東海道品川宿あやめ屋

五十鈴りく

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それから

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 盆が来る前に、元助はまたていの亭主の墓を訪れていた。ていや平次と別々に行くのは、きっとあの墓を前に話したいことがあるからだろう。

 今度は浜のことでも聞いてもらっているような気がした。最近の若ぇもんは何を考えてやがるのかわかりやせん、とでも愚痴を零していそうだ。そんな姿が目に浮かぶ。

 七夕の笹を取り払った後、あやめ屋に皆を残して高弥と浜はそれぞれ実家に戻る。

「じゃあ、藪入りのお暇を頂きやす」
「気をつけてお行きよ」

 ていが優しく送り出してくれる。元助は仏頂面で小さな紙包みを高弥に手渡した。

「持っていきな」
「なんでしょうか、これ」

 首をかしげた高弥に、元助はスッと目を細めた。嫌そうな顔にしか見えないが、嫌なわけではなく、何か言いにくいのだろう。

「品川海苔だ。前に佃煮をもらった返しにな」
「元助さん、律義なこって」

 思わず言った平次の頭を、元助が素早く叩いた。いい音がしたので、きっと痛かっただろう。照れ隠しも乱暴な元助である。

「ありがとうございやす。きっと喜ぶと思いやす」

 すると、元助はケッと吐き捨てた。

「お浜もまた藪入りから戻ったら気張って働いておくれよ」

 ていも浜を気遣う。皆、浜が戻ってくるのが嫌になるのではないかと心配しているのだ。
 しかし、当の本人はそんな心配をされていることなど気づきもしない。荷物を手に、力の抜ける笑みを見せる。

「あい、ここは皆さん優しいし、ご飯も美味しいから、あたし、いいところに来たなって思ってます」

 元助は眉根を寄せ、少し考え込むような顔をした。その『皆さん』の中に元助は含まれているのだろうかと。きっと、浜なら含んでいるのだろうという気がしたから、高弥はクスリと笑った。

「じゃあ、行ってきやす」

 今は平次が多少のことはできるようになっているので、高弥がいないからといって、以前のような塩っ辛い飯が出されることはない。それもまた安心して帰れる理由である。

 浜の実家がある品川の漁師町は反対方向なので、高弥は一人で歩き出した。家に帰ったらまず、仏壇に手を合わせて祖父に色々と報告したい。

 荒波に揉まれてというよりも、今は潮風に撫でられているような修行ではあるけれど、学ぶことは日々多く、とても充実しているのだと。修行には行った方がいいと勧めてくれた祖父に感謝したい。


     ●


 暑気にのぼせそうになりながらも、高弥はなんとか板橋まで辿り着く。最初に江戸市中を抜けて旅をした時の感動は、正直なところかなり薄れていた。だから、物見遊山ということもなく、さっさと歩くので気持ち早く着くのだった。

 実家に戻った時、やはりまっさきに高弥に気づくのは福久であった。手にしていた箒を中へほい、と放り、両手を振って高弥を迎える。

「兄さぁん、おかえりなさいっ」

 ああいうところが福久と浜は似ている、と高弥は苦笑した。

「ただいま、お福久。皆はどうしてる」
「相変わらずよ。藤助も留七も藪入りで家に帰っているけれど」

 そういえばそうだった。つばくろ屋の奉公人たちは実家がそれぞれにある。藤助は日本橋に実家があるのだ。ここへ帰ってくる途中に寄ればよかった、と高弥は今さらながらに思った。志津によろしくと言われていたのに、言えない。

「そっかぁ、残念だな」

 そんな高弥の手を引き、福久は暖簾のかかっていない宿の中へ入った。

「只今戻りやしたっ」

 声を張り上げると、タタタ、と軽やかな足音がして母の佐久が出てきた。

「おかえり、高弥。今度はちゃぁんと帰ってきたわね」

 そう言って、うんうん、とうなずいている。高弥は照れ臭くなって頭を掻いた。

「うん、まあ、今年は去年より少しくらいはゆとりもあるし」
「それはよかったわ。おとっつぁんは板場にいるから、ご挨拶してきなさい」
「へい」

 宿に客がいない時でさえ、父は台所にいる。少しはのんびりしてもいいのではないだろうか。あんなにも高弥の前を歩いているのだから、時には休んでくれないと一向に追いつけない。
 しかし、それが父らしいとも思える。

 板場の戸を恐る恐る開けると、父が振り返った。その顔は、いつもよりもほんの少し穏やかだ。客がいない分、気を張っていないのだろう。

「高弥か」
「へい、藪入りのお暇を頂いて戻りやした」
「向こうではどうだ」
「美味ぇ枝豆があって、それを使った料理が好評でございやした」

 と、高弥はあやめ屋での出来事を父に語った。父は話を遮らずに最後まで聞いてくれた。

「ほぅ。品川の魚は新しいからな。臭みもなく、枝豆の味も損なわなかったのだろうな」
「へい。血合いを外し、魚の切り身に酒と塩を振りかけて臭みを拭ってから使いやした」
「揚げ具合も肝心だな」
「そうなんで。そこも気をつけたところでございやす」

