東海道品川宿あやめ屋

五十鈴りく

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それから

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 この時の高弥は、ほんの少しあやめ屋を離れたからといって、品川からあやめ屋が消えてしまうはずもないと思っていた。
 もちろん、あやめ屋はなくならない。ちゃんと徒歩新宿のいつもの場所にある。看板が出ていないのも、暖簾が下がっていないのも、商いは明日からであるから別段おかしくはない。

 それなのに、何故だろうか。
 あやめ屋の前に辿り着いた高弥は、暑さに汗を滲ませながらも、かすかに身震いしていた。何かが、高弥の知るあやめ屋とは何かが違うような、そんな気がしてしまったのだ。

 そんなはずはない。気のせいだ、と高弥は風邪を通すために開け放たれていた入り口へ足を踏み入れた。胸騒ぎが収まらない。

 ドクドク、ドクドク、と心音が響く。
 この騒がしい品川宿で、己がただ一人で佇んでいるような、そんな莫迦ばかげた気分になる。

 それというのも、入ってすぐにある帳場の中が無人であるからだ。
 いつもならば元助が鎮座している。
 藪入りの時まで俺に仕事をさせる気か、と元助が顔をしかめながら出てきてくれればそれでいいのだ。

「高弥でござんす。只今戻りやしたっ」

 祈るような気持ちで高弥は声を張り上げた。
 ドクン、ドクン、とまだ胸は鳴り続けている。一体、なんだろうか、これは。

 不安な心を抱えながら立ち尽くしていた高弥の前に、客間の座敷から志津が出てきてくれた。それも、パァッと顔を明るくし、心底嬉しそうに迎え入れてくれたのだ。

「高弥さん、おかえりなさい」

 ただそれだけのことが、泣きたくなるほど嬉しかった。

「お志津さん、只今戻りやした。皆さんはどちらに」

 ていや元助、平次、浜――は実家が近いから、今日は戻ってこないかもしれない。
 浜以外の皆はどこだろうか。以前、板橋に戻った高弥が再びあやめ屋を訪れた時は、政吉も交えて皆が総出で迎え入れてくれた。それがとても嬉しかったのだ。

 主や番頭が修行中の料理人を出迎えてくれる方がおかしい。こんなものといえばそうなのだが、寂しくはあった。
 すると、志津は急に顔を曇らせた。

「女将さんと元助さんは客間よ。平さんは政さんを呼びに行ったわ」
「政吉さんをでございやすか」

 別におかしなことではないのだが、呼ぶからには何かがある。大体、ていと元助が客間にいるのもどうした理由からだろうか。志津の表情の意味も解せない。

「お客様がみえていて、それで政さんを呼びに行ったの」
「お客様って、商いは明日からでしょうに」

 すると、志津はかぶりを振った。先ほどよりもさらに困った顔つきになる。

「旅籠の泊り客じゃあないのよ。女将さんのお客様って言ったらいいのかしら」

 ていに客人が来ており、その客人に合わせるために平次は政吉を呼びに走ったと、そういうことらしい。しかし、高弥にはさっぱり事情が呑み込めなかった。
 呆然としていると、客間の戸が開き、そこからていが顔を覗かせた。

「高弥、おかえり。どうしたの、早くこっちにおいで」

 その時、見慣れているはずのていが別人のように感じられた。なんて嬉しそうに笑っているのだろうと。
 いつもはもっと控えめに微笑んでいる。それが、本当に輝くように笑っている。あんなにも嬉しそうにしているていを見たのは初めてかもしれない。

 ていを訪ねてきたという客人のおかげなのだろうか。
 あんなにも嬉しそうなていを前に、それでも高弥の胸騒ぎは消えなかった。それどころか、どんどん大きくなって広がっていく。

「へい――」

 履き物を脱ぐ。その動きが緩慢になった。そんな高弥を、志津は無言で見守っていた。その目が心細そうに高弥に絡む。
 志津もまた、何かを感じている。

 高弥は志津と共に客間へ足を踏み入れた。そこにいたのは、一人の男である。
 年頃は元助と近いのではないだろうか。やたら縞の着物の裾から、程よく筋が見える脛を立て、座敷に座っている。遊び慣れた鯔背いなせな風情だ。

