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少女Aのスモモの木
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月子は周りから、ちょっと頭がおかしい奴だと思われていた。そう思われても仕方ないことをしていたのは月子だから、何とも弁明しがたかったけれど。月子は雨の日に目を瞑ったままバイクを走らせるのが好きだった。いつ事故に遭ってもおかしくないはずなのに、なぜだか月子は一度も事故に遭うことも、事故を起こすこともなかった。強運の持ち主なんだよね、と月子は笑っていた。でもこれまでの人生、割と不幸だったから、それくらい運がないとやってらんないよ、と。
確かに月子は人よりも不幸な人生を送っていたのかもしれない。その辺にいる十八歳の女子高生よりは、確かに不幸だった。両親は離婚して月子の養育を押し付け合ったらしいし、結局月子を引き取ることになった父親はアル中で毎日酒に溺れていた。月子がそんな環境でまともに育つはずがなく、中学生のときには煙草を吸い始め、髪はいつの間にか金髪になり、学校をサボってはバイクを走らせていた。だけど月子くらいの不幸な子なんて、きっと日本には溢れているのだろうとも思う。月子が特別だというわけではないのだ。月子は少し甘えているな、とさえあたしは思っていた。まともに育てなかったのは月子の両親が悪かったかもしれないけど、もう十八歳なのだ。高校を卒業した後のことを、月子は何も考えていないらしかった。家を出て働けば、いくらだって人生を軌道修正できるのに。月子にその気があるなら、だけど。
あたしも月子ほどではないにしろ、両親の離婚と、父親の再婚を経験していた、ありふれてはいるけどそれなりに不幸な子だった。今のあたしの家は、あたしの家じゃない。父親と、知らない女と、血が半分だけ繋がった幼い弟。知らない女はあたしや弟の前でもお構いなしに、父親に甘い声で話しかけ、べったりとくっつく。それが見ていて気持ち悪かった。本当の母親だと思ってね、と初めて会ったときに言われたけれど、そんなことは不可能だったし、認めたくなかった。母親って、こんなに女を感じさせる存在じゃないはずだ。女が喜ぶし父を怒らせたくはなかったから、家では「お母さん」と呼んでいた。本当は女が、あたしにほとんど興味がないことは知っていた。洗濯物を出しておけば洗濯してくれるし、ごはんだってあたしの分もちゃんと用意されているけれど、あたしの存在はどこか空気のようだった。それにもう、慣れてしまった。慣れてしまったけれど、自分だけはそうはならないと決めていた。屑みたいな大人が世の中には溢れていて、屑みたいな世界を作り上げている。自分だけはそんな一員にはなりたくない。
典型的な不良少女に育った月子は、真面目な高校生のあたしに、なぜだかよくちょっかいをかけにきた。小学生のときから同じクラスだったが、そんなにあの頃は関わらなかったはずなのに。きっとあたしが他の人みたいに、月子を見てあからさまな反応をしなかったからなのだろう。
受験まであと四カ月で、進学クラスの雰囲気はぴりぴりと電気を帯びているようだった。あたしは休み時間も放課後も、参考書とずっと向かい合っていた。勉強をすることは苦痛ではなかった。それよりも、あの家に居続けることの方が苦痛だったから。放課後に教室に残って勉強する人は、あたしの他にはそれほどいなかった。皆塾に通っているので、そこの自習室が使えるのだ。あたしは塾には行っていなかったから、教室しか勉強する場所がなかった。窓の外が紅に染まり、それからだんだんと群青に変わっていく。星が夜空に輝き始めた頃、窓の外でバイクのエンジン音が響く。あたしは勉強の手を止め、周りを見回す。いつの間にか、教室にはあたししかいなかった。伸びをしてから窓を開ける。グラウンドの真ん中にバイクを止め、月子がにやにや笑いながら手を振っていた。
「勉強終わろー!」
あたしは頷き、参考書をリュックに放り込んで教室を出る。三階から一階まで降りて、靴を履き替えてあたしが出てくるまでの間、月子は煙草を吸って待っている。最早学校の制服なんて着ておらず、黒いジャージに黒いTシャツ姿だった。
「ずっと勉強してたの?」
「うん」
「まじで? 変態じゃん」
月子はバイクに跨り、あたしもその後ろに跨る。月子の細い腰に両手を回すと、彼女の体温が伝わってくる。エンジン音にかき消されないように、あたしは声を張り上げる。
「どっか行くの?」
「え、帰りたい?」
「全然」
「じゃ、海でも行こ」
月子は海が好きだった。この町の海は綺麗な砂浜の海水浴場ではなく、生臭い魚の腐臭が漂う漁港ばかりなのだが、月子はそれでも度々、海に行きたがった。何が面白いのか、あたしには分からない。月子は海をぼうっと見つめながら煙草を何本か吸って、少しだけ泣きそうな顔をする。いつもそうなのだ。月子にはちょっとおセンチな所があった。
月子はあたしを後ろに乗せているときは、決して危険な運転をしない。あたしの知らない曲を鼻歌で歌いながら、法定速度で走る。まあ、月子はバイクの免許を持っているわけではないから、それで既に違法なのだけれど。月子は何度も警察のお世話になっているが、あたしまでとばっちりを食わないように、そこだけは気を付けているらしかった。不良少女の当然かもしれない気遣いが少しだけ嬉しくて、あたしは月子を嫌いになれなかった。
海に着く。既に十月も半ばで、風が冷たかった。月明かりだけを頼りにテトラポッドの上に器用に飛び乗り、月子は膝を抱えて座った。あたしもそのすぐ隣に腰を下ろす。風を遮るものがないから、ひたすらに寒い。あたしは月子の肩に頭を預ける。月子の体温を分けてもらえるように。月子はポケットから煙草を取り出して火を点けたが、あたしが「臭い」と呟くと海に放り投げ、それきり吸わなかった。頭を預けている肩が小さく震えているのに気付いて、あたしは顔を上げた。あ。月子が泣いている。月の光に照らされて、涙は宝石のようにきらりと光った。あたしは手を伸ばして月子の涙を拭う。拭っても拭っても、月子の涙は止まらなかった。どうしたのかと尋ねても、月子は答えてはくれなかった。あたしは黙って涙を流し続ける月子の頭を、ぽんぽんと叩いた。泣きやめ、月子。
