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番外編
番外編「短夜のおと」三
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又蔵と話したその翌日のこと。
「おい、弥多」
板場で朝餉の片づけを終えた弥多に、文吾が声をかけてきた。二人は膝を突き合わせて畳に座る。
何かしくじっただろうかと、弥多は考えた。文吾の下について十年以上の月日が流れたけれど、未だに未熟であると感じることは多い。
けれど、そんな弥多に向かって文吾は言ったのだった。
「おめぇ、今に子が産まれて親になるんだかんな、そろそろだろ」
「え――」
文吾の言う意味がよくわからなかった。返事もできずに固まっていると、文吾は首を左右に動かし、バキバキと音を鳴らしながら言った。
「こちとらもう六十も半ばを超えてんだぞ。いつまでもこのままってわけにゃいかねぇんだよ。頃合いだから、子が産まれたらおめぇが板前になれ」
薄々わかってはいた。板場の仕事が文吾の老体には厳しいことを感じつつも、弥多はまだ甘えていたかったのかもしれない。いつまでもその背中を追っていたかった。いつか退く日が来るとして、それは遠い先のことであってほしいとどこかで願っていた。
けれど、自分にそれほどの大役が務まるだろうか。その不安が拭えない。そうして、それがきっと顔に出ていた。文吾の一文字に引き結ばれた口がフ、と綻ぶ。
「おめぇはこれから板前だけじゃなく、旦那さんの跡を継がなくちゃならねぇ。このつばくろ屋の主になるってぇことだ。そいつは容易いこっちゃねぇだろう」
「――へい」
喉が絞められたように苦しくなる。けれど、これは自分が選んだこと。決めたこと。
これから産まれてくる子のためにも、ここでうつむくような男ではいけないと弥多は顔を上げた。文吾はそれに満足してくれたのだろうか。
「つばくろ屋はあっしにとっても大事な宿だ。何があっても守れ」
言葉は厳しい。けれどこれは命じたのではない、頼まれたのだ。このつばくろ屋が料理自慢の宿と謳われるまでになったのは、すべて文吾の力である。その恩に報いるためには、弥多が引き継いだその味を守り、伝えていくことしかない。
ずっと、厳しく、それでもあたたかく育ててくれた。そんな文吾が退く。
弥多は目尻がカッと熱くなって、涙が零れそうになるのを必死で堪えた。その日が来たら力強く、文吾が安心できるようにどっしりと構えて見送りたいと思うけれど――
突然すぎて言葉が出ない。けれど、弥多はたくさんの想いを込めて文吾に手を突いて頭を下げた。いつまでも顔を上げられない弥多であったけれど、文吾が軽く笑った気配がした。
「気張れよ」
「――へい」
互いに、初めて会った時は合わないと思ったのではないだろうか。弥多から見た文吾は気難しそうであった。文吾から見た弥多はあまりに頼りなかった。けれど、こうして共に板場に立てた時を宝だと思う。教えられたことのすべてを大切に守り続けていきたい。
「オヤジさんに教えて頂けて、私は仕合せでした。ありがとう、ございます――」
切れ切れに、感謝を口にした。けれど、こんな言葉では言い表せない。受けた恩は、あまりに大きい。
それに対し文吾は、へん、と鼻をすすりながら答えたのみである。たったそれだけのことで弥多は文吾の想いを受け取れた。だから、弥多の想いもまた文吾には伝わっているのだろう。
本当に、実りある歳月であった。
そんなことがあった五日後。
夕餉を終えて掃除をしていたはずの日出が慌ただしく走っている音がした。弥多はそれを板場で聞いていた。すると、帳場の当たりで利助の叫ぶ声がした。
「と、留吉っ」
「あいっ、ひとっ走り行ってきますっ」
留吉までもがどこかへ駆け去った。弥多は無性に胸が騒いだ。そんな弥多の背を文吾がバシンと叩く。振り向くと、文吾は皺の深い顔で、それでも目を輝かせて笑った。
「いよいよじゃねぇか」
いよいよ――
佐久が産気づいたのか。弥多は早鐘を打つ胸を押さえた。震えが止まらない。情けないほどに動じてしまう。
すると、板場の戸がカラリと開いた。緊張した面持ちの藤七が顔を覗かせる。
「弥多、お嬢さんのところへ」
「へい」
うなずいて踏み出した。この時も心の臓がはち切れそうであった。そんな弥多の肩に藤七がそっと手を載せた。
「おたかが見守っていてくれるから、お嬢さんも子も無事にお産を終えられるさ」
「それはありがたいことです」
そう、きっと無事に。
佐久はやり遂げてくれる。そうして、輝くような笑顔を向けてくれる。
その時、自分はなんと声をかけようか。
あれこれ考えてもきっと、子の顔を見たらすべて吹き飛んでしまいそうだけれど。
至らない親だとしても、それでも向き合うしかないのだ。
子と一緒に、自分も成長していかなければならない。
甘やかすだけではなく、時には厳しくしかることもしなければ。
覚悟は決めた。
