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8話
8話「甘くないカレー」【1/3】
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───グツグツグツ───
「……そろそろかな?源さん、出来たみたい」
「えぇっと、どうすればいいですか?」
「多分、炊飯器からご飯取って、盛ってくれれば良いんだけど……」
「あっそうか、分かりました───」
今は18時を過ぎて少し経った頃。少し早めの夕食の準備を私と榊さん、そして今さっき目が覚めて脱衣所から這い出してきた健史郎との3人で行っている。晩御飯はカレー、台所で完成を待っていたお手製のモノではなく、榊さんが”買ってきてくれた”老舗の持ち帰り品を温めたものだ。鍋の蓋を取るとスパイスの刺激的な香りと香ばしさが鼻を突き、これから訪れる刺激を予感させる。
「良いんですかぁ?ご相伴に預かっちゃってぇ~」
「勿論です!これからお世話になるお部屋の大家さんへのご挨拶としては、適しては無いかもしれませんけど」
「そんなとんでもない!こんな上等なカレー田舎のお袋も食べさせてくれたこと無いですよ!」
「田舎って隣町じゃん」
小鍋に開けられた茶色の溶岩の中、ゴロっとした塊をお玉で救いあげながら調子のいいおべっかを使う健史郎に冷めた口調と視線を向ける。昨日の今日で出会ったばかりの2人はもう既に大家と同居人という関係の下で打ち解け合っているようで、「いつの間に!」と思う所もあったけどとりあえずは安心した。2人とも私と違って大人なのだ、こと人間関係においては特に。
「じゃあ、頂きます!」
「頂きます」
「……頂きます」
テーブルに皿が並び、無意識化で波長が合ったのか全員がほぼ同時にカレーに口を付けた。1口、2口、スプーンを進める。だけどその工程を何度か繰り返していくうちにこの舌が感じている違和感が「高級感」というフワフワしたもので括れるものでないという事に気づいて、私は目の前のカレーを食べ進めるのをいったん止める。それは他の2人も同じだった。
「なんか……」
「うん、なんか……ね」
「そ、そうですか?」
流石に人のお金で買ってきて貰った食べ物にいの一番に指摘をかます気になれず言葉を濁した。でも3人が同じタイミングで違和感を感じた味に問題が全く無い訳がない。空気を察して事実を言葉にしてくれたのは健史郎だった。
「焦げてます?これ?」
元々の色が招いた悲劇。榊さんが買ってきてくれた純欧風の高級カレーはそのコク深さから色も濃く、ついつい強い火で温めてしまったことで熱が通り過ぎてしまったのだ。健史郎の指摘に榊さんは小さく頷くと目をつむり申し訳なさそうに顔を伏せ始めてしまい、私はそんなタイミングになってようやくフォローに入った。
「ご、ごめんなさい!私お腹空いててつい火を強めちゃったみたいで!せっかく買ってきてもらったのにホント……」
「止めて源さん。コンロの前で3人で見てたんだから。これは全員の責任、そうでしょ?」
「ごめんなさい……」
「なんかすいません」
カチャリと音をたてて食卓が終わる。幾らもったいないと思っていても美味しくないものを食べ進めていくのは人には難しく、3人で意見が一致しているとすればなおさらだ。炊飯器に残ったご飯を私たちにやると言って一旦部屋に戻った健史郎を残し、身を切るような思いで流し台で片付けを進める私の隣に榊さんは立っていた。
「その───」
「さっきはありがとうございました。私がグズって言い出せない事を言ってくださって」
「いやっ……」
否定しようとする彼女に私は首を振る。芽衣子には私の嗜好について一切話してこなかった。必要や機会が無かったと言えばそれまでだけど、実際のところは……面倒に思っていたから。異性愛者の彼女にわざわざ自身の振舞い方を説明するのも、それを理解してもらうのも。今までそれをやってきて上手くいった例はほとんど無いし、上手くいった場合は今度は私が断る番になるばかりだった。まぁ今度は私と店長との関係について彼女に誤解されていたわけだけど。
「後で電話して、向こうが大丈夫だったら……明日からバイト行ってきます」
「えっ!?……で、でも」
「きちんとケジメをつけないといけないですから。正直に話さなかった私の責任でもあるので」
空になった皿を流しで洗いながら話す隣からじっと榊さんの視線を感じる。とにもかくにもこのままにしておくわけにはいかない。私の居場所はこの家以外にはあの店にしかない。たとえ芽衣子に理解してもらえないとしても私にはあそこが必要なのだ。折り合いはつけなくちゃいけない、たとえ前のような関係にはもう戻らないとしても。
「そんな事……、やっぱり口を挟むべきじゃなかった。私が彼女に何を話しても逆効果だって分かってたはずなのに」
「大丈夫ですから」
そう繰り返すしか今はできない。私だって自分の言葉が相手にどう作用するかなんてことは分からない。嘘よりも真実の方が人を苦しめることは多いはずだし、芽衣子に対してはもっとタチの悪い事実をありのままに告げてしまった、それも一度に全てを。こうなってしまったらもう時間はかけられない。明日は決まって彼女の出勤する土曜日だ、もし店に出られないときには客としてでも行って話を付けなきゃ手遅れになる!