三十分ほどぐずぐずと泣き続けた月子は、突然ぴたりと泣き止んで、あたしの顔を見てにやにや笑った。ずっと泣いていたので目元は真っ赤で、頬はあたしが拭いきれなかった涙で濡れて、光っていた。
「大丈夫?」
「うん、多分」
月子は笑って立ち上がり、それから「おりゃっ」という掛け声とともに、何の前触れもなく海に飛び込んだ。ざぶん、と大きな音がして、あたしは慌てて海を覗き込む。ぶくぶくと泡が浮かんできて、真っ黒な海の中から、月子がぷはぁと顔を出した。驚いて固まっているあたしの顔を見て、月子はけらけら笑った。
「何て顔してんの!」
「だって、だって、そりゃ驚くでしょ! 意味分かんないし! だから頭おかしいって言われるんだよ!」
「あはは。海に飛び込んだら気持ちが晴れるかと思ったんだ」
「……晴れたの?」
「……いや、冷えた」
月子は足を滑らせて何度か海に落ちながら、時間をかけてテトラポッドに上がってきた。冷え切った体をがたがた震わせながら、それでもあたしに笑って見せる。
「やば、風邪引いちゃうわ」
「ばかは風邪引かないんだよ」
あたしはポケットからハンカチを出して月子の顔を拭いた。月子は子供みたいに無邪気な笑みを浮かべながら、されるがままになっている。こうしていると、煙草ばかり吸う金髪の不良少女もただの子供みたいだな、とあたしは思う。
「早く帰って着替えた方がいいよ」
「えー、もう帰るの? ちょっとバイク走らせればすぐ乾くって」
「身体余計冷えるよ」
「大丈夫大丈夫。身体は頑丈だから」
月子がいつまでもにやにや笑っているので、あたしは少し真面目な顔で諭すことにした。
「あたしたちは風邪引いても、看病してくれる人なんていないんだから。自分のことは、自分くらいは、大切にしないとだめでしょ」
月子の顔からにやにや笑いが、消えた。
ふっと月子の瞳が真っ暗になる。瞳に映っていた月の光が消えたのだ。空を見上げると、厚い雲に覆われて月が見えなくなっていた。風が強くなってきて、しかし真っ暗だから雲が動いているのかも分からなかった。空を見上げているあたしの耳に、小さな嗚咽が届いた。見下ろすと、月子は涙を流さずに泣いていた。喉からひゅうひゅうと悲鳴のような息が漏れていた。
「月子、何かあったのか、あたしが聞いたら教えてくれる?」
月子は首を横に振った。相変わらず、声にならない悲鳴を上げながら。
「それなら、何かあたしに手伝えることある?」
月子は真っ暗な瞳のままあたしの顔を見上げた。
「……何も聞かないで、今晩泊めてくれない?」
「もちろん。でも大したもてなしは期待しないでね」
月子はようやく微笑んで、頷いた。
■■■
やたら静かな月子を伴って家に入る。父はまだ帰っていないようだった。一応リビングに顔を出すと、女が携帯を見ながら弟にごはんを食べさせていた。弟はテーブルに盛大に食べ零しをしているが、携帯に夢中の女は気付いていない。ただいま、と声をかけると、女は顔も上げずに「……うん」と呟いた。きょろきょろと室内を見回している月子を、とりあえず風呂に入れる。その後は、女が作ったさほど美味しくないカレーを手渡し、食べさせた。月子はあまり喋らなくて、あたしが何かをしてあげると、弱々しく笑って見せた。そこにはいつもの月子はいなくて、まだあたしたちがそれほど関わらなかった頃、不良娘になる前の気の弱い月子のようだった。あたしは少し不安になる。いつもの月子に早く戻ってよ。にやにや笑いながら、突拍子もない行動で周りを驚かせてよ。
まだ食べさせるものがないかと冷蔵庫を漁っているあたしを、月子はじっと見つめていた。
「……何で私みたいな奴と仲良くしてくれるの?」
「え、そっちがちょっかいかけてくるんじゃん。あたしはあんたと違って、優等生なのにさ」
「あはは。優等生か。あはは」
月子はようやく声を上げて笑ったけれど、それはいつものような無邪気な笑い声ではなかった。僅かに、嘲笑が含まれているような気がした。瞳は、キッチンの明かりに照らされているはずなのに、底なし沼のように真っ暗だった。
「……優等生になるなんて、私たちには無理じゃない?」
「それはどうかな。努力次第じゃない?」
「でも、私にはあの親の血が流れてるんだよ」
月子はくすくす笑った。あたしの知らない、嫌な笑い方。
「私、両親のことが、特に父親が、ほんとに嫌いなんだ。憎んでるんだ。だけどあいつに一番似てるのも、私なんだよ。まだ十八歳だけど、私は自分に絶望してる。あいつみたいになってしまうのが怖くて、そうなるくらいなら死んじゃいたいんだ」
月子はくすくす笑いながら、早口で、真っ暗な目をして言った。あたしは何を言えばいいのか分からなくなって、それでも月子の言ってることは絶対に違うと思って否定したかったけど、言葉が出てこなかった。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「……なあに?」
答えたあたしの声が震えているのに気付いて、月子は少しだけ優しい顔をした。あたしが冷蔵庫を開けっ放しにしていたのを、立ち上がってそっと閉める。まるで幼い子供にするように、繊細で、少しだけぎこちない手つきで、あたしの頭を撫でた。
「――もし私があいつみたいな、屑みたいな、そんな大人になっても、まだ友達でいてくれる?」
あたしは一瞬、躊躇った。頷くことを。そのほんの一瞬に、キッチンのドアが開いた。弟の食べ終わった食器を持って女が入りかけ、月子に気付いてぴたりと足を止める。
「……誰? その子」
女は、金色に染められて枝毛だらけの月子の髪を見て、眉を顰めた。全身をじろじろ見回されて、しかし月子は動じることなく突っ立っていた。女の顔を見て、無表情に会釈する。
「友達。今日泊めるの」
「友達? その子が?」
女は鼻で笑った。
「あんた、裏では悪いことしてるのね。そんな友達がいるなんて知らなかった」
「別に迷惑かけないから、いいでしょ?」
