東海道品川宿あやめ屋

五十鈴りく

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それから

20

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 翌朝――
 客を送り出してすぐさま、高弥は湯屋を目指す。

「平次さん、これからおれ、毎日朝一番に湯屋へ行かせてもらいやす。仕事は全部、帰ってからこなしやすから、お願い致しやす」
「ん、ああ、いいけど。お前、そんな風呂好きだったかぁ」
「朝風呂のよさに目覚めたところでござんす」

 平次に元助を探しに行くと素直に言えないのはなぜだろう。平次が元助と彦佐とを天秤にかけた時、元助を選んでくれると信じきれていないからか。
 そんなはずはない。そんなことはないと思いながらも、一抹の不安が拭えない。

 ていは――元助が出ていってしょんぼりとしている。少しも平気ではない。食も細くなった。
 ただ、だからといって塞いでいても仕方がないのだ。ていにも何か行動を起こしてほしいけれど、気弱なていには難しいことなのかもしれない。

 あのしょんぼりには美味い料理も効かない。元助の仏頂面が薬だなんて変な話ではあるけれど、そうなのだ。
 もしくは、このまま時が経ってしまえばていもいずれは立ち直るのだろうか。元助がいないことに慣れていくのか。それはそれで悲しい。
 元助はていを喜ばせたかったとして、それがこんなふうに裏目に出ていることをわかっていない。元助が自分の値打ちをわかっていないから悪いのだ。


 高弥は手ぬぐいを持っていつもの湯屋へ急ぐ。途中、また海でも眺めていやしないだろうかと、あの背中を探すけれど、そう易々と見つかりはしなかった。
 湯屋へ着き、薄暗い中を見渡すも、やはり元助はいない。もしや、旅にでも出たのだろうかという気になってきた。

 思えば元助はずっとあやめ屋に縛られていたとも言える。そこから解き放たれ、自由に羽を伸ばしているのだとしたら。

 そうだとしても、旅ばかりでは疲れる。羽を休める住処は必要なはずだ。元助にとって、戻る場所があやめ屋であってほしい。そう願うのは高弥だけではないはずだ。

 風呂に浸かってさっぱりと垢を落としたものの、元助は見当たらない。かといって、ここで諦めてはいけない。
 高弥は普段、体を清めたらさっさと帰るだが、今日からは湯屋の二階に上がることにした。

 湯屋の二階は、湯を浴びた男たちがくつろぐ場である。碁や将棋に興じる老人もいれば、昨今の風潮を熱く語る学者のような男たちもいた。高弥はとりあえず、碁盤を挟んで向かい合う老人たちに声をかける。

「あの、すいやせん」
「今、取り込んでおる」

 うぅ、と唸りながら老人は高弥の方を見向きもしない。もう一人の老人は勝ち誇ったような笑みで高弥の相手をしてくれた。

「おお、どうしたね」

 誰でもいい。とりあえず訊ねることにした。

「旅籠あやめ屋の番頭で、元助ってお人を捜しておりやす。ここの湯屋にずっと通ってたんで、誰か見かけちゃいねぇかと思いやして。三十路も半ばを過ぎている、色が黒くて目つきの悪い、細くって上背ばっかりあるお人でござんす」

 なるべく正確に言ったつもりだが、老人は声を立てて笑った。

「おお、おお、知っとるよ。お前さん、元助さんの知り合いかい。それならあやめ屋に行った方が早いんじゃあないのかい」
「あやめ屋にいねぇんで、探しておりやす。――ってぇことは、元助さんを見てねぇってことでしょうか」
「うん、見ておらんな」
「そうでしたか。ありがとうございやす」

 丁寧に頭を下げた。しかし、心の中ではがっかりしている。
 そんなにもすぐに捕まるはずはないのだが。

 高弥は次に学者風の男に声をかけようとしてやめた。ああした賢そうな人からしたら、元助はどう見ても荒くれだ。関わりを持たぬようにしていたことだろう。

 そうなると、行儀のよい人よりはそこそこに砕けている方がいいのか。高弥は普段あまり近づかないような、浴衣をだらしなく着た男たちの集団に近づいた。
 正直に言って、普段なら避けて通る。けれど今はそんなことも言っていられないのだ。

「あの、すいやせん。あやめ屋の番頭の元助さんを見やせんでしたか。居場所を知りてぇんで」

 すると、男たちは顔を見合わせた。

「元助さんだってよ」
「あの元助な」
「坊ちゃん、あの男に近づくと怪我するぜ」

 などと言い合って下卑た笑い声を立てた。
 実際、怪我ならたくさんしたので、その言い分もあながち間違いではない。それよりも言い返したいのは、坊ちゃんという侮った呼び方だろうか。

