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それから
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あやめ屋に戻ると、高弥は台所へ行き、平次に笑いかけた。
「只今戻りやした。今日はこの寺島茄子を焼き茄子にしやしょう」
「ん、ああ、いい茄子だなぁ」
平次もほっとしたように笑い返してきた。
高弥が平次の考えを言動で否定していたことを平次も気づいていたはずだ。少しばかりは傷ついたかもしれない。何もかもが違う相手だからこそ、その気持ちを読んで察することをしなければならないのだ。
高弥は不愉快で、それを考えられていなかった。まだまだ己は幼い、と反省する。こうして笑いかけ、壁を作らずにいれば、平次もまた高弥の言葉に耳を傾けやすくなるはずなのだ。
気長に、そう、焦ってはいけない。ここにいられる時は限られているとしても、だ。
「政吉さん、つぐみ屋まで足を運んで売り込んでいるそうで。祝言を挙げたばかりで張りきっているみてぇで頼もしいなって」
すると、平次もハハ、と軽く笑った。
「そっかぁ。恋女房のためだからなぁ」
「へい」
高弥も笑って、七輪を抱えながら外に出た。まだ少し早いが、焼き茄子はじっくりと焼かねばならず、数も多いことから結構な手間である。下準備だけでも先にしておきたい。
いつも念のために裏手の、すぐに井戸水が汲めるところで焼き物をする。ちょっとした油断が大火事に繋がるのだから、火を扱うのに慢心は禁物である。
用意だけすると、茄子を焼く前に諸々の雑用をこなす。近頃は部屋の掃除などといったことは志津と浜が主立って済ませてくれるのだが、洗濯などの仕事が多い時は高弥と平次も手伝う。洗濯は結構な力仕事であるから、疲れもするだろう。
高弥が掃除に使った水を溝まで捨てに行くと、洗濯を終えた浜が後片づけをしていた。志津と二人で洗って、干しておくようにと頼まれたのだろう。戸板に布をペタペタと貼りつけている浜の近くに高弥が来た途端、浜はハッとして振り向いた。
そして、それが高弥であることに気づくと嬉しそうに笑った。
「あ、高弥さんっ」
「うん、お浜ちゃんも手慣れたなぁ」
最初の頃はもっと手間取っていた。少しずつ慣れてきたと思うし、それを敢えて口に出して言ってやるべきだと思った。浜は大きくうなずく。
「あい。洗濯なら任せてください」
小さな体を得意げに仰け反らせる。無邪気な娘である。高弥もそれが微笑ましくて笑った。
しかし、浜はふと表情を萎ませる。それは珍しいことに思われて、高弥は首をひねった。
高弥が問う前に浜は口を開く。
「ねえ、高弥さん。あのお人、彦佐さんって、いつまでいるんですか」
いつまでと言われても、高弥には答えようがない。
「さあ、どうなんだろうな。おれも何も聞いてねぇから」
思いが顔に表れる。浜はそうした娘であるから、この表情からして彦佐をよく思っていないのは一目瞭然であった。
「あたし、あのお人、あんまり好きじゃありません」
きっぱりした声で言った。高弥は思わず後ろを振り返った。そこに誰もいないことに安堵する。ていや元助、平次にはとても聞かせられない。
狼狽えた高弥に、それでも浜は言った。
「女将さんの旦那さんって、あんなだったんですか。もっと立派なお人だと思ってましたけど」
「お、お浜ちゃん、あんまりそういうことを言っちゃいけねぇよ」
高弥が窘めたのは彦佐のためではない。新参の浜の立場が悪くなってはいけないからだ。
それでも、浜にはそこがきっとまだわからない。面白くなさそうに眉をハの字にし、ボソリと言った。
「だって。表向きはいい顔をしてみせていますけど、根っこはわかりませんよ」
浜もていの亭主を知らないから、彦佐そのもののを見る。そうして、いけ好かないと思った。
こう言ってはなんだけれど、高弥はそのことにほんの少しほっとしたのだった。彦佐を好きになれないのは高弥だけではなかった。
己があやめ屋の皆の心を攫った彦佐に嫉妬しているのではないかと、高弥は僅かながらに考えてしまっていたから。
高弥は浜に向け、そっと笑ってみせた。
「ほら、そんなに長居はしねぇと思うし。お浜ちゃん、女将さんの義弟さんだから、滅多なことは言わねぇようにな。我慢ならねぇと思うことがあればおれが話を聞くから、このことは他の誰かには言わねぇこと」
すると、浜ははぁい、と間延びした返事をした。
その時、いつの間にか後ろに志津が立っていた。気づいていなかった高弥は心底びっくりしたが、その高弥の慌てぶりに志津の方が驚いた。
「お浜ちゃんを呼びに来たんだけれど、お邪魔したのかしら」
「い、いえ、そんなこたぁ――」
「高弥さん、またお話を聴いてくださいねっ」
ニコニコ笑っている浜に、志津は首をかしげた。
「あら、なんのお話なの」
「内緒です。ね、高弥さんっ」
他の誰にも言うなと言った手前、何も言えない高弥である。
「う、うん。まあ――」
「あらそう。そろそろ呼び込みをしましょうね」
志津はひとつため息をついた。何故か、去り際の志津の目が冷ややかであったような気がしないでもない。新参の若い娘に浮かれているとでも思われているのだろうか。
だとしたらそれは誤解だ。むしろ、気があるのは志津なのだから、そんなわけはない。
