇよ。ただお前が俺が思ってたよりも純真で尚且つ初心うぶな奴だったってこと、ここからは2人で話して決めるんだな」
「え!?ちょっ……帰んの!?」

 頭の上に掲げた右手をひらひらと振りながら健史郎は階段を下って自分の部屋に戻って行く。もしかしたら、いや多分手は降っていなかったかもしれない。でもそのあまりにもお気楽かつ放任的な姿勢が私の心と眼にそう映ってしまったのだと思う。

「わ、私……どうしたら」
「こういう時男はな、その気がまるで無かったとしてもその場で手ぶらで帰したらいけねぇんだ。それが自分を選んで頼ってくれた相手への一番伝わりやすい礼儀だろ?」

 !?

「ど、童貞のくせに……」
「言ってろソロネコ」

 何も持たずに部屋を出て助かった。何かしら持っていたら間違いなく階段を下りるあの寂しい後頭部に投げつけてた。そして向こうの言葉をしっかりと頭の中で反芻し遠ざかる背中に限りなく小声で礼を言うと、意を決して彼女が待つ自分御部屋の扉を開けた!

「榊さんよろしくおね───」
「あ」

 そこにいたのは折り目のついたシルクの寝間着、真っ白かつゆとりのあるシルエットに変化しあとは就寝するだけとなっていた榊さんの姿だった。

「あ、あはぁ」
「明日速いから……取り敢えずもう休もうかなって……、ごめんなさい、迷惑だった?」
「い!いんえぇーー!!!」

 「早くないですか?」という漏れかけた本心を、驚きで喉元にまで上がってきていたたお茶漬けの残骸と一緒にお腹に押し込み、私は彼女を受け入れる。ただそれだけ、否定も肯定もまだ出来てはいないけど少なくとも今の彼女が心を休められる場所がこの部屋なのだというのなら、私は喜んで力になろうとその瞬間に決意したのだった。






※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※






「ハボッツッ!」

 自分のくしゃみで本日2回目の目覚め。テーブルに置かれた榊さんのメモの上に突っ伏したまま昨晩の緊張の代償として惰眠を貪っているうちに時計の針は11時近くになっていた。PMでなくAMだったのがまだ私の心には多少の救い。

「どうしよっかなぁ……」

 動く気力が沸かない。昨日の博物館から今の今までの激動の中で心が疲れているというのもあるけど、それ以前にお腹が……まだ満杯のままだった。あんな時間にあんな感覚で白米を入れた私の胃袋は未だに機能の負債の返済の真っ最中、とてもこんな時間の朝ご飯を入れたくなるような具合ではない。これは目が醒めた時の空腹を布団から這い出る口実にしている私にとって重大な時間のズレを招く原因になる。
 頬っぺをテーブルに押し付けたままでいるともうとっくのとうに上りきって窓から差し込み始めた太陽に目を焼かれそうになる。渋々体を起こして上半身を伸ばし獣のような呻き声とバキバキと体の軋む唸り声を盛大にぶちかました。そしてふと榊さんのメモを手に取って再び目を通す。眠気に包まれてテーブルに突っ伏すまでに5、6回くらい繰り返し読んだその紙の内容を考えれば、彼女は今日の晩、再びこの部屋に戻ってきてくれる。だとしたらその時に改めて話し合わなきゃいけないんだと思う。

「一緒に暮らす……か……」

 我ながら考えるタイミングがおかしい。なし崩し的にとはいえ既に同じ部屋で一晩を過ごしておいてそこから2人で同じ部屋の中で暮らすことを想像するなんて……見積もりが甘いとかいうレベルじゃない、榊さんは、どう考えているんだろう?

───ピンポーン───

 天板に肘を付いて考えていると後ろの玄関から来客を知らせる呼び鈴が。まぁこの時間に宅配の依頼も出していないという事なら、十中八九また健史郎だろう。

「責任は、分け合わないとねぇ……!」

 黒い考えが浮かびテーブルから静かに起き上がりいそいそと玄関に向かう。この時どことなく感じていた違和感を頭で認識する前に扉を開けてしまったのがこの日私がやらかした大きな誤算の1つだった。

「あ、哀留!」
「芽衣子……?」
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