「───それは大丈夫ですけど───」
1週間ぶりの連絡。電話の店長の口調は偶然なことに私と同じく晴れやかではなかった。職場復帰を申し出て急なシフトの調整に辟易としている、という訳では無さそうなので私は煮え切らない理由をそれとなく聞きだそうとしてみた。
「調整が難しいですか?」
「───……いえ、源さんが復調なさったのなら助かりますよ。ですけど……───」
「じゃあ……なにかマズイことでも?」
「───いえそんなことは!じゃあ取り敢えず明日の中番、2時間だけお願いできます?」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
重々しく滞留しかかった会話は何とか終点にまでたどり着いた。後は明日彼女に会って話すことだけを考えよう。こうも連続して誰かに打ち明け続けることが続くなんて、普通の人ではない経験なんだろうな。そう考えれば執筆の肥やしにもなるかな?なんて風に自分を慰めようともしたけど、肥やしは未だに栄養を生み出すまでには至っていないようだった。
「じゃあ……源さん?」
「あっ、はい?」
「お風呂……使わせてもらっても、いいの?」
あぁ、ナンだかなぁ……。
「勿論、使ってください」
向き合った途端に避けてたものばかりが目に飛び込んでくるのは、やっぱり、辛い。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「来ないって、どういう事です?!」
「昨日の晩に向こうからも連絡が来たんですよ。あらかじめ言っていただければシフトもお伝えしたんですけど」
12時出勤の予定を大幅に前倒しして休憩室の中で芽衣子がやってくるのを待つつもりだった私が先に来ていた店長から聞いたのは、芽衣子が昨夜の電話で急にシフトを外れたいという連絡をしてきたという事だった。
「次はいつ?」
「分かりません。昨日の時点で取り敢えず1週間、後の事も分からないという連絡で……本人からは『一身上の都合』としか」
「辞めるってことですか!?」
「まだそこまでは───」
想像の範囲外の展開。どれだけ勤務態度が悪くともお客から酷い物言いをされても遅刻や欠勤をしてこなかった芽衣子が前日の段階での急な休みを取ることなんて、異常としか言いようがなかった。そしてその原因について強い心当たりがある身としてはこのままの状態で放ってなんておけない。脱兎の如く一目散に休憩室を飛び出そうした私を流石の店長も大声で呼び止めた。
「何処に?」
「家です芽衣子の」
「場所は知ってるんですか?」
「1度呼ばれたのでっ───」
足を遊ばせ勢いを逃していながらも、息を荒げながらまくしたてる私を見た店長はそれ以上私を留めておこうとはせず、彼女に渡して欲しいと言って店でコショウや刻んだパセリを入れるのに使っている小さな瓶を手渡してきた。中には薄茶色の粉のようなものが入っている
「かけなおしても出てくれないので念の為です。『最後の一振り』と言えば受け取ってくれると思いますので」
「……っ、すいません!」
瓶を上着の内ポケットに突っ込んで店を出た。こういう時に初めて気にしたのは何で電車を2本も乗り継いで辿り着くような場所に彼女はわざわざバイトをしに来たのかっていう事だ。でもそんなことは分からない。理由を考える時間はいくらでもあったはずなのに気が付いたら彼女の家、オートロック式のマンションのエントランスの中で息を切らしながら壁にもたれかかっている自分がいた。30分かけてやってきた道中は完全な無意識で、ここからどうするかなんてことは考えてない。ただ「どうにかしなきゃ」という使命感と罪悪感だけに突き動かされて辿り着いた先には透き通りながらも重々しく閉ざされたガラスの自動ドアが鎮座している。呼び鈴で開けてもらう?そんなことができると思ってるならここまで慌ててなんかいない。それでも試せる方法はこれしか残っていないのだ。記憶を頼り3桁の部屋番号、次に呼び出しのボタンを押して後は待つ。1分、2分、5分……、ロビーの時計は確認するたびに信じられない程の速さで進んでいた。そして13回目の呼び出しの最中にスピーカーから雑音が聞こえるとその次に声が聞こえた。それはひどく眠そうな男の声だった。
「───はぁい、もしもぉし───」
「!?……あの、すいません」
