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1巻
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しおりを挟む「兄さーん、いってらっしゃーいっ」
人のまばらな街道に福久の声が響き渡る。きっと、大きく手を振って、泣きながら見送ってくれている。それがわかったけれど、高弥は振り返らなかった。振り返ったら、皆と離れがたいような気がして、今日と決めたのに出立を延ばしてしまいそうになるから。
振り返らない代わりに高弥は高く片手を挙げ、それから前を見据えて歩き出した。
つばくろ屋を訪れてくれた旅人たちもこんな気持ちで郷里を後にしてきたのだろうかと、ぼんやり思った。
まずはこの板橋宿を抜ける。つばくろ屋のある中央の仲宿から平尾宿(下宿)に向けて歩いた。まっすぐな街道を歩く分には道に迷うこともない。
平尾宿の一里塚を越えると、そこから二里半(約九・八キロメートル)で江戸日本橋である。旅人たちや農家の人々、何かとすれ違う人が多く、高弥は愛想よく振る舞って道行きを楽しんだ。
思えば、こうして一人で出かけることなどなかった。不安はあれど、気が楽とも言えた。
見る景色はすべて新しく、輝いている。風も心地よく頬を撫で、高弥は上機嫌で街道を歩いた。
江戸――日本橋に近づくと、日頃から宿場町の賑わいに慣れている高弥でさえ、圧倒されるものがあった。ぼんやりしていると道行く人に跳ね飛ばされそうな活気がある。
日本橋の南詰西側は、触書を書き記した木札が立つ高札場。そこで立ち止まっている人々はいるものの、東側は罪人の晒し場だ。北詰の東側にある魚河岸は朝早くから気の荒い男たちが集まる。だからぼさっとしていては危ないのだが――
高弥は橋の真ん中で、川風に吹かれながらぐるりと辺りを見回した。そこから見える江戸城と富士という、江戸っ子自慢の絶景を惚れ惚れと眺めたのである。
日本橋の擬宝珠の向こう側の風光に、なんとも胸が躍る。船乗りたちの誇り、押送船もちらほらと見えた。あの船が江戸へ魚を運んでいるのだ。粋筋の男たちが大柄の浴衣を捲り、駆け回っているのが見える。
橋の上から楽しく眺めていたけれど、すぐにハッとした。高弥はこれから修業先へ行くためにここを通るのだ。それを忘れていた自分を心の中で叱責し、それからひとつ息をついて踏み出した。
橋を渡りきると、東海道の始まりである。
大店の堂々たる看板と紺暖簾がずらりと並ぶ日本橋の通りを歩く。それこそ、武士も町人も入り乱れており、その中を駕籠かきが走り抜けていく。高弥は周りに気をつけながら人混みに交じった。隣の男の体臭までもが嗅ぎ分けられそうな中を、やっとの思いで抜ける。
日本橋を離れると徐々に道は空き、歩きやすくはなった。品川宿までは半日ほどで着ける距離である。
疲れたということはない。これから行く修業先のことを考えていたら、疲れなど感じない。
高弥が世話になる宿には、どういった人たちがいるのだろうか。利兵衛が選んでくれた宿なのだから心配はしていないけれど、中には反りの合わない相手だっているかもしれない。つばくろ屋の奉公人は、高弥が主の子であるから高弥に合わせてくれる。けれど、他所へ行けばそんなことはない。高弥の方が気を遣い、合わせなくてはならないのだ。
今まで誰かに対してとりわけ苦手だとか嫌いだとか、そういう気持ちを抱えたことはない。なんとかやっていけるだろうとは思うけれど。
高弥は胸を弾ませながら品川宿へと急いだ。