――しかし、言えないのである。
黙って笑顔を貼りつけるしかなかった高弥は、心で泣いた。
「只今戻りやした。今日はこの寺島茄子を焼き茄子にしやしょう」
「ん、ああ、いい茄子だなぁ」
平次もほっとしたように笑い返してきた。
高弥が平次の考えを言動で否定していたことを平次も気づいていたはずだ。少しばかりは傷ついたかもしれない。何もかもが違う相手だからこそ、その気持ちを読んで察することをしなければならないのだ。
高弥は不愉快で、それを考えられていなかった。まだまだ己は幼い、と反省する。こうして笑いかけ、壁を作らずにいれば、平次もまた高弥の言葉に耳を傾けやすくなるはずなのだ。
気長に、そう、焦ってはいけない。ここにいられる時は限られているとしても、だ。
「政吉さん、つぐみ屋まで足を運んで売り込んでいるそうで。祝言を挙げたばかりで張りきっているみてぇで頼もしいなって」
すると、平次もハハ、と軽く笑った。
「そっかぁ。恋女房のためだからなぁ」
「へい」
高弥も笑って、七輪を抱えながら外に出た。まだ少し早いが、焼き茄子はじっくりと焼かねばならず、数も多いことから結構な手間である。下準備だけでも先にしておきたい。
いつも念のために裏手の、すぐに井戸水が汲めるところで焼き物をする。ちょっとした油断が大火事に繋がるのだから、火を扱うのに慢心は禁物である。
用意だけすると、茄子を焼く前に諸々の雑用をこなす。近頃は部屋の掃除などといったことは志津と浜が主立って済ませてくれるのだが、洗濯などの仕事が多い時は高弥と平次も手伝う。洗濯は結構な力仕事であるから、疲れもするだろう。
高弥が掃除に使った水を溝まで捨てに行くと、洗濯を終えた浜が後片づけをしていた。志津と二人で洗って、干しておくようにと頼まれたのだろう。戸板に布をペタペタと貼りつけている浜の近くに高弥が来た途端、浜はハッとして振り向いた。
そして、それが高弥であることに気づくと嬉しそうに笑った。
「あ、高弥さんっ」
「うん、お浜ちゃんも手慣れたなぁ」
最初の頃はもっと手間取っていた。少しずつ慣れてきたと思うし、それを敢えて口に出して言ってやるべきだと思った。浜は大きくうなずく。
「あい。洗濯なら任せてください」
小さな体を得意げに仰け反らせる。無邪気な娘である。高弥もそれが微笑ましくて笑った。
しかし、浜はふと表情を萎ませる。それは珍しいことに思われて、高弥は首をひねった。
高弥が問う前に浜は口を開く。
「ねえ、高弥さん。あのお人、彦佐さんって、いつまでいるんですか」
いつまでと言われても、高弥には答えようがない。
「さあ、どうなんだろうな。おれも何も聞いてねぇから」
思いが顔に表れる。浜はそうした娘であるから、この表情からして彦佐をよく思っていないのは一目瞭然であった。
「あたし、あのお人、あんまり好きじゃありません」
きっぱりした声で言った。高弥は思わず後ろを振り返った。そこに誰もいないことに安堵する。ていや元助、平次にはとても聞かせられない。
狼狽えた高弥に、それでも浜は言った。
「女将さんの旦那さんって、あんなだったんですか。もっと立派なお人だと思ってましたけど」
「お、お浜ちゃん、あんまりそういうことを言っちゃいけねぇよ」
高弥が窘めたのは彦佐のためではない。新参の浜の立場が悪くなってはいけないからだ。
それでも、浜にはそこがきっとまだわからない。面白くなさそうに眉をハの字にし、ボソリと言った。
「だって。表向きはいい顔をしてみせていますけど、根っこはわかりませんよ」
浜もていの亭主を知らないから、彦佐そのもののを見る。そうして、いけ好かないと思った。
こう言ってはなんだけれど、高弥はそのことにほんの少しほっとしたのだった。彦佐を好きになれないのは高弥だけではなかった。
己があやめ屋の皆の心を攫った彦佐に嫉妬しているのではないかと、高弥は僅かながらに考えてしまっていたから。
高弥は浜に向け、そっと笑ってみせた。
「ほら、そんなに長居はしねぇと思うし。お浜ちゃん、女将さんの義弟さんだから、滅多なことは言わねぇようにな。我慢ならねぇと思うことがあればおれが話を聞くから、このことは他の誰かには言わねぇこと」
すると、浜ははぁい、と間延びした返事をした。
その時、いつの間にか後ろに志津が立っていた。気づいていなかった高弥は心底びっくりしたが、その高弥の慌てぶりに志津の方が驚いた。
「お浜ちゃんを呼びに来たんだけれど、お邪魔したのかしら」
「い、いえ、そんなこたぁ――」
「高弥さん、またお話を聴いてくださいねっ」
ニコニコ笑っている浜に、志津は首をかしげた。
「あら、なんのお話なの」
「内緒です。ね、高弥さんっ」
他の誰にも言うなと言った手前、何も言えない高弥である。
「う、うん。まあ――」
「あらそう。そろそろ呼び込みをしましょうね」
志津はひとつため息をついた。何故か、去り際の志津の目が冷ややかであったような気がしないでもない。新参の若い娘に浮かれているとでも思われているのだろうか。
だとしたらそれは誤解だ。むしろ、気があるのは志津なのだから、そんなわけはない。
――しかし、言えないのである。
黙って笑顔を貼りつけるしかなかった高弥は、心で泣いた。
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