女は不満そうな顔だったが、特に小言も言わず、食器を置いてキッチンから出て行った。あたしは月子の腕を掴んで、二階に駆け上がった。一番奥の部屋が、あたしの砦。月子を部屋に押し込み、自分も入って乱暴にドアを閉める。だめだ。やっぱり、だめだ。早く家を出たい。ここはあたしの家じゃない。どうしようもなくあいつが嫌いだ。口も利きたくないくらいに。
「月子、逃げちゃいたいね」
「……それ、めちゃくちゃいいじゃん。一緒に逃げる?」
月子は笑っていた。いつものにやにや笑いだった。さっきまでの真っ暗な顔をしていた月子がいなくなって、あたしは安堵する。
「逃げるって、どこに」
「そうだなぁ、ラスベガスとかいいんじゃない? 二人で大金持ちになるか、一文無しになるかの、一世一代の博打をしようよ。大丈夫。もし一文無しになったら、一緒に銀行強盗でもやろう。世界中の銀行を襲って、それから、屑みたいな大人を皆殺しにしてやろうよ」
「最高だね」
あたしも笑う。ばかみたいな、子供っぽい話。あたしたちが本当にここから逃げ出すことなんて絶対にないと分かっているから、話は際限なく荒唐無稽に広がった。二人で銀行強盗の計画をやたら念入りに立てて、アメリカに行くならハリウッドにも行きたいねと話して、何ならセレブの豪邸を乗っ取ってやろうと笑って、子供みたいに騒いで。あたしたちはずっと笑っていて、ここ最近で一番楽しい時間だったけれど、後からこのときのことを思い出したら、きっと何の話をあんなに長い時間していたのか、ほとんど覚えていないんだろうという予感があった。話自体は紙切れのように薄っぺらく、内容なんてなかったのだ。でもそれが、あたしたちを支えていた。
喋っているうちに眠くなり、ふと気付くともう昼だった。ベッドの隣では月子が小さな寝息を立てていた。とても苦しそうな寝顔。あたしは時計を何度か確認して、生まれて初めて学校を無断欠席してしまったことを知り、それは確かにショックではあったが思ったより衝撃が少なかった。まあ、いいか、とあたしは思った。どうでも、いいか。
「月子、月子。もうお昼だよ」
揺さぶると、月子は微かに呻いて伸びをした。しばらくぼうっとしたままあたしを見つめていて、それからふふっと笑った。
「学校、サボっちゃったの?」
「月子のせいだよ、全く」
「あはは」
月子は楽しそうにけたけた笑って、それからふと淋しそうな眼をして俯いた。
「今日、学校行かないなら、海に行かない?」
「またー? よく飽きないね」
あたしは月子に付き合って海によく行っていたが、正直に言うと、海なんてちっとも興味がなかった。それに加えて、昨日のように月子が海に飛び込んだらどうしようという不安があった。今度こそ、月子は浮かんでこないのではないか。昨日から、月子はずっと変だった。普段からどことなく陰のある少女ではあったが、それはそれなりに不幸な家庭に生まれ育った人なら誰しもが背負っている陰だった。しかし昨日からの月子は、まるで一人では抱えきれないような大きな苦痛を背負っているかのようだった。或るいは、罪を。
「今日は、いつもと別の場所に行ってみようと思うんだよね。私の、秘密の場所に」
月子の笑顔はいつも通りに見えて、あたしは迷いながらも頷いた。二人で洗面所に行き、顔を洗って歯を磨いた。家の中にはもう家族は誰もおらず、あたしは月子と二人きりでここに住んでいるのだという錯覚を起こしそうになった。それは幸せな幻だった。今朝のあたしにはどうやっても直らない強情な寝癖が付いており、それは普段だったらただの憂鬱の種なのだけれど、月子がけたけた笑っているので、大したことではなかった。
月子のバイクに一緒に跨り、海を目指す。太陽が真上にあって空気は暖かいが、風だけは冷たかった。あたしは月子の腰に回した腕に力を込める。月子はいつもの漁港の近くとは全く別の方向へバイクを走らせていた。エンジンの音。風になびく月子の金色の髪は、太陽の光を浴びてあたしの視界一杯に煌めいていた。なんて綺麗なんだろう。あたしは月子の髪に見とれる。
バイクが止まり、辺りを見回すと月子の家の近くだった。月子が父親と二人で暮らしている古い一軒家は、この小さな町を見下ろせる小高い丘の上にある。家の裏は崖で、落下防止の簡易的な柵が設けられている。月子はいつ壊れるか分からないその古い柵に両手をかけ、海を見下ろした。
「危ないよ、月子」
「平気だよ」
海の方を向いているので、月子の表情は見えない。けれど、いつものように泣きそうな顔をしているのだろうな、とあたしは思った。海以外に月子の気を引けるものがないだろうかと、あたしは辺りを見回した。
「あ、ねぇねぇ、月子」
あたしは、月子の家の傍に立つスモモの木を指さした。
「中学生のときにさ、あの木に二人で登って、スモモ取ったよね。覚えてる?」
「……ああ、覚えてるよ」
月子は薄らと笑い、目を閉じた。あたしも目を閉じる。ここに来るまですっかり忘れていたけど、こうやって目を閉じればつい最近のことのように、鮮明に思い出せる。中学生の、ある夏のことだった。あたしが桃を食べたいなと呟いて、それを聞いた月子がスーパーで万引きをしようとしたのだ。あたしは慌てて止めて、「盗んでまで食べたいわけじゃない」と怒った。月子はどうして自分が怒られているのか、いまいち分かっていないようだった。
「食べたいなら、取ればいいじゃん。桃って高いし」
「頭おかしい奴の原理は分かんない」
「じゃ、買う?」
「いいよ。もう食べたくなくなった」
呆れて帰ろうとしたあたしを、月子は慌てて引き留めて、ここに連れて来たのだ。「この木はうちのだから、取ってもいいんだよ」と言って。あたしが食べたかったのは桃だし、この木で取ったスモモはびっくりするくらい酸っぱかったけど、あたしにスモモを取ってくれた月子は、今よりもずっと楽しそうににやにや笑っていた。
目を開けると、月子はスモモの木の傍に立って、眩しそうに見上げていた。あたしもその隣に並んで、同じように木を見上げる。
「……この木、私が生まれた年に植えたらしいよ。両親が」
「え、そうなの?」