「───ん───」
気だるげな返事が返され記憶違いで番号を間違えたかもしれないと思いかけたその直後、エントランスの扉はゴウンと両側に開かれた。
「───どうぞ~───」
「えっ!?あ、あの……」
戸惑う私の前でスピーカーの向こうの声はブツンと音を立てて途切れ、私は空いた扉の前で一瞬何が何だか分らずに立ち尽くしていた。だけどこのままじっとしていたらここに来た意味がない。閉まり始めた扉の間をすり抜けて中に入り真っ直ぐにエレベーターに飛び乗って打ち込んだ番号の部屋がある6階へ向かった。さっきの声が誰なのか、もしかしてとっくに引っ越してしまっていたりしないかなどと無用な心配事ばかりが密室の中の自分の心に芽生えかけてきて、その度に自分の心に喝を入れ直した。今は考える時じゃない、ただ動く時だ。考えるのは後悔の最中にいくらでもできるんだから。
6階に到着し扉が開き切る前に身をよじって外に出ると記憶にある通りの道順で廊下を駆ける。右へ、左へ、そして真っ直ぐ。そうして辿り着いた角部屋から3つ手前の部屋、大きめの宅配ボックスが付けられた618号室の入り口のドアには確かに「遠藤」の名字があった。束の間の安心、そして緊張の高まりを感じる。冷え切った指先を震わせながら伸ばしインターホンのボタンに触れるところまで来たのに、それを押し込むのに今一歩何かが足りない。これを押して彼女を呼んで、それで何を話すのか。何を説明し何を謝るのか、自分の中でロクな想像もしないままに行動してきたツケをどうやって清算するか必死に考えるけど、どうにも今日の世界は私の呼吸よりも一段早く回っていたようだった。
「───哀留───」
ドアの向こうから響くくぐもった声、遠藤芽衣子は間違いなくそこにいた。
「……そろそろかな?源さん、出来たみたい」
「えぇっと、どうすればいいですか?」
「多分、炊飯器からご飯取って、盛ってくれれば良いんだけど……」
「あっそうか、分かりました───」
今は18時を過ぎて少し経った頃。少し早めの夕食の準備を私と榊さん、そして今さっき目が覚めて脱衣所から這い出してきた健史郎との3人で行っている。晩御飯はカレー、台所で完成を待っていたお手製のモノではなく、榊さんが”買ってきてくれた”老舗の持ち帰り品を温めたものだ。鍋の蓋を取るとスパイスの刺激的な香りと香ばしさが鼻を突き、これから訪れる刺激を予感させる。
「良いんですかぁ?ご相伴に預かっちゃってぇ~」
「勿論です!これからお世話になるお部屋の大家さんへのご挨拶としては、適しては無いかもしれませんけど」
「そんなとんでもない!こんな上等なカレー田舎のお袋も食べさせてくれたこと無いですよ!」
「田舎って隣町じゃん」
小鍋に開けられた茶色の溶岩の中、ゴロっとした塊をお玉で救いあげながら調子のいいおべっかを使う健史郎に冷めた口調と視線を向ける。昨日の今日で出会ったばかりの2人はもう既に大家と同居人という関係の下で打ち解け合っているようで、「いつの間に!」と思う所もあったけどとりあえずは安心した。2人とも私と違って大人なのだ、こと人間関係においては特に。
「じゃあ、頂きます!」
「頂きます」
「……頂きます」
テーブルに皿が並び、無意識化で波長が合ったのか全員がほぼ同時にカレーに口を付けた。1口、2口、スプーンを進める。だけどその工程を何度か繰り返していくうちにこの舌が感じている違和感が「高級感」というフワフワしたもので括れるものでないという事に気づいて、私は目の前のカレーを食べ進めるのをいったん止める。それは他の2人も同じだった。
「なんか……」
「うん、なんか……ね」
「そ、そうですか?」
流石に人のお金で買ってきて貰った食べ物にいの一番に指摘をかます気になれず言葉を濁した。でも3人が同じタイミングで違和感を感じた味に問題が全く無い訳がない。空気を察して事実を言葉にしてくれたのは健史郎だった。
「焦げてます?これ?」
元々の色が招いた悲劇。榊さんが買ってきてくれた純欧風の高級カレーはそのコク深さから色も濃く、ついつい強い火で温めてしまったことで熱が通り過ぎてしまったのだ。健史郎の指摘に榊さんは小さく頷くと目をつむり申し訳なさそうに顔を伏せ始めてしまい、私はそんなタイミングになってようやくフォローに入った。
