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それは日差し柔らかく、日に日に春めいたあたたかさの増す頃であった。
文久二年(一八六二年)、代将マシュー・ペリーが黒船で来航した嘉永六年(一八五三年)よりさらに九年後。
世論が移り変わる不安定な時代でありながらも、庶民たちが忙しく毎日を過ごすことに変わりはない。これは、江戸から京までを結ぶ中山道六十九次最初の宿駅である板橋宿にて――
参勤交代の侍や江戸を目指す旅人たちが行き来する街道、荷駄がごった返す問屋場。それは慌ただしい宿場町の、いつもの光景である。
その板橋宿の中央、仲宿にある『つばくろ屋』という二階建ての平旅籠(遊女である飯盛女を置かない旅籠)の前で道を掃き清めるのは、このつばくろ屋の跡取り息子、高弥であった。この宿において跡取りとは、ただ大事にされ、棚の上に飾っておいてもらえるような身ではない。
跡取りだからこそ、丁稚がするような仕事もできなくてどうすると言われる。それをおかしいと思う間もなく大きくなってしまった。
高弥は前髪を落として間もない、初々しさの残る十六歳。顔立ちは男にしては優しく体も小柄であり、年よりも幼く見られがちだ。それを当人も少しばかり気にしている。
「今日もいい天気だなぁ」
塵を集めて取りきると、ううんと大きく伸びをして薄青く広がる春の空を見上げた。
雲ひとつない澄んだ空である。そこにまだ咲ききらぬ桜の枝が視界に被さる。
この時、高弥には決めていたことがひとつあった。月代を剃って一人前と認められたその頃に、自分を試してみよう、と。
そしてこのことは、あの桜が咲ききる前に父母へ告げる。高弥はそう己に課していた。
箒と塵取りを手に、つばくろ屋の頭文字『つ』を染め抜いた紺地の暖簾を割って中に入る。そうすると、その板敷にはそろいの縦縞のお仕着せを着た二人がいた。このつばくろ屋の番頭と手代である。
「ありがとうございます、高弥坊ちゃん」
ニコニコと愛嬌のある笑みを浮かべて高弥から箒と塵取りを受け取ったのは、手代の留七である。少し抜けたところもあるけれど、それが親しみやすくも感じられる。
「この宿ではおれが丁稚みてぇなもんだっておとっつぁんは言うんだから、掃除はおれの仕事。いちいちありがとうとか変だ」
そんな二人のやりとりを、帳場格子の中からあたたかく見守っていたのは、番頭の藤助だった。
「旦那さんも、高弥坊ちゃんが立派にお育ちになってお喜びでしょう」
渋みのある声で笑う。この番頭、藤助は、誰もが認める切れ者である。かといって偉ぶるでもなく、穏やかで優しい。目尻に皺を刻んで笑う藤助は、つばくろ屋の主である高弥の父よりも少し年上で、だから兄のようなものだと、父もこの藤助を頼りにしている。
そうして、高弥の妹の福久。近所でも評判の看板娘なのだが、十四ということもあって、まだまだ幼い。額にかかるうっとうしい花簪を挿し、上機嫌でやってきた。
「あんまりチャラチャラしたのは仕事の邪魔だ。仕事のねぇ日にしな」
きっぱりと言った高弥に、福久は現に引き戻されたようであった。
「そんなぁ。仕事のない日って、ほとんど毎日仕事じゃあないの」
それもそうなのだが、福久が動くたびに揺れる簪は目の端に入るだけで気が散りそうだ。
「兄さんの意地悪」
むくれて、福久は藤助の背中に隠れる。そういうところは小さい頃から変わらない。
――と、こんなところで油を売っている場合ではなかった。高弥は忙しいのだ。表の掃き掃除が終わったら、次の客が訪れるまでの間に夕餉の下ごしらえをしなくてはならない。
このつばくろ屋は主自らが包丁を握る、少し変わった旅籠である。もともと、父はこの宿の料理人であったのだ。それが縁あって一人娘である母の婿に収まり、この旅籠の主となった。
そんな父が作る料理は高級なものではないけれど、美味さが評判を呼び、その飯食いたさにつばくろ屋を目がけてくる客もいるほどだった。
真心尽くしのもてなしと料理自慢の宿、それがつばくろ屋なのだ。
高弥が裏手の井戸で手を洗い、前垂で拭きつつ勝手口から板場へ入ろうとすると、朗らかな声が障子戸を突き抜けて届いた。あの声は母だ。母の佐久は、常に誰に対しても笑顔を絶やさない。
高弥は深く息をして覚悟を決めると、戸を開けた。その途端、場が引き締まるのを感じた。