――東海道の品川宿、中山道の板橋宿、奥州街道の千住宿、甲州街道の内藤新宿を『江戸四宿』という。その江戸四宿の中で最も栄える品川宿は日本橋から二里(約七・八キロメートル)、東海道最初の宿場である。
品川宿はもともと目黒川を境界とし、北と南とに分かれていた。それが享保七年(一七二二年)に北品川宿のさらに北、無許可の茶屋などがごった返していた辺りがまとめられて、宿場の労役を負担することを条件に『歩行新宿』となった。南北の品川宿はそれに対し、本宿と呼ばれ区別されている。
品川宿は寺院が数多く建立されているが、遊楽の地でもあった。吉原に劣らぬと自負するほどの遊郭としての顔も持つ。旅籠の遊女である飯盛女の数は、五百という規定をはるかに超え、天保の頃にはその三倍近くいたという。
そうして、品川の誇りであったのは、八ッ山橋を越えた先にある『御殿山』。将軍家の鷹狩りの地であり、そののちに六百本もの桜の木が植えられ、庶民にも開放されて桜の名所となった。
けれど、それも時代の流れには逆らえぬものがある。
ペリー来航以来、その脅威を感じた幕府は、大砲を設置するための台場を建設するに至る。来航からふた月後には着手し、江戸庶民が集った桜の名所はそのために切り崩されてしまったのである。
しかし、御殿山を崩してまで埋め立てに必要な土を確保したものの、その運搬に費用がかかりすぎ、予定していた十一の台場のすべてが完成することはなかったという。その上、開国という結果に大砲は無用の長物となり果てるのだが――それをこの時代の人々が知る由もない。
そうした事情から、この時、高弥が見た御殿山はすでに切り崩された後であった。満開の桜を見てみたかったと思うものの、それは致し方のないことである。
それでも、高弥は木挽町、新橋、芝、三田と抜けていく。中山道との小さな違いは、少しばかり並木が少ないことだろうか。大きな違いは、言うまでもない。
ついにやってきたこの場所に、言葉にはできないような胸の震えを覚えていた。そこは、海原である。
どこまでも広がる青い海。
高弥の生まれ育った板橋宿に広い水辺はない。日本橋川でさえ高弥には珍しいものであったけれど、海となるとまるで違うのだ。
寄せては返す波を見飽きることもなく眺めていた。潮風とはこうしたものかと、高弥は街道の只中でそれを感じる。慣れない磯臭さが気になったのも初めのうちだけで、海鳥の鳴く声さえも興味深かった。
旅籠の客から話を聞くことはあっても、海を目にしたのは初めてなのだ。高弥が思い浮かべていたよりもはるかに海は広かった。波間の船の白い帆が鮮やかに浮き上がる。
さわさわと胸が騒ぐのは、好奇心だけではなく、この広い海原に対する畏怖のせいであったかもしれない。美しいけれど、一度呑まれたら浮かび上がることができない深み――。それを恐ろしく思う。
この馴染みのない海と、高弥は一年間つき合っていかなくてはならないのだ。
西に広がる田畑には大した興味もそそられない。潮騒に耳を傾け、潮風を胸いっぱいに吸い込み、高弥は再び歩き出した。品川宿はもうすぐそこだ。お天道様が真上に来る前に品川宿に足を踏み入れた。
ただし――
それは不慣れな地である。この時の品川宿の規模は板橋宿の比ではない。板橋宿よりも大きなところであるとだけぼんやりと知っていた高弥は、その街道におののいたのである。
日本橋の賑わいに劣らぬ活気がそこにあった。軒を連ねる茶屋には、足を休めている客も多い。高弥は、飛脚、駕籠、旅人や荷駄、忙しなく行き交う人々にぶつからないよう気を配りながら歩いた。
あまりにきょろきょろと辺りを見ていると、いかにも田舎者である。せめて堂々と歩こうと思うのだけれど、顔立ちの幼さから侮られることも薄々わかっていた。
