中山道板橋宿つばくろ屋

五十鈴りく

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番外編

番外編「すえひろがり」四

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 朝、寝ぼけまなこを擦りながら体を起こすと、すでに起きた母が飯を炊いていた。甘い米の香りが漂ってきて、すえはひくひくと鼻を動かした。

「おはよう、おっかさん」

 父は高いびきでまだ寝ている。これもいつものことだ。

「おはよう、おすえ。顔を洗ったら手伝っておくれ」
「うん」

 長屋の共同の井戸で水を汲んで洗うのだ。昔は力が足りなくて水も汲めなかったけれど、今はそれくらいならできる。
 どぶ板を避けながら歩き、井戸へ近づくと、裏長屋に住む飴売りの角蔵かくぞうの女房がいた。三人目の赤ん坊のむつきを洗っている。

「おはよう、おかつおばさん」

 かつはお歯黒の塗られた歯を見せて笑った。痩せていて、三十をいくつか越えたという年よりも少しばかり年上に見えるけれど、優しい人なのだ。

「ああ、おすえちゃん、おはよう」
三太さんたは寝てるの」

 三太というのは、角蔵とかつの三番目の息子である。やっと首が据わったばかりの頃合いだ。

一太いちたが見てくれてるんだ。おすえちゃんもまた頼むよ」
「うん、手習所から帰ったらね」

 と、すえはうなずいた。すえは一人っ子だから、一太たちと一緒に三太の面倒をみていると、自分まできょうだいができたみたいで嬉しかったりする。だから、子守りは嫌いではなかった。

「ありがとうねぇ」

 そう言って、かつは立ち上がった。硬く絞ったむつきをパァンと音を立てて広げる。そうして、ふと思い出したようにすえに訊ねた。

「おすえちゃんって、いくつになったんだっけ」
とおよ」
「そうかい、もうそんなになるんだねぇ」

 かつはしみじみとうなずいた。すえはかつと別れると、家に戻った。母の手伝いをしなくては。
 そんな何気ない始まりを迎えた一日が、すえにとって忘れがたい日となるのであった。



 いつものように朝餉を食べ、手習所へ出かける。喧嘩というほどではないにしろ、少し引っかかりのあったくまと顔を合わせたけれど、くまは昨日のことなどすでに忘れてしまったのか、けろりとしたものだった。
 すえも褒められた態度ではなかったから、そのことをありがたくも思う。

「ねぇねぇ、おすえちゃん、っちゃんの姉さんがお嫁に行くんだって」
「えぇっ、男勝りで嫁の貰い手なんてないって八っちゃんがいっつも言ってたのに」
「そうなんだけど、そんな姉さんを見初めたのが鍛冶町の小間物問屋の若旦那で、玉の輿なのよ」
「たまのこし――」

 くまは姉たちがいるせいか耳年増だ。噂も好きで、こうしてぽんぽん楽しそうに語る。すえはそれを聞きながら、へえぇ、とわかったようなわからないような相槌を打った。

「いいわねぇ、玉の輿」
「いいわねぇ」

 うっとりと言うくまに続いて、すえもうなずいておいた。
 他愛のない四方山話に花を咲かせつつ、すえは自分よりも幼い子の面倒をみながら学んだ。習ったばかりの字をひたすらに書く。半紙の字は何度も重ねて書いたから、すえにも読めない。ただ黒い。
 それでも、これだけ黒くなるほど書いたのだから、上手くなったような気にはなれた。

「じゃあね、おくまちゃん。また明日ね」
「うん、おすえちゃん、また明日」

 手を振って別れた。
 今日は寄り道をせずに帰る。すえは自分の長屋に向けて歩いた。出かけにかつと約束したから、三太の子守りをしようと決めていたのだ。
 くまとも険悪にならずにいられてほっとしていた。だから、すえは機嫌よく足取りも軽く長屋に戻ったのだ。

