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番外編
番外編「花に染む」二
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伊平は小さな頃に両親と死に別れ、深川の叔父夫婦の家で厄介になっていた。けれど、叔父の家にはすでに五人の子がいた。子供一人、余分に育てることも楽ではなかった。口に出して厄介者と言われたことはなかったけれど、伊平は肩身が狭いと気に病んでいた。
世話になったことに感謝して、料理屋へ丁稚奉公に上がった。けれど、伊平が手代になる前に料理屋は傾いて潰れてしまった。料理どころか雑用を経験しただけである。
日銭を稼ぎつつ糊口を凌ぐうち、点々と町を渡り歩いた。その行く先々の人との触れ合いは楽しく、知らない場所へ行く楽しみを知った。そうしたら、江戸の外も知りたいと、そんなふうに思えてしまったのだ。
これといって家族もないからこそ、風が吹くままに旅をする。路銀が尽きればその宿駅で日雇いの仕事を探し、銭を稼ぎ、先へと進む。本当にその日暮らしであった。
こうなると、毎日同じ風景を見てばかりでは息が詰まる。新しい日が来るのなら、新しい場所へ行きたいと、安住などは少しも望まなかった。
そんな生活を数年続けていた。今の伊平は二十歳を少しばかり越えていた。
己を頼りに旅をする。色々な仕事を請け負い、それは修行にもなった。
その伊平が、久方ぶりに江戸へ向かっていた。旅は好きだけれど、たまにあの忙しなさが懐かしい時もある。
久しぶりの江戸を伊平なりに楽しみにしていた。
街道を、懐かしい気持ちで一人行く。そんな道の先に、同じく一人の旅人がいた。しかし、それは伊平のように壮健な旅人ではなかったのだ。
道端にうずくまる汚れた浴衣――
春とはいえ、花冷えの中山道。女一人とは大変なことなのではないだろうか。そもそも、女の一人旅は認められないはずである。連れとはぐれてしまったのだろうか。この煤けた埃避けの浴衣に菅笠を被った老女は、急な差し込みで動けないのかもしれない。
根無し草の伊平であっても、それを見捨てるほどに落ちぶれたつもりはない。ひとつ負ぶって行こうと思った。
道端で震えている老女に、伊平はひと声かける。
「そこの方、具合が悪いのならあたしが負ぶって行きますよ。ゆっくり休める最寄りの宿場でよいでしょうね」
相手の返事も待たず、伊平は老女に背を向けてしゃがんだ。特別立派な体躯をしてはいないけれど、小柄な女一人くらいどうとでもなる。
しかし、老女は遠慮をするのか、見ず知らずの男に銭をかすめ取られてどこかに埋められると危惧するのか、一向に背に重みがかからない。伊平が振り返ると、老女はうつむいて、笠の下からぼそぼそと聞き取りにくい小さな声で言った。
「具合が悪いのではありません。どうぞ、お気になさらず」
「具合が悪くないのなら、何故こんなところでへたり込んでいるのです。遠慮なら要りません。あたしは急ぎの用があるような旅じゃあないんですから」
なるべく柔らかく言ってみせた。
恩を着せるつもりはない。ただ、見捨てるのは寝覚めが悪いから嫌なだけだ。
「後生ですから、あたしに負ぶわれてください。このままじゃああたしも捨てては通れないんです。このまま二人、ずっとここにいるわけにも行かないでしょう」
すると、相手はおずおずと伊平の肩に手を伸ばした。肩に指先が触れたのを感じた。やっと、と思ったのも束の間、老女は元気に立ち上がった。笠に積もっていた桜の花びらがはらりと落ちる。
「本当に、なんともありませんから。ほぅら、この通り」
と、その場でくるりと回って見せる。言う通り、元気そうではある。
「それなら、なんで道端でしゃがんで震えていたんですか。てっきり具合が悪いんだって思いましたよ」
気まずさから伊平が思わず言ってしまうと、相手はまた小さな声でつぶやいた。
「それは、その、少し悲しいことを思い出してしまって――」
「悲しいこと、ですか」
「ええ。とても。それだけなのです。どうぞお気になさらず」
伊平はどうにも釈然としないまま立ち去ろうとしたけれど、どうやら行き先は同じであったようだ。のそのそと動き出す老女を、伊平がその気になればあっという間に引き離してしまえる。ただ、その姿には放っておいてよいものか迷ってしまうような頼りなさが漂うのだ。
助けてほしいと言われたわけでもないのに、要らぬ世話を焼くべきではないのかもしれない。むしろ、放っておいてほしいと背中が語っているふうにも感じられなくはない。
伊平は少し間を保ちつつ、旅を続けた。そう、次の宿場は板橋宿だ。あの老女も江戸を目指しているのだろう。