少しだけ品川宿を歩いたところで、高弥は一度茶屋の店先で休むことにした。麦湯を一杯頼み、床几の上で懐を探る。請状と利兵衛の文をそこに入れてきたのだ。菖蒲屋の場所を確かめ直そうと思った。北本宿のどこかであったと思うのだが。
「あれ――」
懐に突っ込んだ指先に紙が当たらない。カサリと音もしない。
高弥は襟を広げて小袖の中を覗き込む。けれど、そこには何もなかった。
そうか、懐に入れたと思ったけれど、風呂敷包みの中だったかもしれない。落とすと困るから、そちらにしたような気になった。
高弥は風呂敷を解く。気持ちの焦りが結び目を固く感じさせた。もどかしい思いで開くと、そこには前垂と下駄、紙入れ、替えの下帯、手ぬぐい、襷くらいしか入っていない。
もしかすると、文机の上に置いたまま家を出たのか。いや、一度仏壇に供えたような気もする。それを確かに懐に入れたと思っていた。
入れた。そう、確かに一度は入れたのだ。そうなると、日本橋辺りでごった返す人に揉まれるうちに落としたのか。はたまた掏られたのか――
どちらにせよ、今、手元に請状がない。それは事実だった。
「どうすっかなぁ――」
高弥はがっくりと肩を落とした。
一度つばくろ屋に戻るか。しかし、戻ったところでそこにあるとも限らない。どこで失くしたのかが定かでないのだ。
第一、請状を失くしたなんて理由で家に戻ったりしたら、父がどんな顔をするのか、考えるのも恐ろしい。兄さんっておっちょこちょいよね、などと福久に嗤われるのも我慢ならない。
そこでふと気づいた。
利兵衛はこの品川宿のどこかにいるのだ。利兵衛を捜せば、この失敗もなんとか取り返せるのではないだろうか。
ただ、そこに差し障りがあるとすれば、高弥が一度も利兵衛の宿を訪ねていないことだろうか。会うのはいつも、利兵衛が家族を連れてつばくろ屋まで挨拶に来てくれた時なのだ。こちらから訪れたことはないから、宿がどこにあるのかがわからない。
宿の名はなんだっただろうか。それも聞いていないはずはないのに、今この時に思い出せない。高弥は茶屋の店先で唸っていたけれど、ここでじっとしていても始まらない。穴空き銭を茶屋の娘に手渡すと、真面目な顔をして訊ねる。
「あのさ、利兵衛ってお人を知らねぇかい」
瓜実顔の茶屋娘は小首をかしげた。
「さあ。どこの利兵衛さんで」
「ええと、旅籠屋の」
「どこの旅籠屋のさ」
「ど、どこかの」
それじゃあ捜しようがないと娘の顔に書いてあった。それは当然である。
ご馳走さん、とつぶやいて高弥は床几から腰を浮かせた。どこの誰に訊けばいいのかもわからないまま、旅人以外の人を選んで訊ねながら、利兵衛の宿を捜した。
けれど、この広い品川宿の中で旅籠屋の主を捜すのは、なかなかに骨が折れる。むしろ利兵衛の名よりも宿名がはっきりしていれば、まだ捜せたのかもしれない。
急に心細くなり、自分の愚かさが旅先で浮かれた心に突き刺さる。一体自分はなんのために品川宿までやってきて、その只中を歩いているのだろうか。
虚しい――寂寥が高弥の足に疲れを感じさせた。トボトボと、どれくらいか歩いた。駕籠かきの威勢のよさに押されながら端っこを歩く。
「あの、すいやせん。旅籠屋の利兵衛ってお人を知りやせんか」
棒手振の男を呼び止めた。客でもないただの若造に、棒手振は一度太い眉をひそめたけれど、高弥があまりにも心もとなく見えたのか、男はひとつ嘆息した。
「利兵衛さんなぁ。知らねぇよ。他を当たってくんな」
そうして走り出そうとした棒手振に、高弥はすがるような思いで言った。
「あの、じゃあ、菖蒲屋って宿を知りやせんかっ」
すると、男は意外にも、思い当たったようだった。
「ああ、あやめ屋な。それなら知ってるぜ」