 二人、話が弾むのは料理のことばかりである。
 それから高弥は母屋へ行き、仏壇に手を合わせた。祖父はいつでも高弥を見守っていてくれると知っているけれど。


 それから、ゆったりと湯屋で疲れと垢を落とすと、夕餉に父が手打ちの蕎麦を出してくれた。
 父の手打ち蕎麦は皆の好物である。亡くなった祖父もこれが出ると上機嫌であった。それほどに美味い。その辺の夜鷹蕎麦とはわけが違う。

 ぶっかけの蕎麦を家族水入らずで囲む。ひと口目を啜ってすぐ、蕎麦の香りが鼻に抜ける。こしも強いのだが、その噛み応えと奥から滲み出す甘みがなんとも言えず美味い。高弥はこれを食べて育っているから、正直なところ、よその蕎麦をこれ以上だとは思えない。

 自分もこんな蕎麦が打てたら、あやめ屋の皆に食べてほしいものだが、なかなか上手くは打てない。並程度にはできるが、こうした料理ほど料理人の力量の差が歴然としており、父への敗北感でいっぱいになるので、高弥はあまり蕎麦に手を出していないのである。

 仲良く蕎麦を食べ終えると、母が楽しげな笑みを浮かべながらとんでもないことを訊いてきた。

「ねぇ、高弥。あなたももう十七だもの。誰かいい娘さんはいないのかしら」

 さっき食べた蕎麦の味が吹き飛ぶようなひと言である。高弥は思わず固まった。
 父は珍しく驚いた様子で母を見ている。福久はアハハ、と笑った。

「兄さんにはまだ早いんじゃあないの」

 そんなことは妹に言われたくない。ムッとして福久を睨み返した高弥に、母はあたたかい眼差しを向けていた。

「いいのよ、どんな娘さんでも。高弥が気に入ったなら一度連れてきなさいね」
「い、いや、おれにはまだ早いから――」

 福久に言われると腹が立つくせに、言っていることは同じである。
 しかし、母は首をかしげた。

「そうかしら。おとっつぁんがわたしが夫婦になる約束をした時、今の高弥とそんなに変わらなかったわよ」
「そうなの。ねえ、おとっつぁん、そうなの」

 福久が姦しく訊ねるものだから、父は閉口して黙り込んだ。あれはもしかすると、困っているのかもしれない。それを母も察したのか、福久に向けて優しく笑った。

「お福はもうちょっとここにいてね。こんなに早くお嫁に行っちゃったら寂しいじゃない」
「うん。竹蔵たけぞうさんも秀治ひでじさんも七五三太しめたさんもみぃんな断ったから平気よ」

 何か兄としては聞き捨てならないようなことを言ったが、断ったというのならまあいい。
 高弥自身のことからも話がそれて、思わずふぅ、と息をついた。すると、母の黒目がちな目が高弥に向いていて、妙に訳知りの笑顔を向けてくるのだった。

 ――何を察しているのか。
 こういう時、根拠など何もない女の勘とやらに怖気を震う高弥であった。


 そうして、穏やかに過ぎた藪入りだった。これはこれでいい骨休めにはなったが、あやめ屋で皆がどうしているのかということも気になるのだった。高弥の帰りを待っていてくれると思うと、あちらにも早く戻りたい。

 朝餉には炊き立ての飯に、元助の持たせてくれた品川海苔を撒いた握り飯を食べた。冷めても美味いだろうけれど、炊き立てはさらに美味い。味つけは塩だけだというのに、白米はどうしてこうも美味いのだろう。そこに酸っぱい梅干しが合わさって、外の暑さにも負けずに品川まで歩きつける力が湧く。

「じゃあ、今度戻るのはお正月ね」

 家族皆が表に出て送り出してくれる。母の言葉に高弥はうなずいた。

「へい。いってきやす」
「兄さん、お年頃だからって女郎遊びは駄目よ」
「だから、おれは修行に行くんだっていってるだろっ」

 いつもいつも、福久はひと言余計だ。憤慨する高弥に、父が苦笑する。
 高弥は少し考えてからそんな父に言った。

「ああ、そうだ。藤助が戻ったら、あやめ屋のお志津さんがよろしく言ってたって伝えておくんなさい」

 すると、父はピクリと眉を動かした。

「藤助にか」

 その途端、母が唐突に手をパンッと打った。

「ああ、あのお嬢さんね。話は聞いているわ」

 ほら、あの――と、母が父に目を向ける。それで父は何かを思い出したようだった。

「わかった。伝えておく」
「へい、お願いしやす」

 ぺこりと頭を下げ、高弥はきびすを返した。未だに残暑厳しく、高弥はお天道様が盛り出さない朝のうちにある程度歩ききってしまおうと先を急いだ。

 板橋のこの雰囲気も決して嫌いではないけれど、品川の華やかさとはまた違う。数日離れた品川を懐かしみながら歩く。毎日包丁を握ってきているから、一日でも料理をしない日があると、勘が鈍らないか心配になる。平次は高弥のいない間、何を作っているだろうか。

「さ、急ごう」

 独り言ち、高弥は意気揚々と品川を目指す。
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