「うん。ウケるよね。もう両親は離婚して、母親には新しい家庭ができたらしくて、父親は酒ばっか飲んでろくに働かなくて、私はこんなにダメになっちゃってるのに、この木は残ってるんだよ」
月子は木の幹に触れようとして、しかし触れる直前で手を止め、だらりと下ろした。
「……もう、実がならないんだ、この木。あんたと一緒に食べた夏が最後だったよ」
葉は茂ってるから枯れたわけじゃないんだろうけど、と月子は呟いた。枯れてはないけど、何かが終わっちゃったのかな、とあたしは思う。何かが尽きてしまったから、実がならないのかな。
「もしかしたら、私も、大切にされてた瞬間があったのかもしれない。例えば、私が生まれたときとか。月子って名前も、私が生まれた夜が綺麗な満月だったからなんだって、ずっと前に母親が言ってた。あの満月のように、心の綺麗な子に育ってほしいって。私もずっと昔には大切にされてたことを、つい昨日、ようやく思い出したんだよ」
月子はあたしの方を向いて、にっこり笑った。その笑顔がすごく綺麗で悲しそうで、あたしは苦しくなる。
「そんなの、一瞬だったでしょ? 結局は屑だったじゃん。月子のこと押し付け合うなんて、本当に大切な子供だったらそんなことしないよ」
騙されないで、月子。そうやって親に騙されて、あたしたちは色んな大切なものを壊されてきたはずなんだ。子供はどうしたって無力で、大人の力には抗えない。だからあたしは早く大人になりたい。屑みたいな大人たちに殺されないうちに。
「うん、分かってる。だから私、両親のことがやっぱり大嫌いだ。でも一瞬でも大切にされてたなら、私がしたこともきっと、許されることじゃないんだ」
どういうこと、と問う前に、月子は海に向かって走り出した。あたしは慌てて月子の背中に追いすがる。柵に体重をかけて身を乗り出した月子は、必死なあたしの顔を見て吹き出した。
「何て顔してんの!」
「だって、だって月子が飛び降りちゃうのかと思って……!」
「やだな、ここから飛び降りたら死んじゃうよ! あはは」
月子はあたしを安心させるように頭をぽんぽんと叩いた。それから再び海に向き直り、崖の下を覗き込む。あたしも恐る恐る身を乗り出した。崖の下の方は岩場になっていて、波は打ち寄せる度に白く砕けていた。
「――ここから、父親を突き落としたんだ」
「……えっ?」
月子の目線は、真っ直ぐ崖の下に向けられたままだった。顔には何の表情も浮かんでおらず、しかしその声は震えていた。あたしは少し躊躇って、それでも、柵を掴んでいる月子の左手の上に自分の右手を重ねた。
「昨日の夕方、ここで煙草を吸ってたら、父親が珍しく家から出てきて。すっごく酒臭くて。『俺にも一本寄越せ』って言うから、何となく二人で並んで煙草吸ってて。何で大っ嫌いなアル中の父親と一緒の空間にいるのかなぁ、なんて考えてた。でもまあ、そのときの父親は酔ってはいたけど怒鳴らないし、いつもみたいに殴ってもこなかった。変に静かだった。そしたら、突然謝ってきたんだ。いつもごめんって。いい父親じゃなくてごめんって。私、驚いちゃった」
月子はくすくす笑った。笑う度に金色の髪が揺れた。
「今更何で謝ってくんのかなぁ、許してほしいのかなぁ、なんて考えたら腹立ってきてさ。もう遅いよ。もう無理だよって思って。気付いたら、父親の背中を思いっきり押してた。自分の全体重をかけて」
酔っぱらってたから、簡単に落ちたよ、と月子は笑った。この肌寒い季節に、父親は何でか背中に汗かいててさ、じっとり湿った感触がずっと手に残ってて、それが気持ち悪くて家に入ってから手を何回も洗ったんだ、と言い、笑いながら泣いていた。
月子が昨日からずっと背負っていたものはこれだったんだ、とあたしは頷いた。月子はけたけた笑いながら涙を零し、膝から崩れ落ちる。地面に座り込んで泣き笑いをしている月子を、あたしは力一杯抱き締めた。大丈夫だよ、と呟きながら、何も大丈夫じゃないことは分かっている。月子はしばらく泣いて落ち着いた後に、ようやくあたしを抱き締め返した。思いがけず強い力に、あたしは驚く。
「屑みたいな父親の血が流れてるから、私はやっぱり屑だった。父親以下の屑だった。だけど、あんな父親でもほんの一瞬、私を大切にできたんだよ。だから私にも、できてたはずなんだ」
耳元で、月子は呟いた。怖いくらいに優しい声で。
「あんたのこと、大切にしてたんだ」
■■■
その後のことは、ぼんやりしているうちに過ぎていった。月子の父親の遺体が漁船に発見され、月子は自ら警察に出頭し、逮捕された。不良娘によるアル中の父親殺しというニュースは、さしたる驚きを生まなかった。月子は、いかにもそういうことをしそうな人間だと、周りに認識されていた。テレビで偉そうな専門家が、少女Aは父親の愛に飢えていたのだと解説していた。月子の話は、ニュースで取り上げられた瞬間に、ひどく凡庸で、安っぽい話へと変わってしまって、それが辛くてあたしはニュースを見なくなった。最初のうちは学校にもテレビの取材が来ていて、月子とろくに話したこともないような奴らが、月子がいかに頭のおかしい人間だったかを嬉々として語っていた。
あたしは今まで以上に勉強するようになり、成績は面白いくらいに伸びた。両親に、遠い東京の大学に行きたいと告げると、二つ返事で了承してくれた。暗くなるまで学校で勉強して、見回りの先生が来たらようやく家に帰る生活を続けた。勉強の途中で海に誘ってくれる友達は、もういなかった。受験が終わり、無事合格したことを両親に告げると、父はばかみたいに喜び、女も少し涙ぐんでいた。あたしの一人暮らしの準備に、女はしつこく付き合った。あたしが一人でいいと言っても、頑なに東京までついて来て、一つ一つの物件の粗探しをするので、恥ずかしいことこの上なかった。しかしどうやら、この女は血の繋がっていないあたしを、少しくらいは大切に思っているようだった。それを認めてしまうと、なぜ自分が今までそれほどにこの女を嫌っていたのか、よく分からなくなった。と思った翌日に、「あの金髪の子と友達ってことが、内申に響かなくてほんとに良かったわねぇ」なんて言い出すので、やっぱりこの女はどうしても嫌いだった。
