東海道品川宿あやめ屋

五十鈴りく

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それから

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 高弥があやめ屋に戻ると、帳場格子の中に座っている彦佐が志津をつかまえて話し込んでいた。楽しそうなのは彦佐だけで、志津は困ったように相槌を打つばかりである。

「只今戻りやした」

 高弥がその場に入り込むと、志津はこれ幸いとばかりに頭を下げて奥へ去った。彦佐は少しばかり残念そうにしていたが、追いかけるまではしなかった。

「おお、おかえり」

 一応、高弥にも彦佐は愛想を振り撒く。高弥はその軽薄な顔に言った。

「彦佐さん、旅籠屋の番頭の仕事はどうですか」

 すると、彦佐はあはは、と笑った。

「ああ、いい仕事だな。こうして座ってお客に記帳してもらえばいいんだから」

 耳を疑うようなことを言われた。なんの冗談だろうか。

「――ええと、旅籠屋で働いていたことがあるってぇお聞きしやしたが」

 そこの旅籠の番頭が、座っているだけの男だったのか。元助も一見そうは見えるが、あれでなかなかに細かく帳面をつけ、あやめ屋の金の流れを把握している。

 彦佐はうっとうしいほどに何度もうなずいた。

「まあな」

 嘘だろうな、と思った。
 高弥でさえ思うのだから、元助が気づかなかったとは考えにくいのだが。

「彦佐さんはここに来る前はどうされていたのでしょう。旅籠屋には何年ほど奉公されていたので」

 他の誰も訊こうとしなかったことを、高弥はあえて口にした。それでも、彦佐は答えを用意してあったのだろう。

「ん、まあ、うちは百姓だったからな、俗にいう椋鳥むくどりってやつよ。手の空いた時だけ手伝いに行っていたのさ。だから、何年って言われると、ちっと答えにくいんだが」

 椋鳥というのは、冬場の農閑期に田舎から江戸まで出稼ぎにやってくる農民である。
 参勤交代の供をする助郷努めで、村人が賑わう江戸や四宿にやってきて身持ちを崩すという話はよく聞くが、椋鳥もまた、そうしたことが起こり得る。
 地味で苦労の多い農作に嫌気がさし、そのまま帰ろうとしない鳥もいることだろう。
 この彦佐もその類か。そうでなければ、秋が間近に迫った今、ここで旅籠屋の番頭の真似事などしているはずがない。

 ちなみに、天保十三年(一八四二年)、老中水野忠邦によって出された天保の改革、その中に『人返し令』なるものがあり、先の飢饉からの立て直しを図るため、安定した年貢を取り立てるため、農民の出稼ぎを禁じた。江戸に住み着いた農民を農村へ押し戻そうとしたのである――が、二年で水野忠邦は失脚し、改革は頓挫したのである。そう上手くいくわけもない。

 つばくろ屋の手代、留七とめしちも農村の出であり、子供の頃に丁稚としてつばくろ屋に来た。子だくさんの家の子供たちはそうでもしなければ居場所もない。百姓から町人になることなど多くある。金を積めば武士にだってなれる昨今なのだ。

 色々と考え込んだ高弥を、彦座はじっと見ていた。ていや平次とは違い、高弥に『この顔』が通用しないことをいい加減に気づいているのだろう。扱いにくいと思ったに違いない。やや雑な口調で言った。

「なあ、お前さんは板橋宿の旅籠屋の跡取りらしいな。跡取りがいつまでもフラフラしてるのはよくねぇんじゃねぇのか」

 高弥がいない方がこの宿で好き勝手できると踏んだのだろうか。妙に邪険に聞こえた。
 しかし、今、高弥が彦佐と揉めたのでは、元助が出ていってただでさえ気落ちしているていに負担がかかってしまう。高弥はグッと堪えた。

「うちの父は若ぇんで、まだまだ隠居するつもりがありやせん。だから、平気なんでござんすよ」

 すると、そうかい、と鼻白んだ様子で彦佐はつぶやいた。
 高弥は軽く頭を下げて台所へ戻る。

「平次さん、お先でした」

 まな板を拭いていた平次に声をかけると、平次は驚いて振り返った。

「高弥、いつ戻ったんだよ」
「今でござんす。ちゃんと戸を開けて入ってきやした」

 その音が聞こえないほど夢中になってまな板を拭いていた。それは考え事をしていたということだろう。この現状ではそれも無理のないことかもしれない。

「――女将さんの旦那さんや彦佐さんは元々農家の出だって、今、彦佐さんにお聞きしやした」

 すると、平次は手にしていた手ぬぐいを握り締めながら高弥に体ごと向けた。

「ああ、旦那さんは農村からこっちまで出稼ぎに出てきたら、知り合いが増えて、それで何かと頼りにされるうちに結局こっちに居ついちまったって言ってた。女将さんともこっちで出会ったし、あんまり丈夫じゃねぇ女将さんを農家の嫁にしたんじゃあ、体が持たないだろうって」

 確かに、農家の嫁は力仕事も多く働き詰めだと言う。ていには難しいかもしれない。
 故郷よりも女房を選んだことが褒められるのかどうかはわからない。それでも、そういう人であったのだ。守りたいものがはっきりと見えていた。目の前のことから目を逸らせない、まっすぐな人であった。
 当人を知らない高弥でさえもそう思えた。


 高弥が盥を持って裏手の井戸に行くと、どこからともなく浜が飛んできた。

「高弥さん高弥さん高弥さんっ」
「一回呼べばわかるって」

 思わず言ってしまうほどにはやかましかったが、高弥は苦笑しながら盥を井戸のそばに置いた。釣瓶を手に取りながら浜を見遣ると、浜はひどく怒っているように見えた。その怒りは高弥に向けたものではないということだけしかわからなかった。

「お浜ちゃん、どうしたんだい」

 思わず問うと、浜は頬を膨らませながら言った。

「彦佐さん、お志津さんにべたべたするんですっ」
「へっ」
「そりゃあお志津さんは美人ですけど、お志津さん迷惑そうで。でも、今は彦佐さんが番頭さんなんでしょう。迷惑だなんて言えないじゃあないですか。それがわかっててべたべたしてるみたいで、なんかいやらしいんですっ」

 そういえば、さっきも彦佐は志津を呼び止めて喋っていた。志津はただ、仕事の手を止められて困っているのだと思ったのだけれど、そればかりではないらしい。
 浜は小さな握りこぶしを自分の太ももにポンポン、と叩きつけて憤る。

「元助さんは顔だけおっかないけど、あんなだらしなくなかったでしょう。あたし、元助さんの方がいいっ」

 それは高弥も同じである。しかし、まだ元助を連れ戻せる算段がつかない以上、連れ戻すとも言えなかった。

「お浜ちゃん、おれも気をつけて見ておくから。お浜ちゃんもお志津さんが困っているようなら助けてやってくんねぇか」

 すると、浜は大きくうなずいてみせた。

「もちろんですよ。お志津さんはあたしの姐さんですもん」

 いつの間にやらすっかり懐いているようだ。高弥はささくれた心にほんの少しのあたたかみを感じることができた。
 後でていのところへ行って少し話をしようと思う。ていの正直な心のうちを知りたい――
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