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番外編
番外編「すえひろがり」二
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「ただいま、おっかさん」
長屋の戸を開けると、味噌の甘い香りが強く感じられた。
「おかえり、おすえ」
しゃもじを手に振り向いた母は、すえに明るい笑顔を向けてくれる。
土間にしゃがみ込み、竈の火加減を見ていた。母もあの祖父の娘だけあって料理が好きなのである。そして、食べることも。
「あら、その壺はもしかして――おとっつぁんの佃煮じゃないの」
開けてもいないのに、母はひと目見ただけで言い当ててしまった。すえは佃煮を手に大きくうなずく。
「うん、そうよ。昆布と浅利の佃煮だって」
「あらあら、それはご飯が進むわねぇ」
きゃっきゃと年若い娘のように、しゃもじを片手にはしゃぐ。そんな母がすえはとても好きだ。すえは佃煮を棚に置くと、母が作っていたものを覗き込む。鍋の中はどす黒かった。
「田楽味噌だ」
「そうよぅ。おとっつぁんが、今日は豆腐田楽で一杯やりたいって出かけに言っていたからね」
この『おとっつぁん』は、すえの父のことである。つまり、母である里の亭主、安吉だ。
出職の鋳物師であり、毎日この長屋から仕事場へ通っている。くたくたになって帰っても、酒を飲んでも陽気に笑い、すえの話をよく聞いてくれる父である。
おとっつぁんというのは厳しくて当たり前なんだと手習所の皆は言うけれど、すえのところはそんなこともない。
「おすえ、手を洗っておいで。そうしたら手伝っておくれよ」
「うんっ」
すえも美味しい料理が作れるようになりたい。だから、手伝いながらいろんなことを教えてもらいたいのだ。
いや、料理をしたいというよりも、こうして母と一緒になって何かをする、それだけですえは楽しかったのかもしれない。何せ、母は楽しい人なのだ。煮物をポロッと零せば笑い、隙を見てつまみ食いをし――母といると笑いが絶えない。
娘なら嫁に行くものだけれど、すえは一人娘だから、婿を探してなるべく父母のそばにいたいと思う。けれど、両親はすえがしたいようにしなさい、と大らかなものである。
なるべく、少しでも長く、とまだ年頃にもならないうちから考えてしまうすえだった。
その晩、帰ってきた父は上機嫌で母の作った豆腐田楽と祖父の作った佃煮で晩酌をした。母はそんな父のぐい呑みに徳利で酒を注ぎ足しつつ、ニコニコと話を聴いている。
すえも佃煮で茶粥を啜りつつ、そんな楽しいひと時にふと訊ねてみたくなった。口の中の茶粥を十分に味わい、こくりと飲み下すと言う。
「ねえねえ、あたしっておとっつぁんとおっかさんのどっちに似ているのかしら」
その途端、父と母は動きを止めた。本当に、ピタリと息を合わせたように止まった。
長屋の手狭なひと間から、いつもの賑わいが途切れた。あれ、とすえが僅かに何かを感じ取る直前に、母がいつものごとく明るく笑って徳利を放り出した。そうして、すえに抱きつく。
「あたしに決まってるじゃないのさっ」
すると、父もぐい呑みを放り出して母ごとすえを包み込んだ。
「いいや、おれだ。おすえはおとっつぁんに似てる」
「おすえはおっかさん似の方がいいだろ」
頬ずりされながら、すえはうんと答えた。
「おすえはおとっつぁんに似たら嫌なのかっ」
すえはもう一度、うんと答えた。そうしたら、父が二人を強い力で締めつける。
「そんなこと言うなよぅ。なぁ、おすえっ」
「あいたた、痛いって、あんた」
そう言いながらも、母は笑っている。すえも思わず笑ってしまった。
「おとっつぁんが嫌なんじゃなくて、おっかさんに似たいだけなの」
母はそれを聞くと、さらにすえの頬に頬ずりを繰り返す。
「あらあら、なんて可愛いことを言ってくれるんだろうね。もう、おだてても何も出ないんだから」
そんなことを言いながらも、明日はきっとすえの好物をこさえてくれるのではないかと、そんな気もする。
優しい父と母と、美味しいご飯。
欲を言えば、くまのようにきょうだいが欲しかった。けれど、それは過ぎたわがままだ。