宿場町に着きさえすれば、人目はたくさんある。伊平が心配せずとも悪いようにはならないだろう。だからせめて、板橋宿へ着くまで。それまでの付き合いだ、と伊平は思った。
世話になったことに感謝して、料理屋へ丁稚奉公に上がった。けれど、伊平が手代になる前に料理屋は傾いて潰れてしまった。料理どころか雑用を経験しただけである。
日銭を稼ぎつつ糊口を凌ぐうち、点々と町を渡り歩いた。その行く先々の人との触れ合いは楽しく、知らない場所へ行く楽しみを知った。そうしたら、江戸の外も知りたいと、そんなふうに思えてしまったのだ。
これといって家族もないからこそ、風が吹くままに旅をする。路銀が尽きればその宿駅で日雇いの仕事を探し、銭を稼ぎ、先へと進む。本当にその日暮らしであった。
こうなると、毎日同じ風景を見てばかりでは息が詰まる。新しい日が来るのなら、新しい場所へ行きたいと、安住などは少しも望まなかった。
そんな生活を数年続けていた。今の伊平は二十歳を少しばかり越えていた。
己を頼りに旅をする。色々な仕事を請け負い、それは修行にもなった。
その伊平が、久方ぶりに江戸へ向かっていた。旅は好きだけれど、たまにあの忙しなさが懐かしい時もある。
久しぶりの江戸を伊平なりに楽しみにしていた。
街道を、懐かしい気持ちで一人行く。そんな道の先に、同じく一人の旅人がいた。しかし、それは伊平のように壮健な旅人ではなかったのだ。
道端にうずくまる汚れた浴衣――
春とはいえ、花冷えの中山道。女一人とは大変なことなのではないだろうか。そもそも、女の一人旅は認められないはずである。連れとはぐれてしまったのだろうか。この煤けた埃避けの浴衣に菅笠を被った老女は、急な差し込みで動けないのかもしれない。
根無し草の伊平であっても、それを見捨てるほどに落ちぶれたつもりはない。ひとつ負ぶって行こうと思った。
道端で震えている老女に、伊平はひと声かける。
「そこの方、具合が悪いのならあたしが負ぶって行きますよ。ゆっくり休める最寄りの宿場でよいでしょうね」
相手の返事も待たず、伊平は老女に背を向けてしゃがんだ。特別立派な体躯をしてはいないけれど、小柄な女一人くらいどうとでもなる。
しかし、老女は遠慮をするのか、見ず知らずの男に銭をかすめ取られてどこかに埋められると危惧するのか、一向に背に重みがかからない。伊平が振り返ると、老女はうつむいて、笠の下からぼそぼそと聞き取りにくい小さな声で言った。
「具合が悪いのではありません。どうぞ、お気になさらず」
「具合が悪くないのなら、何故こんなところでへたり込んでいるのです。遠慮なら要りません。あたしは急ぎの用があるような旅じゃあないんですから」
なるべく柔らかく言ってみせた。
恩を着せるつもりはない。ただ、見捨てるのは寝覚めが悪いから嫌なだけだ。
「後生ですから、あたしに負ぶわれてください。このままじゃああたしも捨てては通れないんです。このまま二人、ずっとここにいるわけにも行かないでしょう」
すると、相手はおずおずと伊平の肩に手を伸ばした。肩に指先が触れたのを感じた。やっと、と思ったのも束の間、老女は元気に立ち上がった。笠に積もっていた桜の花びらがはらりと落ちる。
「本当に、なんともありませんから。ほぅら、この通り」
と、その場でくるりと回って見せる。言う通り、元気そうではある。
「それなら、なんで道端でしゃがんで震えていたんですか。てっきり具合が悪いんだって思いましたよ」
気まずさから伊平が思わず言ってしまうと、相手はまた小さな声でつぶやいた。
「それは、その、少し悲しいことを思い出してしまって――」
「悲しいこと、ですか」
「ええ。とても。それだけなのです。どうぞお気になさらず」
伊平はどうにも釈然としないまま立ち去ろうとしたけれど、どうやら行き先は同じであったようだ。のそのそと動き出す老女を、伊平がその気になればあっという間に引き離してしまえる。ただ、その姿には放っておいてよいものか迷ってしまうような頼りなさが漂うのだ。
助けてほしいと言われたわけでもないのに、要らぬ世話を焼くべきではないのかもしれない。むしろ、放っておいてほしいと背中が語っているふうにも感じられなくはない。
伊平は少し間を保ちつつ、旅を続けた。そう、次の宿場は板橋宿だ。あの老女も江戸を目指しているのだろう。
宿場町に着きさえすれば、人目はたくさんある。伊平が心配せずとも悪いようにはならないだろう。だからせめて、板橋宿へ着くまで。それまでの付き合いだ、と伊平は思った。
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