そのひと言で高弥の心に光明が差し込んだ。
利兵衛が推してくれた旅籠だ。評判のよい宿のはずだから、その名を知る者は多いのだろう。最初から菖蒲屋を知らないかと訊ねた方が早かったのだ。
「す、すいやせん、菖蒲屋はどちらでっ」
思わず前のめりになる。棒手振はやや体を反らせて答えてくれた。
「お、おう。この先に行きゃあすぐだ。看板も出てるし、わかるだろうよ」
「ありがとうございやす」
勢いよく頭を下げた高弥に、男は軽く手を挙げる。高弥のせいで出遅れてしまったとばかりにそのまま駆けていく。
もう、この際、請状を失くしたのはどうにもならないことだ。正直に告げて謝ろう。そうして、直談判するしかない。それで駄目だと断られたら、その時にどうするか考えよう。
高弥はよし、と声に出して、腹に力を込めた。
腑抜けている場合ではない。成長した立派な男になって我が家に帰りたい。初っ端から躓いたけれど、まだ始まってすらないのだから、すべてはこれからだ。
棒手振が教えてくれたように、その宿は街道沿いにあった。ぶら下がった縦看板には確かに『あやめ屋』とある。ただし、とても字が薄い。その上、お世辞にも上手い字ではなく、読みづらい。いつから提げているものなのかはわからないけれど、はっきりとした字に替えた方がいいような気がした。あなのかおなのか、それも怪しく、下手をすると『おやめ屋』と読めてしまう。
――この時、高弥は菖蒲屋を見つけた安堵から、細かいことを考えられずにいた。注意深くこの宿の外を観察すれば、それが利兵衛の推した宿ではないとすぐに気づけただろう。安心安全の宿である証、宿講(旅籠組合)加盟を示す『講』の文字の看板はない。そのような宿に、利兵衛が大事な恩人の子を預けるはずがなかった。
瓦が一枚ずれた屋根。砂埃で白く汚れた土間。紺木綿の暖簾だけが真新しく、白抜きであやめ屋、とある。
そう、客の出入りが少ないため、擦り切れにくい暖簾である。
高弥はそのあやめ屋の暖簾を潜った――
「御免くださいっ」
呼び込みを得意とする母譲りの大声を、高弥はあやめ屋の前で発揮していた。
正面にいたのは二人の男女であった。
男は、四十路前くらいだろうか。ややこけた頬をした色黒の男で、目つきが厳しかった。もう一人の女は、その男よりもいくらか年嵩のようであった。桜鼠で霰小紋の地味な小袖。丸髷にも控えめな櫛が飾られているだけで、化粧をしていないせいか人相がどこか弱々しく見えた。
旅籠に客が訪れるには半端な時刻である。板敷の上に立っていた二人は面食らった様子で高弥に目を向けた。高弥は笑顔を向け、そうして頭を下げた。
「板橋宿つばくろ屋より参りやした、高弥と申しやす。どうぞよしなにお願い申し上げやす」
そう言えば伝わると思ったのだ。けれど、二人はわかってくれなかった。
男の方が低い声を発する。
「高弥サンとやら。よしなにってぇのはどういうことだい」
そう問い返された。もしかすると、あやめ屋の奉公人たちにはまだ何も知らされていなかったのかもしれない。高弥は困ってさらに言った。
「あ、すいやせん、宿の旦那さんにお会いできやせんか」
すると、男と女は顔を見合わせた。女がおずおずと口を開く。
「あたしはていって名で、この宿の主でござんすよ」
「へっ」
女主の宿だとは知らなかった。思わずその驚きが声に出てしまった。
その高弥に、ていは薄い笑みを唇に浮かべた。
「いえ、本当はあたしの亭主が主でござんした。それが死んじまって、それで仕方なくあたしがこの宿を引き継いだってわけで」
「それは――」
しんみりと返した高弥を、ていの隣の男が値踏みするように眺めていた。そんなにもおかしな恰好をしているわけではないと思うのだが。