「ご、ごめんなさい!私お腹空いててつい火を強めちゃったみたいで!せっかく買ってきてもらったのにホント……」
「止めて源さん。コンロの前で3人で見てたんだから。これは全員の責任、そうでしょ?」
「ごめんなさい……」
「なんかすいません」
カチャリと音をたてて食卓が終わる。幾らもったいないと思っていても美味しくないものを食べ進めていくのは人には難しく、3人で意見が一致しているとすればなおさらだ。炊飯器に残ったご飯を私たちにやると言って一旦部屋に戻った健史郎を残し、身を切るような思いで流し台で片付けを進める私の隣に榊さんは立っていた。
「その───」
「さっきはありがとうございました。私がグズって言い出せない事を言ってくださって」
「いやっ……」
否定しようとする彼女に私は首を振る。芽衣子には私の嗜好について一切話してこなかった。必要や機会が無かったと言えばそれまでだけど、実際のところは……面倒に思っていたから。異性愛者の彼女にわざわざ自身の振舞い方を説明するのも、それを理解してもらうのも。今までそれをやってきて上手くいった例はほとんど無いし、上手くいった場合は今度は私が断る番になるばかりだった。まぁ今度は私と店長との関係について彼女に誤解されていたわけだけど。
「後で電話して、向こうが大丈夫だったら……明日からバイト行ってきます」
「えっ!?……で、でも」
「きちんとケジメをつけないといけないですから。正直に話さなかった私の責任でもあるので」
空になった皿を流しで洗いながら話す隣からじっと榊さんの視線を感じる。とにもかくにもこのままにしておくわけにはいかない。私の居場所はこの家以外にはあの店にしかない。たとえ芽衣子に理解してもらえないとしても私にはあそこが必要なのだ。折り合いはつけなくちゃいけない、たとえ前のような関係にはもう戻らないとしても。
「そんな事……、やっぱり口を挟むべきじゃなかった。私が彼女に何を話しても逆効果だって分かってたはずなのに」
「大丈夫ですから」
そう繰り返すしか今はできない。私だって自分の言葉が相手にどう作用するかなんてことは分からない。嘘よりも真実の方が人を苦しめることは多いはずだし、芽衣子に対してはもっとタチの悪い事実をありのままに告げてしまった、それも一度に全てを。こうなってしまったらもう時間はかけられない。明日は決まって彼女の出勤する土曜日だ、もし店に出られないときには客としてでも行って話を付けなきゃ手遅れになる!
「───それは大丈夫ですけど───」
1週間ぶりの連絡。電話の店長の口調は偶然なことに私と同じく晴れやかではなかった。職場復帰を申し出て急なシフトの調整に辟易としている、という訳では無さそうなので私は煮え切らない理由をそれとなく聞きだそうとしてみた。
「調整が難しいですか?」
「───……いえ、源さんが復調なさったのなら助かりますよ。ですけど……───」
「じゃあ……なにかマズイことでも?」
「───いえそんなことは!じゃあ取り敢えず明日の中番、2時間だけお願いできます?」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
重々しく滞留しかかった会話は何とか終点にまでたどり着いた。後は明日彼女に会って話すことだけを考えよう。こうも連続して誰かに打ち明け続けることが続くなんて、普通の人ではない経験なんだろうな。そう考えれば執筆の肥やしにもなるかな?なんて風に自分を慰めようともしたけど、肥やしは未だに栄養を生み出すまでには至っていないようだった。
「じゃあ……源さん?」
「あっ、はい?」
「お風呂……使わせてもらっても、いいの?」
あぁ、ナンだかなぁ……。
「勿論、使ってください」
向き合った途端に避けてたものばかりが目に飛び込んでくるのは、やっぱり、辛い。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「来ないって、どういう事です?!」
「昨日の晩に向こうからも連絡が来たんですよ。あらかじめ言っていただければシフトもお伝えしたんですけど」
12時出勤の予定を大幅に前倒しして休憩室の中で芽衣子がやってくるのを待つつもりだった私が先に来ていた店長から聞いたのは、芽衣子が昨夜の電話で急にシフトを外れたいという連絡をしてきたという事だった。
