21 / 36
番外編
番外編「花に染む」五
しおりを挟む
二人の暮らしに慣れて小金が貯まると、伊平と喜久は長屋を引き払い、板橋宿の裏長屋へと越した。そうしてそこでまた働きながら宿を構えるために金を貯める。
常に二人で見る夢は楽しかった。それが実現したらどんなに仕合せだろうかと。
家族の少ない二人だから、思うことは同じだった。
「店を大きくして奉公人もたくさん増やして、賑やかに過ごしたいわね」
「ああ。たったひと晩接するだけのお客様も家族のように親身に、心を込めてもてなしたいもんだ」
「お前さんは優しいから、お客様もお前さんのもてなしをきっと喜んでくださるわ」
喜久はすぐに伊平に優しいと言う。
そんなことはない。自分は平凡な人間だと思うのに、喜久があまりにそう言うから、伊平は自分の中にある小粒な優しさに水をやるようにして育てることになったのかもしれない。
喜久と出会わなければ、伊平はもっと懐の狭い人間であったと思うのだ。喜久に嫌われたくない一心で、いつも笑い、度量の大きいふりをしてみせる。そしていつしかそれが当たり前として伊平を育てた。そんな気がするのだ。
ふと、喜久は言った。
「お宿の名前はもう決めたのかしら」
「いいや、まだだけれど」
「つばくろ屋ってどうかしら」
「燕かい。なんでまた」
すると、喜久は子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「この長屋の庇の下にいつも燕の巣があるの。それを眺めていたら、あの親鳥みたいに甲斐甲斐しくお客様のお世話ができるようになれたらなって思ったの。だから、つばくろ屋。おかしいかしら」
なんとなく、喜久らしいと伊平は思った。だから、喜久の手に手を添えて、そうしてうなずいた。
「いいね。つばくろ屋か」
「ええ」
「早く暖簾をかける日が来るといいねぇ――」
それから数年。楽しくはあったけれど、忙しすぎる毎日は、若い二人であっても思う以上に疲れていたのかもしれない。なかなか子はできなかった。
子ができるよりも先に、伊平は旅籠屋の主になった。板橋宿の旅籠屋で商いが滞り、宿を閉めるという宿主の話を聞きつけ、伊平が宿を買い取ることになったのだ。
その宿は伊平の願いよりも大きな宿であった。それも仲宿の街道沿いという立地の良さだ。しかし、それでも現に先の持ち主は宿を手放した。場所がよいだけで客はつかない。
この宿を傾けずに守っていけるのか、尻込みした伊平の背を押したのは喜久であった。
「ここならたくさんお客様が来てくださるわ。楽しみね」
いつもその柔らかな笑顔に伊平は守られている。
「ああ、そうだねぇ。気張らないとねぇ」
喜久が笑うから、伊平も笑って返した。
この宿の大きさでは、夫婦二人では間に合わない。この宿を引き継ぐ時、そこから二人だけ奉公人を一緒に引き継いだ。一人は利助という顔の濃い手代である。この利助、一見顔のせいで気難しく見えるものの、いたって柔和、人当たりの良い男であった。もう一人はみいという年若い女中である。
ただし、念願のつばくろ屋の暖簾を掲げて三月。ようやくちらほらと客が足を止めてくれるようになった頃、みいは嫁に行くことになったのでと暇乞いをした。人手が減るのは厳しいものの、目出たいことであるから引き留めるわけにもいかなかった。
「大丈夫よ、お前さん。わたしが今まで以上に頑張るからね」
喜久が妹のように可愛がった女中の仕合せを願っている。伊平も同じように喜んでやるしかなかった。
「そうだね。お喜久の手料理は美味いから、もっとたくさんのお客様に食べて頂きたいね」
「私も精一杯お勤めさせて頂きます」
利助も丁稚がするような雑務を文句ひとつ零さずにこなしてくれている。ありがたいばかりであった。
ただ、ここでひとつ、思いもよらぬ出来事がつばくろ屋に起こったのだ。
喜久の懐妊である。子はできぬのかもしれないと諦めがどこかにあった。だからこそ、伊平はもう、飛び上がりたいほどに嬉しかった。やっと、やっとのことで自分たちに子ができたのだ。ただ――