「あの、利兵衛さんの口利きでここに一年奉公させて頂くことになっていたはずが、その、道中うっかり請状を失くしちまって――」
大事な請状を失くすような頓馬は要らぬと言われても仕方がない。高弥はその心配をした。もし駄目だと言われたらそれまでだ。尻尾を巻いて板橋宿に戻るしかない。
緊張で破れそうな胸を押さえ、高弥はていの言葉を待つ。ていは少しの間を置いて口を開きかけた。それを、隣にいた男がやや強めの口調で遮る。
「そこで待ってろ」
「へ、へい」
男は戸惑うていを促し、一度奥へと引っ込んだ。取り残された高弥は、大人しく土間で待つよりなかったのである。
○
「――ねえ、元助、あんた利兵衛ってお人を知っているのかい」
ていは客間に引っ込んだ途端、潜めた声でこのあやめ屋の番頭である元助に訊ねた。ていは、何をするにもまずこの元助に訊ねる。それが癖になっていた。
元助はこのあやめ屋で奉公を始めて二十年余り。ていの亭主が可愛がり、育てた奉公人なのだから、その信頼は厚い。
元助は、目をスッと細めてかぶりを振った。
「いいや、知りゃしませんよ。第一、頼んでもいねぇのに誰がこの宿に奉公人を寄越すってんですか。ありゃあ明らかに宿を間違えてるんでしょうよ」
「そうよねぇ。じゃあ、教えてあげなくっちゃ」
ほぅ、とていがため息をつくと、元助はそんなていをじっと見つめ、つぶやいた。
「いや、教えなくてもいいんじゃあねぇですか」
「えっ」
「ここに置いてやりやしょう」
元助の言葉に、ていは耳を疑った。口を押さえ、目を瞬かせていると、元助はニヤリと笑った。目元に小さな皺が刻まれ、それがまた凄みを感じさせる。
「いいじゃねぇですか。奉公したいって来たんですから。給金を支払うわけでもなし、精々こき使ってやりやしょうや」
「え、でも――」
こことは違う、どこかの宿が高弥を待っているのではないのか。それに、その紹介した利兵衛なる人物の面子も潰れてしまうだろう。
けれど、そんなことはお構いなしといった様子で元助は言った。
「いかにも世間を知らねぇ、いいトコの坊ちゃんじゃねぇですか。世の中の厳しさをここで学んでいきゃあいいんですよ」
クク、と元助は小さく声を立てた。
ていは、どうしたものかと思案するも、元助がそう言うのならば仕方がないとも思う。
きっと元助もすぐに飽きるだろう。それに、高弥も嫌になったら勝手に逃げ出すはずだ。高弥にはちゃんとした家があるようだから、嫌なら逃げ帰ればいい。
「ほどほどに、ね」
などと釘を刺したところで、ていの言葉には主としての威厳もなく、風が吹けば飛んでしまうほどの重みしかないのだと知っていた。だから、声はいつも弱々しく、そんな自分を責めては亡き亭主を偲ぶのだった。
○
高弥が待たされている間に、土間に一人の娘が現れた。このあやめ屋は二階建てではあるものの、つばくろ屋よりも小さい。娘は土間続きの先からやってきた。多分、土間の先は台所だろう。その娘よりも障子で仕切った向こう側の台所の様子が気になったけれど、その娘は素早くぴしゃりと障子を閉めた。
「あら、お客さんで」
そう言って、娘は小首をかしげた。
年の頃は十七、八、くらいだろうか。髪は銀杏返し、継ぎの当たった深緋の小袖。
肌は少し荒れているものの、色は白く顔立ちは整っている。上背が少々高めであり、高弥とそれほど変わりないように感じられた。それが高弥には切ない。
「こんな時分に珍しい。けど、すみませんねぇ。まだ支度が整っておりませんので」
今はせいぜいが昼四つ半(午前十一時)頃だろう。旅人が宿を取るにはおかしな時刻である。
「いえ、お客じゃありやせん。おれ、ここで奉公させて頂きに来やした」