今のままでもすえは十分に仕合せなのだから。
すえはその日、父と母と川の字で眠りながら夢を見た。
長屋の戸を開けると、味噌の甘い香りが強く感じられた。
「おかえり、おすえ」
しゃもじを手に振り向いた母は、すえに明るい笑顔を向けてくれる。
土間にしゃがみ込み、竈の火加減を見ていた。母もあの祖父の娘だけあって料理が好きなのである。そして、食べることも。
「あら、その壺はもしかして――おとっつぁんの佃煮じゃないの」
開けてもいないのに、母はひと目見ただけで言い当ててしまった。すえは佃煮を手に大きくうなずく。
「うん、そうよ。昆布と浅利の佃煮だって」
「あらあら、それはご飯が進むわねぇ」
きゃっきゃと年若い娘のように、しゃもじを片手にはしゃぐ。そんな母がすえはとても好きだ。すえは佃煮を棚に置くと、母が作っていたものを覗き込む。鍋の中はどす黒かった。
「田楽味噌だ」
「そうよぅ。おとっつぁんが、今日は豆腐田楽で一杯やりたいって出かけに言っていたからね」
この『おとっつぁん』は、すえの父のことである。つまり、母である里の亭主、安吉だ。
出職の鋳物師であり、毎日この長屋から仕事場へ通っている。くたくたになって帰っても、酒を飲んでも陽気に笑い、すえの話をよく聞いてくれる父である。
おとっつぁんというのは厳しくて当たり前なんだと手習所の皆は言うけれど、すえのところはそんなこともない。
「おすえ、手を洗っておいで。そうしたら手伝っておくれよ」
「うんっ」
すえも美味しい料理が作れるようになりたい。だから、手伝いながらいろんなことを教えてもらいたいのだ。
いや、料理をしたいというよりも、こうして母と一緒になって何かをする、それだけですえは楽しかったのかもしれない。何せ、母は楽しい人なのだ。煮物をポロッと零せば笑い、隙を見てつまみ食いをし――母といると笑いが絶えない。
娘なら嫁に行くものだけれど、すえは一人娘だから、婿を探してなるべく父母のそばにいたいと思う。けれど、両親はすえがしたいようにしなさい、と大らかなものである。
なるべく、少しでも長く、とまだ年頃にもならないうちから考えてしまうすえだった。
その晩、帰ってきた父は上機嫌で母の作った豆腐田楽と祖父の作った佃煮で晩酌をした。母はそんな父のぐい呑みに徳利で酒を注ぎ足しつつ、ニコニコと話を聴いている。
すえも佃煮で茶粥を啜りつつ、そんな楽しいひと時にふと訊ねてみたくなった。口の中の茶粥を十分に味わい、こくりと飲み下すと言う。
「ねえねえ、あたしっておとっつぁんとおっかさんのどっちに似ているのかしら」
その途端、父と母は動きを止めた。本当に、ピタリと息を合わせたように止まった。
長屋の手狭なひと間から、いつもの賑わいが途切れた。あれ、とすえが僅かに何かを感じ取る直前に、母がいつものごとく明るく笑って徳利を放り出した。そうして、すえに抱きつく。
「あたしに決まってるじゃないのさっ」
すると、父もぐい呑みを放り出して母ごとすえを包み込んだ。
「いいや、おれだ。おすえはおとっつぁんに似てる」
「おすえはおっかさん似の方がいいだろ」
頬ずりされながら、すえはうんと答えた。
「おすえはおとっつぁんに似たら嫌なのかっ」
すえはもう一度、うんと答えた。そうしたら、父が二人を強い力で締めつける。
「そんなこと言うなよぅ。なぁ、おすえっ」
「あいたた、痛いって、あんた」
そう言いながらも、母は笑っている。すえも思わず笑ってしまった。
「おとっつぁんが嫌なんじゃなくて、おっかさんに似たいだけなの」
母はそれを聞くと、さらにすえの頬に頬ずりを繰り返す。
「あらあら、なんて可愛いことを言ってくれるんだろうね。もう、おだてても何も出ないんだから」
そんなことを言いながらも、明日はきっとすえの好物をこさえてくれるのではないかと、そんな気もする。
優しい父と母と、美味しいご飯。
欲を言えば、くまのようにきょうだいが欲しかった。けれど、それは過ぎたわがままだ。
今のままでもすえは十分に仕合せなのだから。
すえはその日、父と母と川の字で眠りながら夢を見た。
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