明日の「具」足

社 光

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8話

8話「甘くないカレー」【2/3】

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「ウチの場所覚えてたんだ」
「───ごめん」
「あっはは、何で謝んの?ストーカーに覚えられてるわけじゃないんだからさ」

 ドア越しに聞こえる芽衣子の声は多少くぐもりながらもハッキリと聞き取ることが出来た。扉の向こうである程度声を張っているみたい。私も出来るだけドアに近づいて周りの迷惑にならない声量で話しかけていたけど、流石に腑に落ちなくて聞いてしまった。

「インターホン使わないの?」
「うん、まぁね」
「どうして?」
「だって、そうしたらさ……になっちゃうでしょ?」

 ドっと何かがもたれかかるような音が扉から鳴った。間を挟んだ芽衣子との距離が近づいたことが分かって私も自然とドアに近づいていく。昨日、最後に見た時のような鋭い嫌悪感は鳴りを潜め、いつものように明るく快活な口調で話す芽衣子だけど、その言葉の端々は不自然にくらいに平坦だ。私がいつも「もっとそうであって欲しい」と思っていたほどに大人しく、彼女は扉越しのお喋りを続ける。

「それってどういう───」
「さっきごめんね、迷ってる間に彼氏が勝手に開けちゃったみたいで……挨拶もしなくて」

 オートロックを開錠した男性、前から芽衣子との話で聞いていた交際中の彼の事なのだと思う。電話で連絡する関係だったこと事を考えると最近同棲を始めたのだろうか?なんて、自分との重なりにシンパシーを感じている場合でなんかないのに、こうして彼女と話しているとまるで勤務中のお店のホールの中にいるかのような、そんな気がしてきてしまいそうで……

「ホントはさ、来て欲しくなかったとかじゃない……んだけど……だけど、やっぱりもうこれ以上は本当に来ないで欲しい。店も辞めるって連絡したんだけど、三ツ矢は言ってなかったカンジ?」
「!?……そんなことは───」
「だよね、じゃあやっぱこれ以上は無理」
「どうして?……私が───」
「言わないで。言われたら、それが理由になっちゃう、から……」

 不安からと焦りで高まり続けていた私の拍動はその一言で一気に静まる。胸のざわめきも、心の水面の揺れも収まって、気付けば私はドアの表面に耳を添わせる手前にまで近づいていた。紙一枚分しかない隙間、その向こうを遮る分厚い扉はまるで存在していないかのように、芽衣子の存在をその時私は肌で感じていた。

「……なんていうかさ、抵抗は無いんだよ?私も。でも、それだけじゃ駄目だからさ」
「なんで?」
「哀留はさ、昨日の私の最後の顔、覚えてる?」

 動揺がせきを切ったように溢れ混乱しながら走り去る最中に向けた濁った瞳。まだ1日も経っていない出来事ではあっても、彼女のその言葉を聞いた瞬間に私は理解した。「アレ」はもう忘れられるモノじゃないという事を。

「だからさ、もしまた顔を合わせて、私が何事も無かったようしててもさ……哀留は私のあの時の顔、忘れられないでしょ?」
「それは───」
「自分とは違う世界の人なんだって思ってた。関わることも話すことも、ましてや仲良くなることなんて無い人たちで、向こうから見れば私の方が異常な人間に感じるんだろうなって……。でも違ってた。そんな人といつも意識しないくらいに近くに居て、覚えもしないくらいに何度も会って、感謝もしないくらいに助け合ってた。それでも気付かない、それくらい大差無い違いなのに……、気が付いたらもう、逃げ帰った後だった」

 穏やかになりつつあった自分の心臓の鼓動にさえかき消されそうなほどに小さくなっていく芽衣子の声。扉を通して聞こえる彼女の告白、それを聞く私の内心はいつもであればここまで穏やかなままではいられなかったと思う。謝罪ではなくただ事実を伝えるだけの彼女の言葉。そこに哀れみや差別心のようなものが無いと分かるから。ただ事をこれ以上悪化させないために芽衣子はこのドアを開けないでいる。

「でも、なにも辞めなくたって……、シフトをずらして貰えば───」
「駄目。哀留は忘れなくちゃだめだよ。あんなヒドイ顔した奴の事なんてさ、一瞬でも思い出したら嫌な心になって、今楽しいことも全力で楽しめなくなるでしょ?」
「芽衣子」
「ごめん、色々準備もあって忙しいんだ。もう……帰って貰っても、良い?」

 強引に引き上げられた芽衣子の声の端が微かに揺れる。そしてそれを聞いた私も、もうこれ以上言葉を交わすことはしたくなかった。最初から傷つけようなんて気持ちが彼女に無かった以上、もう私に芽衣子の行動をとやかく言う資格は無い。ここから先は彼女が決める事、その本意も心も自由になどできない。私はそれを身をもって知っているつもりだから。

「あ……、店長から預かってた物があるんだけど……」
「……どういう物?」
「……茶色い、粉みたいな……。『最期の一振り』って店長は言ってて───」
「──────クッふふ、そう……そっか」

 その時の彼女の声は一瞬だけ明るさを取り戻したように聞こえた。まるで昨日私の家のキッチンに立っていたあの時のように。

「昨日のカレー、捨てちゃった?」
「ううん」
「じゃあそれ、お肉にまぶして焼いてみて。後は鍋で一緒に煮れば美味しくなるから」
「え?でも店長が……」
「同じ物、後で自分で取りに行くから……そう───」