すると、娘はあんぐりと口を開けた。
「奉公って、ここでですか。わたしたち、なんにも聞いちゃいませんけれど」
やはり話が通っていないようだ。高弥が来てから改めて切り出すつもりだったのだろうか。
「まあ、女将さんが決めることでございますから」
と、娘は苦笑する。
「わたしは女中の志津っていいます。ここへ来たのは六年くらい前でしょうかねぇ」
「おれは板橋宿つばくろ屋の高弥でござんす」
「板橋から。それはご苦労さんで」
ほのぼのとしたやり取りを繰り返していると、そこへていと奉公人の男が戻ってきた。男は志津を見て細い眉を跳ね上げる。
「なんだ、お志津。余計なことをくっちゃべってねぇだろうな」
「余計って、今ここで会ったばっかりですのに」
高弥のせいで志津が叱られてしまったのかと、高弥の方が委縮してしまう。
すると、男は高弥に目を向け、それから横柄な素振りで告げた。
「よし、上がりな。今日からこの宿で働かせてやる。その代わり、しっかりと働け。無駄飯食いならほっぽり出すぞ」
それを告げるのは、本来、主であるていではないのか。何故この男が主気取りでそんなことを言うのか、高弥にはよくわからなかった。
「ええと、お前様は――」
思えば、名も知らない。名乗ってすらもらえていなかった。
「俺は番頭の元助だ」
「元助さんでござんすね。わかりやした。よろしくお頼み申し上げやす」
胸の奥にほんのりと蟠りを抱えたまま、高弥は深々と頭を下げた。そうして、あやめ屋に迎え入れられたのである。
さっそく草鞋を脱ぎ、洗い桶で足を洗わせてもらったけれど、板敷を歩くと裸足の足の裏がざらついた。砂埃がここまで入り込んでいる。
つばくろ屋でも、一日に何度も板敷を拭かなくてはこうなる。表の道を掃き、打ち水をして砂埃を抑えても、やはり風の強い日には細かな砂が入り込むのだ。
ただ、ここは品川宿。板橋宿とは違った事情があるのかもしれない。潮風のせいでこうなるとか、何か理由があっても、今の高弥にはわからないことだらけであった。だからその汚れを気にしながらも、今は黙っていた。
そんな板敷の上で元助は大声を張り上げた。
「おぅい、政吉、平次、こっちに来な」
どうやら奉公人たちを呼んでいるようだ。二階からドタドタと足音を響かせて下りてきたのは、高弥とそう年の変わらない二人の男だった。丁稚と手代の間ほどで若衆といったところだ。
一人はそばかすの浮いた顔、もう一人は目が線を引いたように細い。どちらも上背は高弥よりも二寸ほど(約六センチメートル)高かった。このあやめ屋は奉公人にお仕着せを用意していないらしく、そろいの紺の前掛けにあやめ屋と屋号があるだけだ。
政吉と平次と呼ばれた二人は、高弥を訝しげに眺めていた。そんな二人に、元助はにやにやと笑いながら言った。
「今日からこの宿で働くことになった高弥だ。皆、面倒をみてやれよ」
えっ、と二人は声を漏らした。志津は何も言わず、どこか冷めた目をしているだけであった。
高弥は勢いよく頭を下げる。
「板橋宿の旅籠、つばくろ屋から参りやした、高弥でござんす。今日からお世話になりやす」
政吉と平次は顔を見合わせた。どちらがどちらだか、まだわからないけれど。
とにかく、高弥は笑みを浮かべた。けれど、高弥が笑っても、笑い返してくれる人はその場には誰もいなかったのである。
元助に対して渋々、へい、と返事をした。それだけであった。
この宿に馴染み、働けるように仕込むのにも手間がかかる。新参者は歓迎されないものなのかもしれない。
それでも、高弥は精一杯働こうと決めた。
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