東京へ行く前日に、あたしは月子の家を訪れた。彼女のバイクで一気に坂を上ったあの日とは違って歩いて行ったので、ひどく疲れた。空き家になってしまった月子の家の傍に、スモモの木は変わらず立っていた。あたしは木の幹にそっと触れる。この木が、今年は実を付けるような気がした。
おわり
確かに月子は人よりも不幸な人生を送っていたのかもしれない。その辺にいる十八歳の女子高生よりは、確かに不幸だった。両親は離婚して月子の養育を押し付け合ったらしいし、結局月子を引き取ることになった父親はアル中で毎日酒に溺れていた。月子がそんな環境でまともに育つはずがなく、中学生のときには煙草を吸い始め、髪はいつの間にか金髪になり、学校をサボってはバイクを走らせていた。だけど月子くらいの不幸な子なんて、きっと日本には溢れているのだろうとも思う。月子が特別だというわけではないのだ。月子は少し甘えているな、とさえあたしは思っていた。まともに育てなかったのは月子の両親が悪かったかもしれないけど、もう十八歳なのだ。高校を卒業した後のことを、月子は何も考えていないらしかった。家を出て働けば、いくらだって人生を軌道修正できるのに。月子にその気があるなら、だけど。
あたしも月子ほどではないにしろ、両親の離婚と、父親の再婚を経験していた、ありふれてはいるけどそれなりに不幸な子だった。今のあたしの家は、あたしの家じゃない。父親と、知らない女と、血が半分だけ繋がった幼い弟。知らない女はあたしや弟の前でもお構いなしに、父親に甘い声で話しかけ、べったりとくっつく。それが見ていて気持ち悪かった。本当の母親だと思ってね、と初めて会ったときに言われたけれど、そんなことは不可能だったし、認めたくなかった。母親って、こんなに女を感じさせる存在じゃないはずだ。女が喜ぶし父を怒らせたくはなかったから、家では「お母さん」と呼んでいた。本当は女が、あたしにほとんど興味がないことは知っていた。洗濯物を出しておけば洗濯してくれるし、ごはんだってあたしの分もちゃんと用意されているけれど、あたしの存在はどこか空気のようだった。それにもう、慣れてしまった。慣れてしまったけれど、自分だけはそうはならないと決めていた。屑みたいな大人が世の中には溢れていて、屑みたいな世界を作り上げている。自分だけはそんな一員にはなりたくない。
典型的な不良少女に育った月子は、真面目な高校生のあたしに、なぜだかよくちょっかいをかけにきた。小学生のときから同じクラスだったが、そんなにあの頃は関わらなかったはずなのに。きっとあたしが他の人みたいに、月子を見てあからさまな反応をしなかったからなのだろう。
受験まであと四カ月で、進学クラスの雰囲気はぴりぴりと電気を帯びているようだった。あたしは休み時間も放課後も、参考書とずっと向かい合っていた。勉強をすることは苦痛ではなかった。それよりも、あの家に居続けることの方が苦痛だったから。放課後に教室に残って勉強する人は、あたしの他にはそれほどいなかった。皆塾に通っているので、そこの自習室が使えるのだ。あたしは塾には行っていなかったから、教室しか勉強する場所がなかった。窓の外が紅に染まり、それからだんだんと群青に変わっていく。星が夜空に輝き始めた頃、窓の外でバイクのエンジン音が響く。あたしは勉強の手を止め、周りを見回す。いつの間にか、教室にはあたししかいなかった。伸びをしてから窓を開ける。グラウンドの真ん中にバイクを止め、月子がにやにや笑いながら手を振っていた。
「勉強終わろー!」
あたしは頷き、参考書をリュックに放り込んで教室を出る。三階から一階まで降りて、靴を履き替えてあたしが出てくるまでの間、月子は煙草を吸って待っている。最早学校の制服なんて着ておらず、黒いジャージに黒いTシャツ姿だった。
「ずっと勉強してたの?」
「うん」
「まじで? 変態じゃん」
月子はバイクに跨り、あたしもその後ろに跨る。月子の細い腰に両手を回すと、彼女の体温が伝わってくる。エンジン音にかき消されないように、あたしは声を張り上げる。
「どっか行くの?」
「え、帰りたい?」
「全然」
「じゃ、海でも行こ」
月子は海が好きだった。この町の海は綺麗な砂浜の海水浴場ではなく、生臭い魚の腐臭が漂う漁港ばかりなのだが、月子はそれでも度々、海に行きたがった。何が面白いのか、あたしには分からない。月子は海をぼうっと見つめながら煙草を何本か吸って、少しだけ泣きそうな顔をする。いつもそうなのだ。月子にはちょっとおセンチな所があった。
月子はあたしを後ろに乗せているときは、決して危険な運転をしない。あたしの知らない曲を鼻歌で歌いながら、法定速度で走る。まあ、月子はバイクの免許を持っているわけではないから、それで既に違法なのだけれど。月子は何度も警察のお世話になっているが、あたしまでとばっちりを食わないように、そこだけは気を付けているらしかった。不良少女の当然かもしれない気遣いが少しだけ嬉しくて、あたしは月子を嫌いになれなかった。
海に着く。既に十月も半ばで、風が冷たかった。月明かりだけを頼りにテトラポッドの上に器用に飛び乗り、月子は膝を抱えて座った。あたしもそのすぐ隣に腰を下ろす。風を遮るものがないから、ひたすらに寒い。あたしは月子の肩に頭を預ける。月子の体温を分けてもらえるように。月子はポケットから煙草を取り出して火を点けたが、あたしが「臭い」と呟くと海に放り投げ、それきり吸わなかった。頭を預けている肩が小さく震えているのに気付いて、あたしは顔を上げた。あ。月子が泣いている。月の光に照らされて、涙は宝石のようにきらりと光った。あたしは手を伸ばして月子の涙を拭う。拭っても拭っても、月子の涙は止まらなかった。どうしたのかと尋ねても、月子は答えてはくれなかった。あたしは黙って涙を流し続ける月子の頭を、ぽんぽんと叩いた。泣きやめ、月子。
三十分ほどぐずぐずと泣き続けた月子は、突然ぴたりと泣き止んで、あたしの顔を見てにやにや笑った。ずっと泣いていたので目元は真っ赤で、頬はあたしが拭いきれなかった涙で濡れて、光っていた。
「大丈夫?」
「うん、多分」