 男は高弥にキリリとした目を向ける。

「おや、随分と可愛らしいのが来たじゃねぇか。この坊主は誰だい」

 可愛らしいとか、坊主とか、不躾ぶしつけ極まりない。いい気がしなかった。
 しかし、ていはそんな高弥の様子を気にするでもなかった。いつもよりもやや高い声で返す。

「この子はね、板橋からうちに来てくれている奉公人で、高弥っていうんだ。腕っこきの料理人なんだよ」

 すると、男はへぇ、と短く零した。少し面白がっているふうに見えた。

「そうなのかい。料理人たぁ、見た目じゃあわからねぇもんだな」

 さらにムッとしそうになった高弥であったが、この時、部屋の中でいるのかいないのかわからないほど静かにしている元助に気がついた。
 膝の上で拳を握り、大人しく正座している。顔にはどんな表情も浮かんでいなかった。

 こうした男は、元助が嫌いそうなものである。それが、こんなにもでかい顔をされていても何も言わない。ていを訪ねてきた客人だからだろうか。

「あの、女将さん、このお人はどこのどなたでござんすか」

 高弥はやっとそれを訊くことができた。
 そして、それを訊ねた刹那、やはりやめておけばよかったという気にもなった。ていの表情が揺らいだのだ。嬉しそうなのに、泣き出しそうにも見える。

「このお人は彦佐ひこざさんっていってね、あたしの――」

 その時、慌ただしい足音がていの言葉の先を遮った。二人の足音が重なり合って、そうして客間の戸が開いた。
 平次と政吉とが立っていた。平次は、ていと同じくらいには嬉しそうに見えた。
 政吉は、零れ落ちんばかりに大きく目を見開き、何度も瞬いた。

「そんな――」

 と、信じがたいものを見たかのように零す。そんな政吉に、平次は嬉々として言うのだった。

「ねっ、だから言ったでしょうが。そっくりなんだって」

 政吉の開いた口が塞がらない。
 そっくりだというからには、その相手がいるわけだ。このあやめ屋の皆が知る、誰かであると考えると、おのずと絞られてくる。
 まさか、と高弥は得体の知れない胸騒ぎが確かなものになるのを感じた。

「まあ、似ていてもおかしかねぇんだよ。兄弟だからな」
「だ、旦那さんの、兄弟――」

 やっとのことで政吉は息をついた。驚きが勝ちすぎると人は息をするのも忘れるらしい。

 この彦佐は、ていの亭主の兄弟――年からして弟であるということだ。皆のこの様子から、まるで瓜ふたつという程度には似ているのだとわかる。
 彦佐はほぅ、と軽く嘆息する。

「まあ、長ぇことやり取りもなかったしな。兄貴が死んでるなんて、俺もずっと知らなかった。だから、こんなに経ってから来ちまったんだ」
「あの人が亡くなって十年と少し。彦佐さんは、亡くなる前のあの人にそっくりさ」

 そう言ったていの目にうっすらと涙が浮かんでいた。ずっと健勝であった亭主が、火事の際に飛び出して行ったきり、今生の別れとなったのだ。ていにはなんの心構えもなく、そのことがよりつらかったのだろう。

 それが、今になってその亭主が死んだ時と同じ年頃の、そっくりな男が目の前に現れた。いろんなことを思い起こさせるのも無理はない。

「まあ、年も離れた兄弟だったからな。兄貴に取ったら俺なんて遊び相手にもならなかったぜ」

 などと言って笑う彦佐に、ていは優しく微笑む。

「でも、弟がいるとは聞いていたよ。どこでどこでどうしているのかって、気にしていたからね」

 それを聞くと、彦佐はばつが悪そうに口元を歪めた。

「まあ、フラフラしてたとしか言えねぇな。情けねぇが」
「それでも、顔を出してくれてありがとうよ。あの人もきっと喜んでいるから」

 ――そんなやり取りが繰り広げられている中、高弥は口を挟めたものではなかった。高弥はていの亭主のことを知らない。知らない高弥はここでは輪の中に入れないのだ。

 それは志津も同じであった。志津があやめ屋にやって来た時、すでにていは寡婦であった。
 輪の外にいるのは高弥と志津なのだ。だからこそ、志津は高弥が戻ってきて心底ほっとしたのではないだろうか。
 ここに浜も加わって、疎外感を覚えるのだ。

