中山道板橋宿つばくろ屋

五十鈴りく

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番外編

番外編「すえひろがり」五

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 まだ子供であるすえが逃げ込める場所など限られている。結局のところ、何も考えずに走ったつもりが、辿り着いた場所は祖父、文吾の住む長屋であった。
 祖父も真相を知っているはずだ。知っていてずっと黙っていた。
 訊ねたら、そんなのは嘘っぱちだとごまかすだろうか。けれど、これが真実なら、もうごまかすようなことは言ってほしくなかった。

 泣きながら走ったせいですえはひどく疲れていた。祖父の長屋の前にへたり込んだ。肩で息をしながら、それでも涙は止まらず膝に落ちて着物に滲む。
 声を上げないようにしたつもりが、それでもまったく出さずにはいられない。ようやく日が暮れ始めたかという時分、長屋の障子戸がカラリと空いた。

「まあ、おすえったらどうしたんだいっ」

 祖母が驚きに目を見張っていた。涙でぼやける目を擦って、すえは祖母を見た。白髪頭の優しい祖母の顔がぼんやりと見える。祖母はすえの前に膝を突いた。

「泣いてばかりじゃわからないよ。一体どうしたんだい」

 泣きじゃくるすえの背を摩りながら祖母は問う。ただならぬものを感じたのか、祖父も中から出てきた。

「なんだ、何があったんでぇ」

 心配が声に出る。すえは堪らなくなって言った。

「あ、あたし、おとっつぁんとおっかさんの子じゃなかったのっ。もらわれてきた子だって、本当なのっ」

 言葉を叩きつけるようにぶつけた。それを言いきった途端、抑えていたものが堰を切って溢れ出す。声を殺すこともできず、すえは大声で泣き叫んだ。
 その途端、祖母はすえの体を力いっぱい抱き締めた。細く小さな体のどこにこんな力があるのかと思うくらいにきつく、すえの心まで抱きとめるようにして力を込める。

「おすえ、落ち着いて。ねえ、おすえ――」

 ささやきながら、祖母は泣いていた。泣かせたのはすえなのだろうか。
 そう思ったら、すえの涙が止まった。泣きすぎて枯れたのかもしれない。祖父はそんなすえを気遣いながら言う。

「中にへぇんな。ここで騒いでたって仕方ねぇ」

 すえはうなずいた。ここの長屋の人々も、何事かとばかりに様子を窺っている。それを祖父がシッシと追い払う。すえは中に入り、祖父はぴしゃりと戸を閉めた。
 すえが畳の上に座ると、祖母は向かい合ってすえの手を握った。祖母の下がったまぶたの奥の目は真っ赤だった。

「おすえ、それは誰に聞いたんだい」
「――長屋の人が立ち話しているのを聞いたの」

 土間に立つ祖父のため息が聞こえた。祖母はすえの手を握りながら苦しそうに顔を歪めた。

「じゃあ、お里たちはお前がその話を聞いたことを知らないんだね」

 すえはうなずいた。祖母もうなずく。

「そうかい。これはね、私たちが話して聞かせるより、お里たちが言わなくちゃいけないことなんだ。おすえ、ちゃんと話をしてあげてくれるかい」

 わかった、と言えなかった。父のことも母のことも大好きだけれど、だからこそ向き合うのが怖い。急に二人とすえの間には溝ができてしまった。顔を見た時、どうしていいのかわからない。
 黙ってしまったすえに、祖母は不安げな目をした。そこで祖父が畳の上にドカリと腰を下ろした。

「ごちゃごちゃ言うんじゃねぇ。おすえ、今はなぁんにも考えなくていい。今日はここに泊っていきな」

 祖父なりの気遣いが染みる。すえはまた泣きたくなった。
 この祖父ともすえは血の繋がりのない他人なのだと。それを精一杯押し込めながらすえは、ありがとう、とだけつぶやいた。



 泣いて泣いて疲れたすえは、長屋の隅で膝を抱えていた。祖父はあぐらをかいて畳の真ん中に座り、祖母は夕餉の支度に取りかかった。それでも、今までにないひと間の息苦しさだった。
 すえは自分の肩をギュッと抱いた。

 いつまでもこうしていられないのはわかっている。
 それでも、どうしたらいいのかわからなかった。日が傾いて、長屋の中に茜色が差し込む。その光から隠れるようにして、すえは壁から体を離さなかった。

 膝に顔を埋め、不安と戦う。血の繋がりがない親子などたくさんいるというのに、いざ自分がそれとわかってみるとこんなにも心細いものなのかと、一度は止まった涙がまた零れそうになる。
 そんな時、長屋の戸がなんの断りもなく全力で開かれた。

「おとっつぁん、おっかさんっ」

 今まで聞いたこともないような大声だった。驚いてすえは顔を上げた。
 夕日が影を落とした姿は、すえのいる場所からは黒っぽくしか見えなかった。それでも、その形でわかる。母だ。すえの母の里だ。