月子は笑って立ち上がり、それから「おりゃっ」という掛け声とともに、何の前触れもなく海に飛び込んだ。ざぶん、と大きな音がして、あたしは慌てて海を覗き込む。ぶくぶくと泡が浮かんできて、真っ黒な海の中から、月子がぷはぁと顔を出した。驚いて固まっているあたしの顔を見て、月子はけらけら笑った。
「何て顔してんの!」
「だって、だって、そりゃ驚くでしょ! 意味分かんないし! だから頭おかしいって言われるんだよ!」
「あはは。海に飛び込んだら気持ちが晴れるかと思ったんだ」
「……晴れたの?」
「……いや、冷えた」
月子は足を滑らせて何度か海に落ちながら、時間をかけてテトラポッドに上がってきた。冷え切った体をがたがた震わせながら、それでもあたしに笑って見せる。
「やば、風邪引いちゃうわ」
「ばかは風邪引かないんだよ」
あたしはポケットからハンカチを出して月子の顔を拭いた。月子は子供みたいに無邪気な笑みを浮かべながら、されるがままになっている。こうしていると、煙草ばかり吸う金髪の不良少女もただの子供みたいだな、とあたしは思う。
「早く帰って着替えた方がいいよ」
「えー、もう帰るの? ちょっとバイク走らせればすぐ乾くって」
「身体余計冷えるよ」
「大丈夫大丈夫。身体は頑丈だから」
月子がいつまでもにやにや笑っているので、あたしは少し真面目な顔で諭すことにした。
「あたしたちは風邪引いても、看病してくれる人なんていないんだから。自分のことは、自分くらいは、大切にしないとだめでしょ」
月子の顔からにやにや笑いが、消えた。
ふっと月子の瞳が真っ暗になる。瞳に映っていた月の光が消えたのだ。空を見上げると、厚い雲に覆われて月が見えなくなっていた。風が強くなってきて、しかし真っ暗だから雲が動いているのかも分からなかった。空を見上げているあたしの耳に、小さな嗚咽が届いた。見下ろすと、月子は涙を流さずに泣いていた。喉からひゅうひゅうと悲鳴のような息が漏れていた。
「月子、何かあったのか、あたしが聞いたら教えてくれる?」
月子は首を横に振った。相変わらず、声にならない悲鳴を上げながら。
「それなら、何かあたしに手伝えることある?」
月子は真っ暗な瞳のままあたしの顔を見上げた。
「……何も聞かないで、今晩泊めてくれない?」
「もちろん。でも大したもてなしは期待しないでね」
月子はようやく微笑んで、頷いた。
■■■
やたら静かな月子を伴って家に入る。父はまだ帰っていないようだった。一応リビングに顔を出すと、女が携帯を見ながら弟にごはんを食べさせていた。弟はテーブルに盛大に食べ零しをしているが、携帯に夢中の女は気付いていない。ただいま、と声をかけると、女は顔も上げずに「……うん」と呟いた。きょろきょろと室内を見回している月子を、とりあえず風呂に入れる。その後は、女が作ったさほど美味しくないカレーを手渡し、食べさせた。月子はあまり喋らなくて、あたしが何かをしてあげると、弱々しく笑って見せた。そこにはいつもの月子はいなくて、まだあたしたちがそれほど関わらなかった頃、不良娘になる前の気の弱い月子のようだった。あたしは少し不安になる。いつもの月子に早く戻ってよ。にやにや笑いながら、突拍子もない行動で周りを驚かせてよ。
まだ食べさせるものがないかと冷蔵庫を漁っているあたしを、月子はじっと見つめていた。
「……何で私みたいな奴と仲良くしてくれるの?」
「え、そっちがちょっかいかけてくるんじゃん。あたしはあんたと違って、優等生なのにさ」
「あはは。優等生か。あはは」
月子はようやく声を上げて笑ったけれど、それはいつものような無邪気な笑い声ではなかった。僅かに、嘲笑が含まれているような気がした。瞳は、キッチンの明かりに照らされているはずなのに、底なし沼のように真っ暗だった。
「……優等生になるなんて、私たちには無理じゃない?」
「それはどうかな。努力次第じゃない?」
「でも、私にはあの親の血が流れてるんだよ」
月子はくすくす笑った。あたしの知らない、嫌な笑い方。
「私、両親のことが、特に父親が、ほんとに嫌いなんだ。憎んでるんだ。だけどあいつに一番似てるのも、私なんだよ。まだ十八歳だけど、私は自分に絶望してる。あいつみたいになってしまうのが怖くて、そうなるくらいなら死んじゃいたいんだ」
月子はくすくす笑いながら、早口で、真っ暗な目をして言った。あたしは何を言えばいいのか分からなくなって、それでも月子の言ってることは絶対に違うと思って否定したかったけど、言葉が出てこなかった。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「……なあに?」
答えたあたしの声が震えているのに気付いて、月子は少しだけ優しい顔をした。あたしが冷蔵庫を開けっ放しにしていたのを、立ち上がってそっと閉める。まるで幼い子供にするように、繊細で、少しだけぎこちない手つきで、あたしの頭を撫でた。
「――もし私があいつみたいな、屑みたいな、そんな大人になっても、まだ友達でいてくれる?」
あたしは一瞬、躊躇った。頷くことを。そのほんの一瞬に、キッチンのドアが開いた。弟の食べ終わった食器を持って女が入りかけ、月子に気付いてぴたりと足を止める。
「……誰? その子」
女は、金色に染められて枝毛だらけの月子の髪を見て、眉を顰めた。全身をじろじろ見回されて、しかし月子は動じることなく突っ立っていた。女の顔を見て、無表情に会釈する。
「友達。今日泊めるの」
「友達? その子が?」
女は鼻で笑った。
「あんた、裏では悪いことしてるのね。そんな友達がいるなんて知らなかった」
「別に迷惑かけないから、いいでしょ?」
女は不満そうな顔だったが、特に小言も言わず、食器を置いてキッチンから出て行った。あたしは月子の腕を掴んで、二階に駆け上がった。一番奥の部屋が、あたしの砦。月子を部屋に押し込み、自分も入って乱暴にドアを閉める。だめだ。やっぱり、だめだ。早く家を出たい。ここはあたしの家じゃない。どうしようもなくあいつが嫌いだ。口も利きたくないくらいに。
「月子、逃げちゃいたいね」