「遅い。表を掃くだけのことに時をかけすぎだ」
ぴしゃりと父に叱られ、高弥は身をすくめた。そんな二人を、母が畳の上でおろおろと見守っていた。
「高弥、頑張ってね」
こっそり言い残すと、母はそそくさと板場を去った。邪魔をしないためだ。
この板場にいる時、父は父ではない。師匠なのである。
「す、すいやせん」
恐る恐る謝る。高弥が頭を下げ、そうして上げると、父の整った顔が高弥に向けられていた。高弥の父、つばくろ屋の主である弥多は、役者のように整った顔をしている。
昔はそこまで厳しかったとは思わない。ただ、高弥が料理に興味を持ち、料理を覚えたいと言ったその時から、父は今まで以上に厳しくなった。
「まずそこの盥にある蕗の茎と葉を分けて、茎をまとめておけ」
「へい」
盥の中に、先の方が少し赤みがかった茎を持つ蕗が乱雑に入っている。山盛りで、かなりの量だ。蕗は甘辛く煮て伽羅蕗にすると美味い。ただし、手間がかかるのが難点だろうか。
一度煮て終わりではない。さっと煮た後、汁気を切ってひと晩乾かし、そうしてまた煮る。これを、蕗が黒に近いほどの色に染まるまで繰り返す。面倒だけれど、丁寧に仕上げることでより美味しくなるのだ。濃い味つけのため日持ちする上、白米がよく進む。
ここでもたもたしていると叱られるのがわかっているから、高弥は爪の先を蕗の灰汁で黒くしつつも急いだ。客と奉公人、家族の分。蕗は少しくらい捌いても減った気がしなかった。そんな間にも、父はしなやかな動きで包丁を振るっている。
美味しかった、疲れが癒えたと告げて、客たちがこの宿を発っていく。祖父が始めたこの宿を、三代目として引き継ぐのは高弥なのだ。無残に潰すようなことだけはしたくない。だから高弥なりに毎日この宿のことを思って学び、過ごしているつもりだ。
だからこそ、願うことがある。しかし、それをこの父に言い出すにはかなりの勢いが要るのだ。さて、どう切り出したものか。
そんな雑念を感じたのか、父が一度無言で土間の高弥に顔を向けたから、高弥はそれから一心不乱に蕗の葉をむしった。
そんなにも言いにくいのならやめてしまえばいいのかもしれない。いいや、そういうわけにはいかない。これは約束でもあるのだから。
高弥が初代つばくろ屋主である祖父、伊平と交わした大事な約束――
高弥が幼い頃、旅籠を営む二親は、何せ忙しかった。高弥はそんな二人の背を見てばかりいた。のんびりと相手をしてもらえた記憶はほとんどなく、高弥のお守りをしてくれていたのは、もっぱら隠居をした祖父であった。
「じいちゃん。ねえ、おいら、大きくなったらつばくろ屋を継ぐよ」
忙しく働く二親のことを誇りにしていた。それから、優しい祖父のことも。そんな大事な人々のために高弥ができる最大のことが宿を継ぐことなのだと、幼い頃から感じていた。
祖父は皺が深いながらに赤みのある頬を持ち上げて笑った。好々爺のそれはそれは優しい笑みだ。
祖父は常に笑顔であった。そんな祖父と一緒だと、高弥は少しも寂しくなかった。これを口にしたのは、大好きな祖父に喜んでほしかっただけの軽い気持ちからだ。
二人きりの縁側で祖父は、高弥を膝に載せて言ったのだった。
「それは嬉しいねぇ。でも、主になるんだったら、生半な覚悟じゃあいけないよ」
いつも優しい祖父が、笑顔で言った言葉は、思った以上に優しくなかった。高弥はぽかんと口を開けてしまった。
「どういうこと」
首をかしげた高弥に、祖父がゆっくりとうなずいた揺れが伝わる。
「主は宿と奉公人を守らなくちゃいけないからね。自分ばっかりが偉いような気になっていちゃいけないんだよ。でも、お前の周りは奉公人ばかりで、皆お前に厳しくはできないから――そうだねぇ、そのためにはうちで働くだけではなくて、他所様に修業に出て荒波に揉まれてきてからにするといい」
「あらなみだね。ふぅん、わかったよ。おいら、大きくなったら海のあるところへ修業に出る」
「そうかい。高弥、頑張るんだよ。海はなくてもいいから」
「うんっ」
苦労して旅籠を営んだ祖父は、商いの大変さを知るからこんなことを言ったのだ。それに気づいたのは、その祖父が亡くなってからであった。
宿は火が消えたように寂しくなり、訪れた客でさえ、祖父の死を知ると身内のように悲しんでくれた。それは祖父の人徳だった。