 しかし、彦佐はていの義弟。客人である。またすぐに去るのだ。
 ここはていが望むように丁重に扱わねばならないだろう。この落ち着かない時も今しばらくだ。そう思って高弥は顔に無理やり笑顔を貼りつけた。

 ただ、気になるのが元助だ。
 恐ろしいほどに無言である。その上、あれは元助を象った木彫りなのではないかと疑いたくなるほどに身じろぎひとつしない。

 元助は誰よりもていの亭主に恩義を感じ、亡くなった今も深く慕い続けている。
 だからこそだろうか。

 もう少し顔かたちが違えば、恩人の弟として歓待もできただろう。それがあまりに似ていて、元助も戸惑っているのかもしれない。
 平次はただ、懐かしい顔がもう一度見られて嬉しいと、単純に喜んでいるらしかった。

「ここは旅籠だから、遠慮なく泊まっていっておくれよ。高弥と平次が作る料理は美味しいんだ」

 ていの勧めに、彦佐は薄く笑ってうなずいた。

「そうだなぁ。兄貴が始めた宿だから、泊まってみるのもいいな」
「ぜひ、料理も食べていっておくんなさい」

 と、平次は張りきる。政吉も元助と同じく戸惑っているらしかった。眉を下げると、平次に向けてボソリとひと言。

「仕事が残ってるし、俺は戻るぜ」
「へい。じゃあまた」

 平次の糸目がいつもよりもさらに細く思える。ニコニコと、とにかく笑っている。

「高弥、台所へ行こうぜ」
「へ、へい」

 なんとなく勢いに押され、高弥は平次に引きずられるようにして台所へ向かった。台所は平次が綺麗に保っていてくれたようで、高弥が里帰りする前と何も変わらない。

「旦那さんはさ、そこにいるだけで華があるってのかな。旦那さんがいるところがいつだってかなめだった。おいら、小さい頃にはよく肩車とかしてもらったんだ。奉公人だけど、おいらがよその親子を物欲しそうな目で見てたのに気づいたのかもな」

 なんてことをはにかんで語り出した。平次が思い出を語ることは少ない。それは高弥に語っても高弥がていの亭主のことを知らないからだろう。それが、今はとても抑えきれないといった様子だった。
 あやめ屋のは変わらない。
 それなのに――平次の方がおかしくなった。

「旦那さんは塩辛が好きだったんだ。よくさかなにして酒を飲んでたからな。それも用意しねぇとな」

 高弥は思わず、眉根をキュッと寄せた。

「女将んさんの旦那さんがお好きだったからって、彦佐さんがお好きだとは限りやせん」

 当たり前だ。顔がいくら似ているからといっても別人なのだから。それも、長く別々に暮らしていたのだから、余計に。
 高弥に好き嫌いはないが、福久は椎茸が嫌いだ。同じように育ったって、顔が似ていたって、そうした差がある。

 そんなことも平次はわからないのか。まるで黄泉路よみじからていの亭主が戻ってきたかのようにして喜ぶ。
 憮然としていたのは高弥ばかりでなく、平次もであった。高弥の言葉が的外れであるかのように思えたのか。

「そんなの、好きに決まってら。おいら、ちっと買ってくるからな」
「――へい、わかりやした」

 別に、好きにしたらいいと思う。塩辛を用意した、しなかったからといってどうにかなるわけではない。ただ、高弥は平次の喜び方が変だと、『彦佐』という人を無視してていの亭主のおもかげを被せてしまうのは失礼なことだと思うのだ。それを平次にわかってほしいだけなのに、上手く伝わらない。

 平次が急いで買い出しに出た後、高弥は台所でポツリと言い様のない薄暗さと戦った。
 このあやめ屋で再びこうした気分になることがあるとは、思わなかった。

 早く彦佐が帰ればいいのに、と嬉しそうなていや平次を目の当たりにしているにも関わらず、高弥は思わずにはいられなかった。
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