「……それ、めちゃくちゃいいじゃん。一緒に逃げる?」
月子は笑っていた。いつものにやにや笑いだった。さっきまでの真っ暗な顔をしていた月子がいなくなって、あたしは安堵する。
「逃げるって、どこに」
「そうだなぁ、ラスベガスとかいいんじゃない? 二人で大金持ちになるか、一文無しになるかの、一世一代の博打をしようよ。大丈夫。もし一文無しになったら、一緒に銀行強盗でもやろう。世界中の銀行を襲って、それから、屑みたいな大人を皆殺しにしてやろうよ」
「最高だね」
あたしも笑う。ばかみたいな、子供っぽい話。あたしたちが本当にここから逃げ出すことなんて絶対にないと分かっているから、話は際限なく荒唐無稽に広がった。二人で銀行強盗の計画をやたら念入りに立てて、アメリカに行くならハリウッドにも行きたいねと話して、何ならセレブの豪邸を乗っ取ってやろうと笑って、子供みたいに騒いで。あたしたちはずっと笑っていて、ここ最近で一番楽しい時間だったけれど、後からこのときのことを思い出したら、きっと何の話をあんなに長い時間していたのか、ほとんど覚えていないんだろうという予感があった。話自体は紙切れのように薄っぺらく、内容なんてなかったのだ。でもそれが、あたしたちを支えていた。
喋っているうちに眠くなり、ふと気付くともう昼だった。ベッドの隣では月子が小さな寝息を立てていた。とても苦しそうな寝顔。あたしは時計を何度か確認して、生まれて初めて学校を無断欠席してしまったことを知り、それは確かにショックではあったが思ったより衝撃が少なかった。まあ、いいか、とあたしは思った。どうでも、いいか。
「月子、月子。もうお昼だよ」
揺さぶると、月子は微かに呻いて伸びをした。しばらくぼうっとしたままあたしを見つめていて、それからふふっと笑った。
「学校、サボっちゃったの?」
「月子のせいだよ、全く」
「あはは」
月子は楽しそうにけたけた笑って、それからふと淋しそうな眼をして俯いた。
「今日、学校行かないなら、海に行かない?」
「またー? よく飽きないね」
あたしは月子に付き合って海によく行っていたが、正直に言うと、海なんてちっとも興味がなかった。それに加えて、昨日のように月子が海に飛び込んだらどうしようという不安があった。今度こそ、月子は浮かんでこないのではないか。昨日から、月子はずっと変だった。普段からどことなく陰のある少女ではあったが、それはそれなりに不幸な家庭に生まれ育った人なら誰しもが背負っている陰だった。しかし昨日からの月子は、まるで一人では抱えきれないような大きな苦痛を背負っているかのようだった。或るいは、罪を。
「今日は、いつもと別の場所に行ってみようと思うんだよね。私の、秘密の場所に」
月子の笑顔はいつも通りに見えて、あたしは迷いながらも頷いた。二人で洗面所に行き、顔を洗って歯を磨いた。家の中にはもう家族は誰もおらず、あたしは月子と二人きりでここに住んでいるのだという錯覚を起こしそうになった。それは幸せな幻だった。今朝のあたしにはどうやっても直らない強情な寝癖が付いており、それは普段だったらただの憂鬱の種なのだけれど、月子がけたけた笑っているので、大したことではなかった。
月子のバイクに一緒に跨り、海を目指す。太陽が真上にあって空気は暖かいが、風だけは冷たかった。あたしは月子の腰に回した腕に力を込める。月子はいつもの漁港の近くとは全く別の方向へバイクを走らせていた。エンジンの音。風になびく月子の金色の髪は、太陽の光を浴びてあたしの視界一杯に煌めいていた。なんて綺麗なんだろう。あたしは月子の髪に見とれる。
バイクが止まり、辺りを見回すと月子の家の近くだった。月子が父親と二人で暮らしている古い一軒家は、この小さな町を見下ろせる小高い丘の上にある。家の裏は崖で、落下防止の簡易的な柵が設けられている。月子はいつ壊れるか分からないその古い柵に両手をかけ、海を見下ろした。
「危ないよ、月子」
「平気だよ」
海の方を向いているので、月子の表情は見えない。けれど、いつものように泣きそうな顔をしているのだろうな、とあたしは思った。海以外に月子の気を引けるものがないだろうかと、あたしは辺りを見回した。
「あ、ねぇねぇ、月子」
あたしは、月子の家の傍に立つスモモの木を指さした。
「中学生のときにさ、あの木に二人で登って、スモモ取ったよね。覚えてる?」
「……ああ、覚えてるよ」
月子は薄らと笑い、目を閉じた。あたしも目を閉じる。ここに来るまですっかり忘れていたけど、こうやって目を閉じればつい最近のことのように、鮮明に思い出せる。中学生の、ある夏のことだった。あたしが桃を食べたいなと呟いて、それを聞いた月子がスーパーで万引きをしようとしたのだ。あたしは慌てて止めて、「盗んでまで食べたいわけじゃない」と怒った。月子はどうして自分が怒られているのか、いまいち分かっていないようだった。
「食べたいなら、取ればいいじゃん。桃って高いし」
「頭おかしい奴の原理は分かんない」
「じゃ、買う?」
「いいよ。もう食べたくなくなった」
呆れて帰ろうとしたあたしを、月子は慌てて引き留めて、ここに連れて来たのだ。「この木はうちのだから、取ってもいいんだよ」と言って。あたしが食べたかったのは桃だし、この木で取ったスモモはびっくりするくらい酸っぱかったけど、あたしにスモモを取ってくれた月子は、今よりもずっと楽しそうににやにや笑っていた。
目を開けると、月子はスモモの木の傍に立って、眩しそうに見上げていた。あたしもその隣に並んで、同じように木を見上げる。
「……この木、私が生まれた年に植えたらしいよ。両親が」
「え、そうなの?」
「うん。ウケるよね。もう両親は離婚して、母親には新しい家庭ができたらしくて、父親は酒ばっか飲んでろくに働かなくて、私はこんなにダメになっちゃってるのに、この木は残ってるんだよ」
月子は木の幹に触れようとして、しかし触れる直前で手を止め、だらりと下ろした。
「……もう、実がならないんだ、この木。あんたと一緒に食べた夏が最後だったよ」