 そこまで言って言葉が途切れ、ドアの向こうで手を着いたような、そんな振動が伝わってきた。

「言っておく」
「……ありがと」
「じゃあ───」
「うん───」
「「お疲れ様」」

 いつも通りの別れ、いつも通りの労いの言葉。いつの間にか地面についていた膝をゆっくりと引き上げる。離れていく扉との距離はそのまま彼女との距離だ。親友というほど親しかったわけじゃない、相棒というほど信頼していたわけじゃない。それでも最後まで「理解ある他人」でいてくれたかつての同僚の声が聞こえたドアに背を向けて、私は着た道をゆっくりと引き返す。振り返るような思い出も無い位に、私を嫌わないでいてくれたあの子の願いに応えるために。







※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※







「あ……」
「ただいま……ですかね?ヘヘヘ……」

 土曜日の昼下がり、店に戻った矢先に起こった事態について察しがついたらしい店長から直帰を薦められ、10日ぶりの出勤日をきわめて個人的なことに浪費して帰ってきた私の部屋に、今日は帰りを待っていてくれた人がいた。

「───大丈夫?」

 榊さんはお休みの日にも関わらずYシャツにパンツスタイルという(私から見れば)かっちりした服装で心配そうな面持ちのまま出迎えてくれた。余り血色の良くない顔と額の汗から察するにとてもリラックスした休日を過ごしては居なさそうで申し訳なくなる。全て私が引き起こした面倒で、榊さんにはむしろ助けてもらってしまったのに。

「えぇ、まぁ」
「まぁって……、彼女とはどうなったの?!」
「大丈夫ですよ、ちゃんと……解決できましたから」

 靴を脱ぎながら明るい口調で話そうとする私の後ろに立つ榊さんの気配、手術の結果を医者から聞き出そうとする家族と全く同じ気配だ。正直に話しても誤魔化しても疑われるのなら話したくない自分の気持ちに正直に行こうと思って当たり障りの無いように答えた。

「……本当なの?」
「彼女何時もあんな感じなんですよ、早とちりして1人で怒ってすぐにそれが冷めるっていう……瞬間湯沸かし器って言うんですかあぁいうの?今は言わないのか───」
「本当なの?!」

 まぁそうだよね、自分が彼女ならこんな風な帰ってからの一言二言で納得なんてするわけがない。それがパートナーの身に関わる事ならなおさらだと。榊さんが私の事に対してこれほどまで親身になってくれている、その嬉しさで飛び回りたい気分にもなりそうだったけど、それはいけないんだ。少なくとも……今日の日が終わるまで。

「───お昼って食べました?」
「えっ?」
「いえ、まだ食べてないならもう3時近くですしご飯にしようかと思って。私的には、食べながらの方が話しやすいんですけど……」
「……まだよ」
「じゃあ、準備します!ちょっと待っててくださいね、直ぐに仕上げますから!」

 返事を待たずに洗面台にまで駆け込んで手を洗い始める。指先から始めて手の平、甲、親指の周りから指と指の間を抜けて爪の内側まで入念に。仕事で慣れ親しんだ動作だったけど家ではそこまで入念にやることは無かった。洗ってもどうせ家で触るところは汚れてばかりというのもあったけど、第一にそこまで自分に厳しくする理由が無かったから。

『ちゃんと洗いなって!お客さんのご飯触るんだよ!』

 脱衣所のドアを開けると榊さんはテーブルの傍でまだ立ったままだった。私が座って休んで欲しいと言ってもぼんやりとした相槌を打ってそのままだ。でもかと言って榊さんは向こうでの出来事についてもそれ以上迫ることも言及することも無いままにただ私が台所に立つのをじっと見つめていて、今の私にはそれが嬉しい。話したいことはたくさんあってもそれを言葉にする口は私にも1つだけだし、悲しい事よりも嬉しい事にこそ優先して使いたい。嫌なことをするには力がいるのだ。今は食べなきゃ、力は出ない。

『自分でも食べて味を覚えなきゃ。味が分からなきゃ見た目の違和感にも気づけないよ!』

 鍋の蓋を開けて中身を確認する。ほんのり甘い香りのする薄茶色の液体の中ではジャガイモは角が無くなったぼやけたシルエットに変わり、玉ねぎはその姿自体が確認できないくらいに溶けて混ざっている。それが乗っているコンロに1日ぶりに火を入れて熱が戻ってくるのを待つ間、その隣で静かに眠っていたフライパンの上のお肉の準備も進めなくちゃいけない。火をつける前に持ち帰ってきた瓶の中を改めて見てみた。この中のフワリとした茶色の一粒一粒をまじまじと見てどういった物質なのかを解明しよう一瞬考えてはみたけど、やっぱり私には分からない。フライパンのコンロにも火をつけ、肉の焼ける音がうっすらと聞こえ始めたところで私はこの正体不明の茶色を振りかけた。瓶を1回振れば周りはあっという間に鼻を抜ける爽やかな香りで満たされて、気が付くと私はそれまでの疑心暗鬼を忘れたように何度も何度もその中身を振りかけていた。

『まかない美味しかった?……実はさ、今日のは私作ったんだよ!』

 肉にも焦げ目がつき、貧弱な私の観察眼でも火が通ったと分かってそれを鍋の方に放り込む。水面はボコボコと熱気を吐き出し、中では煮溶けて小さくなった野菜が踊る。その中に落ちていく肉と野菜の大きさの差が目についてしまいそうになって、私はすぐ箱の裏面の説明書通りにコンロの火を止めて折って小さくしたルーをその中で溶かし始める。茶色が広がり、濃さが増し、とろみがつき始めた。これで完成、彼女から預かった最後の贈り物の出来上がりだ。

「良い匂い……」
「そうですね。じゃあ……食べましょう」
「そうね───あ!」

 台所で鍋の中を覗き込む2人が同時に思い至ったこと、多分察しのつかない人はいないと思う。今回違うのはここからどうするべきかが分かっていることだ。

「あぁ健史郎?ごめんお釜貸して」
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