喜久の悪阻がひどく、台所に立つと戻してしまう。必死で食事をこしらえてくれるものの、味もよくわからないらしく、料理の味が明らかに変わった。嬉しい半面、宿としてはこのままではいけないとも思う。
そうして、喜久は娘を産んだ。跡取り息子ではない、娘である。けれど、あんなにも可愛らしい赤子を前に、男も女もない。どちらにせよ伊平には宝である。奉公人の前だと言うのに、小さな娘を抱いて伊平はおいおいと泣いてしまった。
「お前さんったら」
産後の青白い顔で喜久は笑った。娘は喜久から一文字取って佐久と名づけた。その名がよかったのか、佐久は喜久によく似た面立ちの可愛らしい娘であった。
伊平はそうして本腰を入れて宿の料理人を探すことにした。子育てで忙しい喜久一人に宿の料理をすべて作らせるのは酷である。口入屋に頼み、臨時で手伝える女中は入れた。
今のうちに早く見つけなければと思うけれど、誰でもいいわけではない。納得のいく料理を作ってくれる料理人でなければいけない。これだけは譲れなかった。
こだわりすぎて時だけが過ぎてしまう。伊平は思いきって板橋にとどまらず、思いつく限りの知己を頼って料理人を探した。
そのうちに、大昔に丁稚奉公した料理屋の当時の仲間から、ある一人の男の話を聞きつけた。その男は、料亭の料理人で腕は確かだが、奉公はもういいと気楽な煮売屋になるつもりらしい。根っからの江戸っ子で気難しいから、多分うんとは言わないだろうけれど、とのことである。
それでも伊平はその男に会いに神田の長屋まで出向いた。五十がらみの気難しそうな小男は、それでも顔を見た瞬間に伊平は確信した。これは真の料理人だと。
神仏に参るようにして、その男、文吾のもとに通い詰めた。
「まったく――そこまでされてうんと言えねぇようじゃ男がすたりまさぁ。よござんす。お世話になりやしょう」
ついに文吾にそう言わせた。伊平の粘り勝ちである。
そうして伊平はのちに料理自慢の宿と謳えるほどの料理人を得たのであった。
常に二人で見る夢は楽しかった。それが実現したらどんなに仕合せだろうかと。
家族の少ない二人だから、思うことは同じだった。
「店を大きくして奉公人もたくさん増やして、賑やかに過ごしたいわね」
「ああ。たったひと晩接するだけのお客様も家族のように親身に、心を込めてもてなしたいもんだ」
「お前さんは優しいから、お客様もお前さんのもてなしをきっと喜んでくださるわ」
喜久はすぐに伊平に優しいと言う。
そんなことはない。自分は平凡な人間だと思うのに、喜久があまりにそう言うから、伊平は自分の中にある小粒な優しさに水をやるようにして育てることになったのかもしれない。
喜久と出会わなければ、伊平はもっと懐の狭い人間であったと思うのだ。喜久に嫌われたくない一心で、いつも笑い、度量の大きいふりをしてみせる。そしていつしかそれが当たり前として伊平を育てた。そんな気がするのだ。
ふと、喜久は言った。
「お宿の名前はもう決めたのかしら」
「いいや、まだだけれど」
「つばくろ屋ってどうかしら」
「燕かい。なんでまた」
すると、喜久は子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「この長屋の庇の下にいつも燕の巣があるの。それを眺めていたら、あの親鳥みたいに甲斐甲斐しくお客様のお世話ができるようになれたらなって思ったの。だから、つばくろ屋。おかしいかしら」
なんとなく、喜久らしいと伊平は思った。だから、喜久の手に手を添えて、そうしてうなずいた。
「いいね。つばくろ屋か」
「ええ」
「早く暖簾をかける日が来るといいねぇ――」
それから数年。楽しくはあったけれど、忙しすぎる毎日は、若い二人であっても思う以上に疲れていたのかもしれない。なかなか子はできなかった。
子ができるよりも先に、伊平は旅籠屋の主になった。板橋宿の旅籠屋で商いが滞り、宿を閉めるという宿主の話を聞きつけ、伊平が宿を買い取ることになったのだ。