葉は茂ってるから枯れたわけじゃないんだろうけど、と月子は呟いた。枯れてはないけど、何かが終わっちゃったのかな、とあたしは思う。何かが尽きてしまったから、実がならないのかな。
「もしかしたら、私も、大切にされてた瞬間があったのかもしれない。例えば、私が生まれたときとか。月子って名前も、私が生まれた夜が綺麗な満月だったからなんだって、ずっと前に母親が言ってた。あの満月のように、心の綺麗な子に育ってほしいって。私もずっと昔には大切にされてたことを、つい昨日、ようやく思い出したんだよ」
月子はあたしの方を向いて、にっこり笑った。その笑顔がすごく綺麗で悲しそうで、あたしは苦しくなる。
「そんなの、一瞬だったでしょ? 結局は屑だったじゃん。月子のこと押し付け合うなんて、本当に大切な子供だったらそんなことしないよ」
騙されないで、月子。そうやって親に騙されて、あたしたちは色んな大切なものを壊されてきたはずなんだ。子供はどうしたって無力で、大人の力には抗えない。だからあたしは早く大人になりたい。屑みたいな大人たちに殺されないうちに。
「うん、分かってる。だから私、両親のことがやっぱり大嫌いだ。でも一瞬でも大切にされてたなら、私がしたこともきっと、許されることじゃないんだ」
どういうこと、と問う前に、月子は海に向かって走り出した。あたしは慌てて月子の背中に追いすがる。柵に体重をかけて身を乗り出した月子は、必死なあたしの顔を見て吹き出した。
「何て顔してんの!」
「だって、だって月子が飛び降りちゃうのかと思って……!」
「やだな、ここから飛び降りたら死んじゃうよ! あはは」
月子はあたしを安心させるように頭をぽんぽんと叩いた。それから再び海に向き直り、崖の下を覗き込む。あたしも恐る恐る身を乗り出した。崖の下の方は岩場になっていて、波は打ち寄せる度に白く砕けていた。
「――ここから、父親を突き落としたんだ」
「……えっ?」
月子の目線は、真っ直ぐ崖の下に向けられたままだった。顔には何の表情も浮かんでおらず、しかしその声は震えていた。あたしは少し躊躇って、それでも、柵を掴んでいる月子の左手の上に自分の右手を重ねた。
「昨日の夕方、ここで煙草を吸ってたら、父親が珍しく家から出てきて。すっごく酒臭くて。『俺にも一本寄越せ』って言うから、何となく二人で並んで煙草吸ってて。何で大っ嫌いなアル中の父親と一緒の空間にいるのかなぁ、なんて考えてた。でもまあ、そのときの父親は酔ってはいたけど怒鳴らないし、いつもみたいに殴ってもこなかった。変に静かだった。そしたら、突然謝ってきたんだ。いつもごめんって。いい父親じゃなくてごめんって。私、驚いちゃった」
月子はくすくす笑った。笑う度に金色の髪が揺れた。
「今更何で謝ってくんのかなぁ、許してほしいのかなぁ、なんて考えたら腹立ってきてさ。もう遅いよ。もう無理だよって思って。気付いたら、父親の背中を思いっきり押してた。自分の全体重をかけて」
酔っぱらってたから、簡単に落ちたよ、と月子は笑った。この肌寒い季節に、父親は何でか背中に汗かいててさ、じっとり湿った感触がずっと手に残ってて、それが気持ち悪くて家に入ってから手を何回も洗ったんだ、と言い、笑いながら泣いていた。
月子が昨日からずっと背負っていたものはこれだったんだ、とあたしは頷いた。月子はけたけた笑いながら涙を零し、膝から崩れ落ちる。地面に座り込んで泣き笑いをしている月子を、あたしは力一杯抱き締めた。大丈夫だよ、と呟きながら、何も大丈夫じゃないことは分かっている。月子はしばらく泣いて落ち着いた後に、ようやくあたしを抱き締め返した。思いがけず強い力に、あたしは驚く。
「屑みたいな父親の血が流れてるから、私はやっぱり屑だった。父親以下の屑だった。だけど、あんな父親でもほんの一瞬、私を大切にできたんだよ。だから私にも、できてたはずなんだ」
耳元で、月子は呟いた。怖いくらいに優しい声で。
「あんたのこと、大切にしてたんだ」
■■■
その後のことは、ぼんやりしているうちに過ぎていった。月子の父親の遺体が漁船に発見され、月子は自ら警察に出頭し、逮捕された。不良娘によるアル中の父親殺しというニュースは、さしたる驚きを生まなかった。月子は、いかにもそういうことをしそうな人間だと、周りに認識されていた。テレビで偉そうな専門家が、少女Aは父親の愛に飢えていたのだと解説していた。月子の話は、ニュースで取り上げられた瞬間に、ひどく凡庸で、安っぽい話へと変わってしまって、それが辛くてあたしはニュースを見なくなった。最初のうちは学校にもテレビの取材が来ていて、月子とろくに話したこともないような奴らが、月子がいかに頭のおかしい人間だったかを嬉々として語っていた。
あたしは今まで以上に勉強するようになり、成績は面白いくらいに伸びた。両親に、遠い東京の大学に行きたいと告げると、二つ返事で了承してくれた。暗くなるまで学校で勉強して、見回りの先生が来たらようやく家に帰る生活を続けた。勉強の途中で海に誘ってくれる友達は、もういなかった。受験が終わり、無事合格したことを両親に告げると、父はばかみたいに喜び、女も少し涙ぐんでいた。あたしの一人暮らしの準備に、女はしつこく付き合った。あたしが一人でいいと言っても、頑なに東京までついて来て、一つ一つの物件の粗探しをするので、恥ずかしいことこの上なかった。しかしどうやら、この女は血の繋がっていないあたしを、少しくらいは大切に思っているようだった。それを認めてしまうと、なぜ自分が今までそれほどにこの女を嫌っていたのか、よく分からなくなった。と思った翌日に、「あの金髪の子と友達ってことが、内申に響かなくてほんとに良かったわねぇ」なんて言い出すので、やっぱりこの女はどうしても嫌いだった。
東京へ行く前日に、あたしは月子の家を訪れた。彼女のバイクで一気に坂を上ったあの日とは違って歩いて行ったので、ひどく疲れた。空き家になってしまった月子の家の傍に、スモモの木は変わらず立っていた。あたしは木の幹にそっと触れる。この木が、今年は実を付けるような気がした。
おわり
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