奉公人たちは嘆いてばかりもいられず、その祖父が残した宿を守り立てていかねばと、いっそう決意を新たにした。
二年が過ぎ、ようやく祖父のいない日常を受け入れられるようになったとも言える。
そんな祖父との約束だから、高弥はなんとしてでも他所の宿へ修業に出る。そうして、つばくろ屋を始めた祖父に恥じない主になって跡を継ぐ。修業は、どうしてもやり遂げねばならぬことなのだ。
修業に出ることを前提に、田舎者と見くびられないよう、高弥は江戸っ子らしく話すよう普段から心がけてきた。すべては立派な旅籠の主になるだめだ。
もちろん、この宿に勝るもてなしの宿などないと思っている。父のもとにいても学ぶことはまだまだ山のようにある。
修業に行くにしても、今は時期尚早なのかもしれない。それでも、祖父との約束ばかりでなく、自分が他所でどれほど通用するのかを試したい気持ちも芽生えた。それが胸のうちで膨らみ、焦り始めていたとも言えるけれど。
ただし、つばくろ屋は忙しい。だから高弥が抜ければ負担は皆にかかる。それがわかっていてのわがままだから言い出しにくいのだ。
まな板に向き合う父を、またじっと見た。それに気づいたのか、父が機敏に振り向くから高弥は肩を跳ね上げた。
「ぼさっとするな。七輪の用意をしておけ」
「へ、へいっ」
高弥は土間の片隅に寄せてあった七輪を抱え、慌てて外へ出た。
厳しい父だが、父はこれでも母には弱い。
婿養子だから肩身が狭いとか、そんな理由で弱いわけではない。若い頃から恋焦がれて、ようやく射止めた恋女房なんだとか。こっそりと教えてくれたのは、このつばくろ屋の初代番頭、利助という人であった。
一度見たら忘れがたい、目も鼻も口もはっきりとした男で、そんな見た目のわりには気さくで穏やかだ。高弥が幼い頃に独り立ちし、このつばくろ屋を去った。けれど、つばくろ屋に義理立てして板橋宿で宿を開くことをせず、どうせならと品川宿に移ってしまった。
当人曰く、板橋宿にはこのつばくろ屋がある。品川にはつばくろ屋のようなもてなしの宿がないかもしれないから、ここで学んだことを向こうで広めたい、と。
女房と一人息子を引き連れ、今は品川宿で無事に宿を営んでいる。徐々に客足も伸びているとたまに文が届く。宿を始めた際、名も利兵衛と改めた。
それに伴い、藤助が手代から番頭に、留七が丁稚から手代に上がったのである。藤七や留吉といった、それぞれに見合った名で呼ばれていた当時のことなど、高弥はすでに思い出せない。
高弥の願いが膨らんだのは、この利兵衛の影響が大きい。利兵衛は品川宿でのことを文に書き連ねて送ってくれていたのだが、それを読ませてもらうたび、高弥は修業に行くならあそこだと思うようになっていた。
その日、父と作り上げた膳は、浅蜊の味噌汁、独活の酢味噌和え、鰊の塩引き、揚げ出し豆腐、切り干し大根、香の物。伽羅蕗は一度煮て乾してあるけれど、客に出せるまでまだ数日かかる。
準備が整うと、いつも母と福久と、それから通い女中の日出とで配膳する。
すべての仕事を終えると、通いで来ている日出だけが帰り、他の皆で夕餉の席を囲む。板場の畳の上で主も奉公人も一緒に食べるのだ。
その席で、高弥はまず切り干し大根を最初に噛み締めた。大根の苦みは薄れ、味はよく染みており、噛めば噛むほど甘みを感じる。
その料理が一番美味いと感じられる時を計って順番に料理する。これも父のこだわりだ。
夕餉の後、客はもう寝静まった頃であるから、皆も眠るだけだ。けれど、高弥には道具の後片づけなど、板場の雑務が残っている。
火が落ちて暗くなった板場で行灯を灯し、洗っておいた鍋や盥などを拭いた。朝、少しでも乱れていると、また父に怒られる。
毎日のことであるから、片づけも手早くできるようにはなってきた。それでも、高弥はこの日、片づけを終えても板場にいた。ここで落ち着いて考えをまとめたかったのだ。
修業に行きたいと、どう切り出せば父は許してくれるだろうか。
どうせ行かせてもらえず、怒られるだけなら言わない方がいいのかもしれない。しかし、そんな思いを抱えたまま、身を入れて働けるものだろうか。実際にここ数日だけでも雑念がまとわりつくのを感じている。
はぁ、とため息をつくと、板場の障子が開いた。何をするでもなく畳に座っていた高弥がギクリとして振り返ると、戸を開けたのは母であった。
「たーかや」