その宿は伊平の願いよりも大きな宿であった。それも仲宿の街道沿いという立地の良さだ。しかし、それでも現に先の持ち主は宿を手放した。場所がよいだけで客はつかない。
この宿を傾けずに守っていけるのか、尻込みした伊平の背を押したのは喜久であった。
「ここならたくさんお客様が来てくださるわ。楽しみね」
いつもその柔らかな笑顔に伊平は守られている。
「ああ、そうだねぇ。気張らないとねぇ」
喜久が笑うから、伊平も笑って返した。
この宿の大きさでは、夫婦二人では間に合わない。この宿を引き継ぐ時、そこから二人だけ奉公人を一緒に引き継いだ。一人は利助という顔の濃い手代である。この利助、一見顔のせいで気難しく見えるものの、いたって柔和、人当たりの良い男であった。もう一人はみいという年若い女中である。
ただし、念願のつばくろ屋の暖簾を掲げて三月。ようやくちらほらと客が足を止めてくれるようになった頃、みいは嫁に行くことになったのでと暇乞いをした。人手が減るのは厳しいものの、目出たいことであるから引き留めるわけにもいかなかった。
「大丈夫よ、お前さん。わたしが今まで以上に頑張るからね」
喜久が妹のように可愛がった女中の仕合せを願っている。伊平も同じように喜んでやるしかなかった。
「そうだね。お喜久の手料理は美味いから、もっとたくさんのお客様に食べて頂きたいね」
「私も精一杯お勤めさせて頂きます」
利助も丁稚がするような雑務を文句ひとつ零さずにこなしてくれている。ありがたいばかりであった。
ただ、ここでひとつ、思いもよらぬ出来事がつばくろ屋に起こったのだ。
喜久の懐妊である。子はできぬのかもしれないと諦めがどこかにあった。だからこそ、伊平はもう、飛び上がりたいほどに嬉しかった。やっと、やっとのことで自分たちに子ができたのだ。ただ――
喜久の悪阻がひどく、台所に立つと戻してしまう。必死で食事をこしらえてくれるものの、味もよくわからないらしく、料理の味が明らかに変わった。嬉しい半面、宿としてはこのままではいけないとも思う。
そうして、喜久は娘を産んだ。跡取り息子ではない、娘である。けれど、あんなにも可愛らしい赤子を前に、男も女もない。どちらにせよ伊平には宝である。奉公人の前だと言うのに、小さな娘を抱いて伊平はおいおいと泣いてしまった。
「お前さんったら」
産後の青白い顔で喜久は笑った。娘は喜久から一文字取って佐久と名づけた。その名がよかったのか、佐久は喜久によく似た面立ちの可愛らしい娘であった。
伊平はそうして本腰を入れて宿の料理人を探すことにした。子育てで忙しい喜久一人に宿の料理をすべて作らせるのは酷である。口入屋に頼み、臨時で手伝える女中は入れた。
今のうちに早く見つけなければと思うけれど、誰でもいいわけではない。納得のいく料理を作ってくれる料理人でなければいけない。これだけは譲れなかった。
こだわりすぎて時だけが過ぎてしまう。伊平は思いきって板橋にとどまらず、思いつく限りの知己を頼って料理人を探した。
そのうちに、大昔に丁稚奉公した料理屋の当時の仲間から、ある一人の男の話を聞きつけた。その男は、料亭の料理人で腕は確かだが、奉公はもういいと気楽な煮売屋になるつもりらしい。根っからの江戸っ子で気難しいから、多分うんとは言わないだろうけれど、とのことである。
それでも伊平はその男に会いに神田の長屋まで出向いた。五十がらみの気難しそうな小男は、それでも顔を見た瞬間に伊平は確信した。これは真の料理人だと。
神仏に参るようにして、その男、文吾のもとに通い詰めた。
「まったく――そこまでされてうんと言えねぇようじゃ男がすたりまさぁ。よござんす。お世話になりやしょう」
ついに文吾にそう言わせた。伊平の粘り勝ちである。
そうして伊平はのちに料理自慢の宿と謳えるほどの料理人を得たのであった。
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。