「次はいつ?」
「分かりません。昨日の時点で取り敢えず1週間、後の事も分からないという連絡で……本人からは『一身上の都合』としか」
「辞めるってことですか!?」
「まだそこまでは───」
想像の範囲外の展開。どれだけ勤務態度が悪くともお客から酷い物言いをされても遅刻や欠勤をしてこなかった芽衣子が前日の段階での急な休みを取ることなんて、異常としか言いようがなかった。そしてその原因について強い心当たりがある身としてはこのままの状態で放ってなんておけない。脱兎の如く一目散に休憩室を飛び出そうした私を流石の店長も大声で呼び止めた。
「何処に?」
「家です芽衣子の」
「場所は知ってるんですか?」
「1度呼ばれたのでっ───」
足を遊ばせ勢いを逃していながらも、息を荒げながらまくしたてる私を見た店長はそれ以上私を留めておこうとはせず、彼女に渡して欲しいと言って店でコショウや刻んだパセリを入れるのに使っている小さな瓶を手渡してきた。中には薄茶色の粉のようなものが入っている
「かけなおしても出てくれないので念の為です。『最後の一振り』と言えば受け取ってくれると思いますので」
「……っ、すいません!」
瓶を上着の内ポケットに突っ込んで店を出た。こういう時に初めて気にしたのは何で電車を2本も乗り継いで辿り着くような場所に彼女はわざわざバイトをしに来たのかっていう事だ。でもそんなことは分からない。理由を考える時間はいくらでもあったはずなのに気が付いたら彼女の家、オートロック式のマンションのエントランスの中で息を切らしながら壁にもたれかかっている自分がいた。30分かけてやってきた道中は完全な無意識で、ここからどうするかなんてことは考えてない。ただ「どうにかしなきゃ」という使命感と罪悪感だけに突き動かされて辿り着いた先には透き通りながらも重々しく閉ざされたガラスの自動ドアが鎮座している。呼び鈴で開けてもらう?そんなことができると思ってるならここまで慌ててなんかいない。それでも試せる方法はこれしか残っていないのだ。記憶を頼り3桁の部屋番号、次に呼び出しのボタンを押して後は待つ。1分、2分、5分……、ロビーの時計は確認するたびに信じられない程の速さで進んでいた。そして13回目の呼び出しの最中にスピーカーから雑音が聞こえるとその次に声が聞こえた。それはひどく眠そうな男の声だった。
「───はぁい、もしもぉし───」
「!?……あの、すいません」
「───ん───」
気だるげな返事が返され記憶違いで番号を間違えたかもしれないと思いかけたその直後、エントランスの扉はゴウンと両側に開かれた。
「───どうぞ~───」
「えっ!?あ、あの……」
戸惑う私の前でスピーカーの向こうの声はブツンと音を立てて途切れ、私は空いた扉の前で一瞬何が何だか分らずに立ち尽くしていた。だけどこのままじっとしていたらここに来た意味がない。閉まり始めた扉の間をすり抜けて中に入り真っ直ぐにエレベーターに飛び乗って打ち込んだ番号の部屋がある6階へ向かった。さっきの声が誰なのか、もしかしてとっくに引っ越してしまっていたりしないかなどと無用な心配事ばかりが密室の中の自分の心に芽生えかけてきて、その度に自分の心に喝を入れ直した。今は考える時じゃない、ただ動く時だ。考えるのは後悔の最中にいくらでもできるんだから。
6階に到着し扉が開き切る前に身をよじって外に出ると記憶にある通りの道順で廊下を駆ける。右へ、左へ、そして真っ直ぐ。そうして辿り着いた角部屋から3つ手前の部屋、大きめの宅配ボックスが付けられた618号室の入り口のドアには確かに「遠藤」の名字があった。束の間の安心、そして緊張の高まりを感じる。冷え切った指先を震わせながら伸ばしインターホンのボタンに触れるところまで来たのに、それを押し込むのに今一歩何かが足りない。これを押して彼女を呼んで、それで何を話すのか。何を説明し何を謝るのか、自分の中でロクな想像もしないままに行動してきたツケをどうやって清算するか必死に考えるけど、どうにも今日の世界は私の呼吸よりも一段早く回っていたようだった。
「───哀留───」
ドアの向こうから響くくぐもった声、遠藤芽衣子は間違いなくそこにいた。
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