従順な氷の執行人は、地獄の果てで愛を乞う

一条 柊

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第一章

02 . 支配する者、される者

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「遅かったな、怜」



低い声で言って手元の猪口を煽る姿は、様になっておりなんとも言えぬ美しさがそこにはあった。



この男の名は嵯峨 蓮次  さが  れんじ

神代組の若頭であり、次期組長候補の筆頭だ。
久我より五つ年上で、彫りの深い顔立ちと、獲物を射抜くような鋭い眼光を持っている。

また、彼も久我のように珍しい年齢で、この地位まで上り詰めた男だった。


久我にとっては直属の上司であり、同時に、決して抗えない「天敵」でもあった。



久我は一礼し、嵯峨から少し離れた位置に腰を下ろす。



「申し訳ありません。港の検品に手間取りました」

「いい、座れ。……雨に濡れたか」



嵯峨の手が久我の頬に伸び、嵯峨の指が拭いきれなかった雨粒で濡れた一房の髪を耳にかける。

嵯峨の指先が掠めるように肌に触れた瞬間、久我の身体がほんの微かに強張った。



「……若頭、人目があります」


「何を言う、ここには俺とお前しかいない。それとも、俺に触れられるのがそんなに嫌か?」



試すように言いながら、嵯峨の瞳に温度の低い愉悦が混じったのを久我は見逃さなかった。

久我は視線を伏せ、静かに答えた。



「滅相もございません。私は、貴方の道具ですから」



その言葉を聞いた瞬間、嵯峨の表情から笑みが消えた。
彼は一切抵抗をしない久我の顎を強引に掴み、自分の方へ向かせる。



「道具、か。……なら、その道具をどう使おうと俺の勝手だな」



強引に引き寄せられ、2人の距離が一気に狭くなる。
久我の唇に嵯峨の熱い息が触れ、外を叩く雨音だけが、二人の間の張り詰めた沈黙を埋めていた。


「…」


久我は少し驚いたが、静かに目を閉じ、抵抗しなかった。
それが、この過酷な血にまみれた世界で彼が選んだ「生き方」だったからだ。

しかし、伏せられた瞼の奥にある彼の瞳は微かに揺れていた。


そんな久我の顎を掴む嵯峨の指先には、逃げ場を許さないほどの力が込められていた。


そんな他の者を寄せ付けない雰囲気が流れる中、ただの沈黙に、雨音と遠くから聞こえてくる誰かの話し声だけが響いていた。



 何も起きない…?



そう思って目を開けると、そこには光の反射すら許さないような漆黒の瞳があった。


久我は呼吸を乱すまいと抗うが、至近距離で見つめてくる嵯峨の瞳は、彼の肺の奥まで見透かしているようだった。



「……若、頭……」


「そうやって呼び続けるがいい。
だがな、怜。お前がその澄ました顔で俺に従うたびに、俺の中の汚い部分が疼くんだよ。お前を無茶苦茶にして、その鉄面皮を剥ぎ取ってやりたいとな」



嵯峨の唇が久我の耳元に寄せられ、熱い吐息が皮膚を焼く。久我は奥歯を噛み締め、じっと耐えた。

彼にとって、この男に屈すること、献上することは日常であり、同時に自分という存在を繋ぎ止める唯一の方法でもあった。



なぜなら久我にとって嵯峨には返しても返しきれない恩があるからだ。




***




当時二十歳の久我は、名門大学で法学を学ぶ傍ら、その明晰すぎる頭脳ゆえに周囲から孤立していた。

家族を早くに亡くし、奨学金と深夜のアルバイトで食い繋ぐ日々。彼の瞳は、未来への希望ではなく、凍てつくような「無」を宿していた。


運命が狂い始めたのは、そんな日々を送り続けていたある冬の夜。
久我がバイト帰りに通りかかった裏路地で、神代組と対立組織による激しい抗争の現場に、偶然居合わせてしまったことだった。



「…っ?!」



派手な音が響き、少しの興味本位だけで顔を覗かせると、息を飲む光景が広がっていた。

ただ決められた生活を送っていただけだった当時の久我にとってはあまりにも衝撃が強すぎたのだ。


そんな久我の目に映し出されていたものは、路地裏には血の海の中に立つ一人の男だった。

返り血を浴び、息を切らしながらも、獲物を屠った後の猛獣のような眼光を放つ若き日の嵯峨蓮次だ。


周囲には数人の男たちが転がっている。普通の人間の大学生なら、腰を抜かして逃げ出すか、叫び声を上げる場面だ。

だが、久我は違った。

何故かこの惨状に、足が縫い付けられたように動かず、目が離せなかった。



決して恐怖によるものではない、それだけは確信できた。



「……急所を外しています。その男はまだ生きていますよ」



性格故か、こんな状況を見ても意外と冷静にいられるらしい。

だが、口から出た言葉を理解した途端に何を口走っているんだ自分は、と頭を殴りたくなった。


驚いた顔を見せ、手に持っていたドスを構え直して久我を睨みつけた




「……何だ、貴様は。死にたいのか」




その問いを深く考えることはなかった。

今の生活は何の面白みもなく、ただ苦痛の中で過ぎていくのを待つだけだった。



「死ぬのは怖くありませんが、効率の悪い仕事を見るのは不快です」



どこかサイレンの音が聞こえた気がした。



「その角度で突いても、出血多量まで時間がかかる。……警察が来る前に終わらせるなら、もっと深く、左に三センチです」



久我は淡々と、解剖学的な知識を持って死の助言を口にした。

嵯峨は一瞬呆気に取られたが、次の瞬間、腹の底からこみ上げるような笑い声を上げた。



「……面白い。カタギの学生が、俺に殺しの教唆か。……名前は?」



「……久我、怜です」



驚くほど簡単に名前が出てきた。

普通こんな血に染った人間に名を教えるなど言語道断、死にたい者がする事だ。



「怜か…お前に似合う良い名だ、覚えておこう」



そう言ってドスを仕舞い、少し周囲を気にして暗い闇へと消えていった。

……この出会いだけで終わるはずだった。





しかし、その数日後、久我はアルバイトを解雇され、さらに親戚が遺した多額の借金を背負わされるという理不尽な窮地に立たされてしまった。

絶望に打ちひしがれ、夜の橋の上で欄干を見つめていた久我の前に、黒塗りの車が止まった。


降りてきたのは、あの夜の男 ──嵯峨だった。



「数日ぶりだな」


「…こんばんは」



嵯峨は久我の全てを諦めたような姿を見てか、口角を少し上げて両手を軽く広げた。



「行く当てがないなら、俺が買ってやる。その誰にも動じない姿、冷めた頭脳、俺の覇道のために使ってみろ」



久我の脳内に、数日前に見た血にまみれた惨状が流れた。



「…自分は人を殺したことも、裏社会の作法も知りません」


「そんなもの教え込んでやる。お前は俺のために尽くせ。その代わり、この世のどんな理不尽からも俺が守ってやる」



嵯峨の手が、久我に差し出される。
久我はその大きな掌を見つめた。これまで誰も差し伸べてくれなかった手。

血の匂いがするが、誰よりも力強かった。


2人の間を冷たい夜風が吹き、髪が少し揺れた。




久我はその手を、迷わず掴んだ。


それが、光の当たる世界を捨て、「氷の執行人」として地獄へ堕ちる契約の瞬間だった。







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