「ただいま、おっかさん」
「ああ、おかえり、おすえ」

 母は畳に座って繕い物をしていた。もしかすると、誰かに頼まれたのかもしれない。気のいい母は、忙しそうな人を見ると放っておけず、すぐに何か手伝えることはないかと言ってしまうのだ。
 すえはにこにこと笑顔でそんな母に言った。

「今日は三太の面倒を見てあげるの。出かけにおかつおばさんと約束したから」

 すると、母も笑顔で応じる。

「そうかい。それはいいね。おかつさんもきっと助かるよ。おすえ、しっかりね」
「うんっ」

 中に入らず、そのまま戸を閉めて出た。おかつのところへ行くために裏に回る。そうしたら、井戸の辺りにおかつがいた。背に眠った三太を背負い、長屋で一番の年寄りである松という老婆と話し込んでいた。

「――おすえちゃん、すごくしっかりした子に育って、さすがお里さんだねぇ」

 と、かつが優しい声で言ってくれていた。自分の話題が出て、それも褒められている。すえはそれが気恥ずかしくて思わず足を止めてしまった。
 そんなすえに気づかず、二人は話を続ける。

「あれからもう十年かい。月日が経つのは早いもんだねぇ」

 しみじみと、松もそんなことを言ってうなずいた。かつは背中の三太のために体を揺らしながら、ほぅ、とひとつため息をついた。

「あの時はさ、可哀想だって思ったよ。でも、おすえちゃんはお里さんが育ててよかったんだ。あんないい子に育ったんだから、血の繋がった本当の親子かどうかなんて、大したことじゃないよ」

 かつが言っていることが、この時のすえにはすぐに呑み込めなかった。
 本当の親子かどうか、とは――
 ただし、すえがついていけずとも、二人の話は続いていく。

「そうだねぇ。本当のおっかさんよりずっとおっかさんらしいくらいだよ、きっと」

 というのは、すえの母が本物ではないかのような口ぶりだ。
 そんなことがあるだろうか。あの母が、すえの本当の母ではないなんてことが――

「あの二人には子供ができなかったけど、おすえちゃんみたいな子が来てくれて本当によかったねぇ」

 しみじみと、松は言った。
 こんなところで嘘を言う意味がない。すえは、あの両親のもとへのだ。すえの本当の母がすえを産んで亡くなって――それなら、父とは血が繋がっていることになる。
 けれど、そうではない。すえは、やってきたのだという。
 それならば、父とも、母とも、どちらとも血の繋がりなどないことになる。

 父と、母と、どちらに似ているのか。
 どちらにも似ていなくて当たり前なのか。
 だから、誰も真剣に答えてはくれなかったのか。
 本当に――すえはもらい子なのか。

 ガタガタと、脚が震えに震えた。急にここがどこか見知らぬ土地で、すえは迷子になってしまったような心持ちがした。
 確かめよう。母に、確かめよう。
 違うと、きっとそう言って笑い飛ばしてくれる。
 そうでなければ、すえは――

 振り返った時、よろめいて長屋の壁にぶつかってしまった。その途端、かつと松はハッとして振り返る。

「お、おすえちゃん――っ」

 すえは挨拶もせずに二人に背中を向けた。そのまま逃げ出し、家の中に駆け込もうとした。けれど、障子戸に手をかけた時、恐ろしさが込み上げてきた。
 母と面と向かって話すのが怖くなった。すえがもらわれてきた子供ならば、母は――他人なのだ。
 どこまですえのことを大事にしてくれるのだろう。泣いて叫んで、そうしたら面倒な子だと呆れてしまわないだろうか。

 今までならそんなことは絶対にないと言えた。それは親子だからだ。それが揺らいだ。
 すえは障子戸から手を放した。そうして、家には入らずにそのまま駆け出した。
 どこへ向かえばいいのかもわからない。ただ走った。涙が溢れて顔を濡らす。今のすえの顔は、よれた花びらが散って水溜まりのようだ。

 こんなものは全部夢ならいいのに。
 あの日見た夢こそが真実だったのだろうか。
 たくさんきょうだいのいるあの家が本当のすえの居場所だったのかもしれない――
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