なんとものんびりとした声である。母は高弥の悩みなどお構いなしに畳の上を歩いてくる。そうして高弥の隣に座った。
「まだ終わらないのかしら」
そう言って小首をかしげている。母は娘の頃から小町娘と呼ばれていたそうだけれど、年を取ろうと可愛い人というのは面の皮一枚のことではなく、内面から可愛らしいものなのだと、母を見ていると思える。
高弥は苦笑しながらつぶやいた。
「終わったよ。おっかさん、まだ寝ないのかい」
「寝るわよ。ただ、ちょっと気になっただけ」
ニコニコと、母は笑顔で言う。
「高弥、何か言いたいことがあるんじゃあないの」
そのひと言に、この母を見くびっていたことを知った。母はのんびりしているように見えて、なんでもお見通しであった。
「え、なんで――」
「わかるわよ。わたしは高弥のおっかさんなんだから」
そういうものなのだろうか。高弥は一度言葉に詰まり、それからぽつり、ぽつりと語り出した。
「わかるんだ、おっかさんには。うん――実は、ずっと考えていたことがあって」
「なぁに」
母になら、父に言うよりは言いやすい。いずれ父にも言わなければならないけれど、まず母から伝えてみようか。
高弥は頬を軽く搔いて口を開く。
「おれ、いずれこの宿を継ぐのなら、今のうちに他所の宿へ修業に出てみてぇ。それは若いうちじゃないとできねぇんじゃねぇかって思って――」
すると、母はつぶらな目をパチパチと瞬いた。驚いたのだろう。けれど、すぐにまた笑った。
「あら、そうなの」
あっさりと、それだけである。高弥の方が返答に困った。
「だ、駄目かなぁ」
「さあねぇ。おとっつぁんに訊いてみないと」
などと言って目は天井を仰ぐ。それはもっともであるけれど――
母は再び笑顔で立ち上がった。かと思うと、障子戸をカラリと開けて、客を起こしてしまわないようにひっそりとした声で外に向けて言った。
「おまえさん、藤助もちょっと来て。高弥が話したいことがあるんですって」
「ええっ」
心の準備ができていない。あたふたと思わず逃げ腰になった高弥だったけれど、逃げ出す前に父と藤助が板場に入ってきた。
母が作ってくれた機会なのだ。これはもう、覚悟を決めるしかないと高弥は腹をくくった。
父が母の横に座り、藤助がその後ろに控える。高弥は細く長い息を腹の底から吐き出し、そうして姿勢を正すと畳の上に指を突いた。
「おとっつぁん、一年他所の宿へ修業に行かせてくださいっ」
声が裏返りそうになった。それを抑えながらひと息に言いきると、後はもう父の顔を見るのが恐ろしかったせいもあり、深々と頭を下げて畳に額をつけたまま返答を待った。手が汗ばみ、震える。その緊張の中、父のひそめた声が夜気を震わせた。
「今のお前は半人前。他所に出したところでうちの評判を落とすだけだ」
予測はしていたけれど、ザクリと胸を抉る言葉である。ただ、それで傷つくのは、父の言葉が真だからだ。父から見れば高弥など、未だによちよち歩きの頃から変わりない。
けれど、ここで引いては余計に、そんな軽い気持ちで言い出したのかと呆れられる。一度口にした以上は必ず、それを通さなくてはならない。そう高弥に教えたのは、他でもない父なのだ。
「そうならねぇように精進しやす。皆に迷惑をかけちまうことも承知で行くんで、半端なことはしねぇつもりでおりやす」
ぐっと、畳の上の手を拳に変え、そこに力を込める。そんな高弥を、父はどんな目で見ているのだろうか。ただ、ぽつりと心情の読み取れない声で言った。
「もし本気ならば、これからふた月の間、もう少しは見られるように厳しく仕込む。うちの名を辱めないと私が思えたなら、その時に許しをやる。それでもいいか」
「へ、へいっ。無論で」
パッと顔を上げた高弥が見た、行灯の微かな灯りを受けた父の顔は、やはり何を思っているのか感じ取れない。後ろの藤助が苦笑している。
「それなら、明日から覚悟しておけ」
それだけを言うと、父は板場を静かに出ていった。藤助は動かず、そっと微笑んでいる。
「よござんしたね、高弥坊ちゃん。これから大変でしょうけれど」
「あ、ああ。でも、駄目だって言われると思ったからびっくりした」
そう、意外にも父は怒りもせず、突っぱねもしなかった。これからふた月後にそれが延びただけの話かもしれないけれど。
「おとっつぁんもああ見えて、本音は嬉しいのよ。高弥がそんなことを言い出すほど大きくなったんだなぁって」
