中山道板橋宿つばくろ屋

五十鈴りく

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番外編

番外編「花に染む」四

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 その後の平尾宿ひらおしゅく(下宿)は、何を話して通り過ぎたのか、後になっても伊平いへいはよく覚えていない。ただ、平尾宿を越えれば後は江戸までそう遠くはない。江戸へ着いた時が、喜久きくとの別れの時だ。

 ついさっき出会ったばかりで大仰なことをと思うけれど、そもそも共に歩く理由すらない。いったん別れたらそれっきりになる。多分、もう二度と会うことはない。
 そう思うと、伊平の体は先へ進むことを拒否するかのように動きがぎこちなくなる。

 旅が常、家族はいない。そんな伊平は物にも人にも執着したことはない。それが何故、今はこんなにも喜久と別れがたいと感じてしまうのか。
 美しい娘だからか。儚さがそう思わせるのか。
 よくはわからない。けれど、喜久はしばらく接しただけでも儚いだけの娘ではなかった。伊平の言葉に、笑顔もよく見せる。
 後、どれくらい歩けばこの道は分かたれるのか。そればかりが気になって、会話に身が入らず気もそぞろになった。

「伊平さん、どうかされましたか」

 喜久の方がそんな伊平に気を遣っていた。伊平の顔を覗き込む喜久は、知り合ったばかりの伊平のことを、もうすっかり信用してしまったように見えた。それがまた、やましい気になる。

 たったこれだけの距離を共に歩いただけで――
 板橋宿を二人で通り過ぎるだけの間に、伊平はすっかりこの娘に惚れ込んでしまったのである。そんなことがあるものなのかと伊平自身が驚いた。

「お喜久さん、江戸はもうすぐそこなんだけれど――」

 ぽつり、と伊平はつぶやく。喜久は軽くうなずいた。

「あい、もうすぐで」

 もうすぐ。
 喜久はそれをどう思っているのだろう。母との悲しい別れをした後の娘が、伊平と別れることを別段なんとも思わないのは当然だろう。
 けれど、ここで別れたらもう、取っ掛かりはない。こうして隣を歩くことすらできない。

 伊平はこの時、人生で初めて勝ち目の薄い賭けに出た。そう、後になって思う。何故そんなことを口走ったのか、若さとは恐ろしいものだ。

「お喜久さんの親戚に、あたしも挨拶していいだろうか」
「え――」
「あたしはお喜久さんとここで別れてそれっきりというのが嫌なんだ。できることなら、ずっと――もっとずっと長い道を一緒に歩いていきたい」

 けれどその愚かしさがあってこそ、道は開けた。本当に必要な局面となれば、人は案外普段の自分から及びもつかないような一面を見せる。伊平はそれを自らの経験として知ったのだった。
 喜久が、驚いたふうに顔を上げた。目を瞬かせ、そうしてほんのりと染まった頬を隠すようにしてうつむく。

「――なんて言うのですか」
「お喜久さんと所帯を持たせてもらいたいって」

 旅が常の若造が、身勝手なことを口走っている。それだけのことに過ぎない。けれど、これを口にしたのは本気であったからだ。
 喜久と共にいられるのであれば、もう旅になど出なくともよい。どこかに落ち着いて、平凡な毎日でもいい。家に帰れば喜久がいるのなら、その光景がどんな旅先よりも素晴らしいものになるような気がするのだ。

 たった一日で自分が変わる。そんなことが起こり得るのだ。
 喜久は伊平に顔を向けず、そよぐ風に浴衣の裾を揺らしながらぽつりと言った。

「さっきそこで出会って、それで他の誰かが同じ言葉をわたしに言ってくれたとして、そうしたらわたしは躊躇わずお断りしたと思います。それなのに、どうしてだか伊平さんがそう言うと、おかしなことに思えないのだから不思議です。さっき出会ったばかりなのに」

 喜久と離れがたい心持ちになるのは、互いに身寄りもなく、寄る辺のない身の上だからかもしれない。難しいことはわからない。けれど、互いを必要としている、それだけははっきりとしていたのだ。
 菅笠の下から、伊平に向けて微笑んだ喜久を愛しいと思った。

「きっと、伊平さんが優しいお人だからですね」
「いや、あたしは何も特別優しいわけじゃあないよ」

 苛立ちをおもてにも出す、未熟なところもある。ただの若造で、それほど立派なわけではない。

「いいえ、優しいお人です」

 それなのに、喜久は伊平を優しいと言う。
 母を亡くし、独り不安に震えていた自分に手を差し伸べてくれた伊平だから、この人となら長く寄り添っていけると感じたと、喜久はずいぶん経ってから教えてくれた。


 喜久の母が亡くなったのは板橋宿の隣、蕨宿わらびしゅくでのことだったそうだ。江戸まであと少しであること、帰るところもないこと、江戸まで同道できそうな夫婦者がいたことにより、庄屋に書かれた住来切手も持っている身である喜久は引き続き江戸までの旅を許された。

 ただ、共に旅をしてくれるはずであった夫婦者の夫があまりに喜久に親切にしてくれるもので、妻の機嫌を損ね、喧嘩別れしてしまいそうになったので、少し離れて歩くことにしたのだという。そのうちに距離は広がり、喜久も慌てて後を追うことをしなくなったらしい。そこからは保身のためにあの老女のように装っていたのだろう。


 それから江戸へ着き、喜久の伯父夫婦を探し当てた。不忍池しのばずのいけからほど近くの下谷広小路に面する表店で団子屋をしていた。喜久とはあまり似ておらず、どちらも忙しさが人相を変えてしまったのではないかというほどに目がつり上がっていた。

 伯父夫婦に、喜久を嫁にしたいと告げたところ、伊平どころか喜久にまで罵声を浴びせた。ふしだらだ、躾がなっていない、とまくし立てる伯父に頭を下げ、伊平は涙にくれる喜久の手を引いて広小路を歩いた。
 そうして、伊平と喜久は夫婦になった。お互い、身ひとつのことである。

 伊平が一年の半分も住んでいなかった浅草の裏長屋に戻って、差配さはい(大家)に報告したのみだ。
 九尺(約2.7メートル)二間(約3.6メートル)、二人で過ごすに不自由はなかった。

 喜久は針仕事と洗濯の請負い、伊平は持ち前の器用さでこれと仕事を絞るのではなく、声さえかかればどこへでも働きに出た。仕事をひとつに決めてしまわなかったのは、二人でいつか宿を構えたいと夢見たからである。

 伊平は旅をしてみて、旅人たちの多くが宿になんらかの不満を持っているような気がしたのだ。疲れた旅人たちがもっとくつろいで過ごせる宿が増えればいいと話すうち、自分たちがそれを目指してみてはどうだろうかという気になったのだ。
 そして、どこに宿を構えるのかと話し合った時、二人は驚くほどぴったりと同じ場所を選んだのだ。

「板橋宿」

 二人は顔を見合わせて笑った。
 すべてはあの場所から始まったのだから。
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