男でも女でもいい。無事に産まれてくれたらそれで。
一体、どんな子に育つのだろうか――
―了―
「おい、弥多」
板場で朝餉の片づけを終えた弥多に、文吾が声をかけてきた。二人は膝を突き合わせて畳に座る。
何かしくじっただろうかと、弥多は考えた。文吾の下について十年以上の月日が流れたけれど、未だに未熟であると感じることは多い。
けれど、そんな弥多に向かって文吾は言ったのだった。
「おめぇ、今に子が産まれて親になるんだかんな、そろそろだろ」
「え――」
文吾の言う意味がよくわからなかった。返事もできずに固まっていると、文吾は首を左右に動かし、バキバキと音を鳴らしながら言った。
「こちとらもう六十も半ばを超えてんだぞ。いつまでもこのままってわけにゃいかねぇんだよ。頃合いだから、子が産まれたらおめぇが板前になれ」
薄々わかってはいた。板場の仕事が文吾の老体には厳しいことを感じつつも、弥多はまだ甘えていたかったのかもしれない。いつまでもその背中を追っていたかった。いつか退く日が来るとして、それは遠い先のことであってほしいとどこかで願っていた。
けれど、自分にそれほどの大役が務まるだろうか。その不安が拭えない。そうして、それがきっと顔に出ていた。文吾の一文字に引き結ばれた口がフ、と綻ぶ。
「おめぇはこれから板前だけじゃなく、旦那さんの跡を継がなくちゃならねぇ。このつばくろ屋の主になるってぇことだ。そいつは容易いこっちゃねぇだろう」
「――へい」
喉が絞められたように苦しくなる。けれど、これは自分が選んだこと。決めたこと。
これから産まれてくる子のためにも、ここでうつむくような男ではいけないと弥多は顔を上げた。文吾はそれに満足してくれたのだろうか。
「つばくろ屋はあっしにとっても大事な宿だ。何があっても守れ」
言葉は厳しい。けれどこれは命じたのではない、頼まれたのだ。このつばくろ屋が料理自慢の宿と謳われるまでになったのは、すべて文吾の力である。その恩に報いるためには、弥多が引き継いだその味を守り、伝えていくことしかない。
ずっと、厳しく、それでもあたたかく育ててくれた。そんな文吾が退く。
弥多は目尻がカッと熱くなって、涙が零れそうになるのを必死で堪えた。その日が来たら力強く、文吾が安心できるようにどっしりと構えて見送りたいと思うけれど――
突然すぎて言葉が出ない。けれど、弥多はたくさんの想いを込めて文吾に手を突いて頭を下げた。いつまでも顔を上げられない弥多であったけれど、文吾が軽く笑った気配がした。
「気張れよ」
「――へい」
互いに、初めて会った時は合わないと思ったのではないだろうか。弥多から見た文吾は気難しそうであった。文吾から見た弥多はあまりに頼りなかった。けれど、こうして共に板場に立てた時を宝だと思う。教えられたことのすべてを大切に守り続けていきたい。
「オヤジさんに教えて頂けて、私は仕合せでした。ありがとう、ございます――」
切れ切れに、感謝を口にした。けれど、こんな言葉では言い表せない。受けた恩は、あまりに大きい。
それに対し文吾は、へん、と鼻をすすりながら答えたのみである。たったそれだけのことで弥多は文吾の想いを受け取れた。だから、弥多の想いもまた文吾には伝わっているのだろう。
本当に、実りある歳月であった。
そんなことがあった五日後。
夕餉を終えて掃除をしていたはずの日出が慌ただしく走っている音がした。弥多はそれを板場で聞いていた。すると、帳場の当たりで利助の叫ぶ声がした。
「と、留吉っ」
「あいっ、ひとっ走り行ってきますっ」
留吉までもがどこかへ駆け去った。弥多は無性に胸が騒いだ。そんな弥多の背を文吾がバシンと叩く。振り向くと、文吾は皺の深い顔で、それでも目を輝かせて笑った。
「いよいよじゃねぇか」
いよいよ――
佐久が産気づいたのか。弥多は早鐘を打つ胸を押さえた。震えが止まらない。情けないほどに動じてしまう。
すると、板場の戸がカラリと開いた。緊張した面持ちの藤七が顔を覗かせる。
「弥多、お嬢さんのところへ」
「へい」
うなずいて踏み出した。この時も心の臓がはち切れそうであった。そんな弥多の肩に藤七がそっと手を載せた。
「おたかが見守っていてくれるから、お嬢さんも子も無事にお産を終えられるさ」
「それはありがたいことです」
そう、きっと無事に。
佐久はやり遂げてくれる。そうして、輝くような笑顔を向けてくれる。
その時、自分はなんと声をかけようか。
あれこれ考えてもきっと、子の顔を見たらすべて吹き飛んでしまいそうだけれど。
至らない親だとしても、それでも向き合うしかないのだ。
子と一緒に、自分も成長していかなければならない。
甘やかすだけではなく、時には厳しくしかることもしなければ。
覚悟は決めた。
男でも女でもいい。無事に産まれてくれたらそれで。
一体、どんな子に育つのだろうか――
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