 手狭な長屋の中には隠れられる場所もない。すえは岩になってしまいたい気持ちだった。何も見たくない、聞きたくない。それでも、顔を伏せたすえを母は見つけたようだ。

「おすえっ」

 大声で叫んで長屋に飛び込んできた。
 母が何を言うつもりだろうか。けれど、すえは今、何を言われてもどうしていいのかわからなかった。来ないで、と思った。
 飛び込んできた母は、縮こまっているすえを見つけると、壁際から引っ張り出して力任せに抱き締めた。そうして――

 何かを言うことはなかった。
 うわんうわんと、まるで童女のようにして大声で泣いた。その大粒の涙がすえの上に降り注ぐ。締めつける腕の力も加減を知らず、ひたすらに痛かった。それなのに、すえはやめてと言えない。
 先にこんなにも泣かれたら、すえが泣けないのに。

「うるせぇなぁ、おい。いい年してガキみてぇに」

 祖父の呆れた声がした。
 そこから母が落ち着きを取り戻すまで、すえは黙っていた。ヒクヒクとしゃくり上げながらようやく腕の中のすえの顔を両手で持ち上げる。

「おかつさんが謝りにきたんだ。おすえに聞かせちゃいけないことを聞かせちまったって。それから慌てて探しにきたんだけど、無事でよかった――」

 すえは、目の前の母を相手に何と問うべきか迷った。母と、そう呼ぶことすら躊躇われる。
 そんなすえに母は一度唇を噛んでから言った。

「いつかは言わなくちゃって思っていたよ。それでおすえが傷つくのもわかっているけど、それでもいつかはって――」
「じゃあ、本当なの、ね」

 それだけを短く問う。すると、母はうなずいた。もうごまかせることではないのだ。
 すえの目から涙がボロボロと零れた。そんなすえの涙を母は自分の袂で拭った。そうして、意外なひと言をくれた。

「ありがとうね、おすえ」
「え――」
「そんなにも泣いてくれて、ありがとう」

 そう言った母も泣いていた。母の涙は拭われることなく顎から襟に滲む。それでも、母は笑ってみせた。

「おすえが悲しいって思ってくれている今の気持ちが、今までのあたしたちの間柄なんだ。こんな親は嫌だって、本当の親がいるならそっちに行きたいって、清々しないでいてくれてありがとう」

 本当の親のところへなどと、今はまだ考えてもみなかった。母と父との繋がりが切れてしまうことが悲しくて堪らなかった。
 二人のことがとても好きだから。それは事実を知った今となっても急に嫌えるものではない。
 母の声は次第にかすれていく。

「あたしたちには子ができなかったから、おすえをうちの子として育てることにしたのは本当だけど、自分の腹を痛めて子を産めなかったあたしが本当におっかさんになれるもんだろうかって、不安しかなかったよ。だから、それを隠すためにいつでも笑っていようって決めて、それで――」

 母の笑顔の裏にあるものに気づけるほど、すえは大人びてはいない。戸惑うすえに、母は精一杯の笑顔を向けてくれる。

「おっかさん、おっかさんっておすえが呼んでくれるたびに嬉しくって堪らなかった。子ができるまで、いつか赤ん坊が産まれたらああしてあげよう、こうしてあげようって考えていて、でもひとつもできなかったことをおすえが全部させてくれた。ありがとうね――」

 ありがとう、と何度も繰り返す。
 ありがとう、はすえの方なのではないだろうか。血の繋がらない子供を、こんなにも大事に育んでくれた両親に、ありがとうと告げねばならないのは――

 けれど、喉が苦しくて上手く言えなかった。声を出そうとすると、代わりに涙が零れてしまう。だからすえは広げた手の平で母の着物をギュッと握り締めた。母は、顔をくしゃりと歪めて、そうしてささやく。

「ねえ、おすえ。あたしはこの先もずぅっとおすえのおっかさんでいたいんだ。どんなことがあっても、ずぅっと――」

 血が繋がらないから、いつかは壊れる日が来る。そんなことは誰が決めた。他の誰でもない、すえが恐れただけなのだ。
 そんなすえの不安に、母は精一杯の心で向き合っていこうとしてくれる。それを感じた。

 この先、いくらでも恐ろしくなる日はあるのだろう。確かな繋がりがないと、引け目を感じて泣くかもしれない。
 それでも、今、この手を放してしまうことの方が余計にいけないことに思えた。この母以上にすえを思ってくれている人などこの世にはいない。生みの母がもし、すえを思って過ごしていてくれるのだとしても、きっと敵わないのではないかと――

 すえは泣きすぎてかすれた声で何度も何度も呼んだ。
 おっかさん、と。

「――さ、飯にするか」

 そう言った祖父の声は鼻を啜る音に紛れた。
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