嬉しいなんて、そんなことがあるだろうか。嬉しそうには見えなかった。
それでも、母が言うのならそう思うことにした。
●
それからというもの、高弥は、父は自分にいつも以上に厳しく接するのだと覚悟を決めていた。ただ、厳しくはあるものの、それは意外な面もあった。
「お前の腕は未熟だが、土台はできている。これからふた月の間に仕上げまでこなせる料理を増やしておけ」
「へ、へい」
宿の面汚しにならぬためではあるけれど、父も高弥の腕が他所で通用すると見込んでくれているのではないか。そんなふうにも思えたから、高弥も必死で父に食らいついて学んだ。
慌ただしくひと月が過ぎる。
桜は咲き、そうして散った。街道の賑わいもほんの少し落ち着きをみせる。
そんな中、仕事を終えて母屋へ戻った高弥を父が待っていた。仏壇の前で父は懐から文を取り出す。
「お前の願い通り、利兵衛さんに文で頼んでおいた。その返事がきた」
どきり、と心の臓が大きく鳴った。
品川宿へ行きたい。けれど気心の知れた利兵衛のところでは修業にならないから、できれば別の宿がいいと言っておいた。その返事だ。
「利兵衛さんが口入屋を介さずお声をかけてくだすったようで、その宿への請状も後々送って頂けるとのことだ」
話が着実に進んでいる。高弥は胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
新しい場所には高弥の知らないものがたくさん待っていて、それは素晴らしい、実りの多い時を過ごせる。
つらいこともあるだろうけれど、きっと充実した気持ちでこのつばくろ屋に戻れるはずだ。そうしたら、祖父の位牌に約束を守ったと告げるのだ。きっと、喜んでくれるだろう。
今からそれが楽しみでならない。
「ありがとうございやす」
父に向かい、深々と頭を下げる。仏壇に置かれた位牌は物を言わないけれど、高弥の旅立ちを見守ってくれているような、そんな気がした。
高弥を受け入れてくれるという宿は、平旅籠の『菖蒲屋』というところだそうだ。
水無月(六月)の品川宿は牛頭天王祭に加え、譜代大名の参勤交代の時期である。その頃には人手はいくらあっても足りないから、それに間に合うように来てほしいとのことであった。
しばらくは馴染むのに手間取り、段取りよく動けずに余計な迷惑をかけるかもしれない。だから、五月のうちに宿に入らせたいと父が利兵衛に文を書いたところ、すぐに請状が送られてきた。
それを携え、高弥はついに品川宿へと向かうことになった。
旅立ちには程よい日であったと思う。
夏の盛りほどお天道様が厳しいこともなく、冬の寒さに苛まれることもなく、初夏の晴れた空の下、高弥はつばくろ屋の前で家族と奉公人に送り出される。
品川宿までは、日本橋を経由したとしても四里半(約一七・六キロメートル)。若い高弥の足ならば余裕を持って着けるだろう。旅というほど大げさな道のりでもない。
明け六つ(午前六時)、高弥は菅笠と草鞋の他は旅装とは言えぬ縞の小袖、小さな風呂敷包みだけを手に頭を下げる。
「それじゃあ、行って参りやす。ご迷惑をおかけしやすが、何卒よろしくお願いいたしやす」
「藪入りには戻ってきてね」
母が名残惜しそうに言う。そんな母の袖をつかみながら福久が口を尖らせていた。
「兄さん、女郎遊びとか覚えちゃ嫌よ」
「おれは修業に行くんだって言ってるだろっ」
修業に出る兄を見送る言葉がそれかと高弥は憤るものの、福久の目にはうっすらと涙が浮いていて、寂しい故の憎まれ口かと思ったら怒りもスッと収まった。
「本当に途中までご一緒しなくてもよろしいのでしょうか」
留七がそんなことを言った。
「いいよ。おれだってもう子供じゃないんだから」
それくらい一人で行けなくて何が修業だ。修業はもう始まっているのだ。
それから父を見た。父は無言で、けれど静かにうなずいた。その目は穏やかで、師というよりも親らしくあったように思う。だから高弥も顎を引いて背筋を伸ばした。
背を向けて歩き出すと、いつまでも皆の心配が背中に絡みつくようであった。しかし、どこまでもそれが追ってくることはない。時が経てば皆、離れていく。
今は一人。それを強く感じた。繋いだ手を離された子供のような、覚束ない心持ちであった。
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