 しかし、そんな些事にこだわっている場合ではない。スゥッと息を吸うと、高弥は男たちに折り目正しく名乗るのだった。

「申し遅れやしたが、あっしはあやめ屋の料理人、高弥にござんす。うちの番頭がいつもお世話様にございやす。火急の用でうちの番頭を捜しておりやす。何かご存じでしたら教えておくんなさい」

 すると、男たちは顔を見合わせた。

「ほぉ、その若さで料理人か。立派なこって。肝も据わっているなぁ」

 どうやら褒められた。
 この男たちなら何か知っているだろうか。高弥は期待してみたが、男たちは薄ら笑いを浮かべていた。

「そうだなぁ、教えてやりてぇところだが、ただでってわけにはいかねぇなぁ」

 高弥は、うっ、と言葉に詰まった。生憎のところ、高弥には自由になる銭はない。
 利兵衛に借りるかと思ったけれど、そこまで世話になるわけにもいかない。

 いや、これは高弥がどう出るのかを試されているのかもしれない。ここで怯んでは駄目だ。
 そう考えて、高弥は揺らいでいた目をギッと男たちに向けたまま、逸らさずに待った。

 そして――


「のこったのこったのこったぁ――っ」

 湯屋の二階に響く野太い声。
 高弥は碁盤を机代わりにして、大の男と腕押し(腕相撲)の真っ最中である。男の太い筋の浮いた腕に比べると、高弥の腕はなまっちろくていかにも弱々しい。けれど、それでも、高弥はもう片方の手を碁盤の角に添えて、体中から血を噴き出しそうなほどに踏ん張った。

「おお、若ぇの、もっと押せっ、押せっ」
「そんなちっこいのに負けんなよ」
「坊主、ほら、気張れっ」

 野次がうるさい。
 高弥は顔を真っ赤にしてりきむが、大の男相手に勝てるような腕力はない。最初から、勝てぬ勝負ではあったのかもしれない。それでも、万にひとつということもある。根性は見せるべきだろう。

 ぬぬぬ、と呻きながらも徐々に腕から力が抜けていくのを感じた。もっと気張らないといけないと思う反面、もし腕を痛めて包丁が握れなくなったらどうしようかという思いもあった。それが弱さになったのかもしれない。

 体ごと持っていかれるような感覚で、最後にはステン、と畳の上にひっくり返ってしまったのである。すぐには起き上がれず、風呂上がりだというのにさらなる汗を掻いて荒く息を整えていると、野次馬たちがやんややんやと手を叩いた。

「思ったより粘ったなぁ」
「ほんと、小せぇのに負けん気が強ぇな」

 小さくはない。体が小さいだけだ。それに、背は伸びた。
 言いたいことは山ほどあるが、とても喋れなかった。腕押しで勝てたら教えてやると言われたのだ。この男たちは何かを知っている。それをどうにかして教えてもらわねばならない。
 汗を垂らしながらも高弥がギラギラした目を向けると、男たちは面白そうに笑った。

「いや、元助の下で働いてるだけあって、大した根性だなぁ」
「大人しそうな顔して、気の強ぇ坊主だ」

 高弥がぜぇぜぇと息をしていると、男たちは互いに目配せし合った。そうして、ばつが悪そうに頭を掻く。

「悪ぃな、実は俺たちもここ数日は元助のことなんて見てねぇんだ。ちょいとお前さんをからかってみただけでな、すまん」

 そのひと言で、高弥は一気に脱力した。せっかく立ち直りかけたのに、またしても畳の上にへたり込んだ。

「そんなぁ。あんまりで、ござんす」

 こんなに気張ったのに、ひどい。
 しかし、男たちも案外気のいい連中であった。

「悪ぃ悪ぃ、その代わり、見かけたらすぐに知らせてやるよ」
「へい、お願い、致しやす。今日でも、明日でも、明後日でも、見つけ次第、あやめ屋の、高弥まで、お知らせ、くだ、さい」

 意気が整わず、切れ切れにそう告げた。
 収穫はまったくなかったというわけではないと思いたい。高弥はやっと起き上がった。

「元助のやつ、戻ってこねぇのか。あいつ、喧嘩を吹っかけられやすいツラしてやがるからな。どっかで伸びてるんじゃねぇのか」

 不吉なことを言われた。むしゃくしゃしている元助が手当たり次第に売られた喧嘩を受けていたらどうしようか。

「いや、腕っぷしだけは強ぇからな。けどよ、厄介事に巻き込まれてねぇといいな」
「――へい」

 その厄介事は、あやめ屋の中にある。その渦の中から元助は飛び出したのだ。そこへ再び引きずり込もうとしているのは高弥の方である。

 高弥は朝からひどく疲れながら湯屋を後にした。右の利き腕がプルプルと震えている。
 しばらくは引きずりそうだった。
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